KODANSHA INTERNATIONAL LTD.刊
Hyoe-Murakami著
『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100
『The Potsdam Declaration was published on July 26 in in the name of Truman, Churchill, and Ciang Kai-shek. With in the Japanese government, it was Foreign Minister Togo who insited most strongly that Japan should agree to its terms; he had taken note of the fact that they could be interpreted as implying something other than unconditional surrender. The fact that Stalin was not among the signatories of the declaration also gave him grounds to suppose that the Soviet Union, faithful to the neutrality pact, and had mediated on Japan’s behalf. The terms laid down in the declaration-the limiting of Japanese territory to the four main islands, the restriction of the function of the Japanese government, occupation, disarmament, and the punishment of war criminals among them-were extremely harsh, and there was plenty of food for doubt and uneasiness; yet, as Togo saw it, to let this opportunity to begin negotiations go by would be even more fatal. Nevertheless the opposition of the military was as implacable as ever. Suzuki put forward compromise proposal, whereby the press was to report the declaration without any comment whatsoever, thereby giving a signal that Japan was paying heed to it.
The morning editions of the twenty-eighth, however-despite the government’s attempts to impose restraints-carried headlines referditional surrender as ''plot by the three powers'' and dismissing the call for unconditional surrender as ''preposterous.'' Hastly, Suzuki personally called a press conference at which he stated that the attitude of the Japanese government toward the Potsdam Declaration was one of ''mokusatsu''. As Suzuki intended it, this word was the equivalent of the English ''no comment,'' but in Japanese broadcasts directed overseas it turned out as ''ignore,'' and New York Times of July 30 carried a headline annoucing that Japan had rejected the Allies' final call for it to surrender. Thus President Truman lost any chance of checking use of the atomic bomb at the last moment. The Japanese government, in short, still expecting that the Soviet Union would mediate on its behalf, had attached insufficient importance to its own response to the Potsdam Declaration.
At 3 A.M. on August 6, the Enola Gay took off from the base on the island of Tinian carrying the first atomic bomb ever to be dropped on mankind, and at some time past 8A.M. arrived in the sky over Hiroshima. The bomb, suspended from a parachute, exploded at a point 600 meters above ground level. It was 8:15, at which time the city’s clocks stopped forever. A single bomb wiped out an entire city. Thirteen square kilometers of the center were seared by the terrifying blast, heat, and radiation; at least two hundred thousand citizens either were killed instantly or died after days-in some cases, months-of suffering. As the plane in which Dr. Nishina Yoshio-an atomic physicist who flew to Hiroshima at Japanese army orders-arrived in the sky over Hiroshima, one glance was enough to tell him that it could only have been an atomic bomb. His judgment was confirmed by foreign broadcasts. On the afternoon on August 8, on receiving formal notification from Dr. Nishina that the weapon dropped on Hiroshima had unquestionabley been an atomic bomb, Prime Minister Suzuki realized that the war must be brought to a rapid conclusion and directed Cabinet Secretary Sakomizu to summon a meeting of the Supreme Council for the Conduct of the war for the following day.』
2017年8月6日日曜日
20170805 台風の九州南部接近の報に接して
A「総投稿記事数が700に到達したのちもペースを落とさず、ほぼ毎日記事作成を行ってきましたが、本日はどうも記事作成の意欲が湧かず、色々と書籍、文献等をあたってはみましたが、それでもあまり、さきの状況とは改善されないでいます・・(苦笑)。
このまま本日に関しては記事作成を休もうかとも思いましたが、書籍の抜粋引用であれ、ともかく記事を作成しようと思い立ち、今現在このように何かしら文章の作成をはじめている次第です・・。
そういえば、現在台風が九州南部に接近しつつあるとのことで、目下のところ、これが心配ではあり、またたとえ台風が上陸するにしても、あまり大きな被害を齎さないことを願っています。
また、台風に関してですが、九州南部にて遭遇する台風とは、やはり首都圏における台風と異なり、何と云いますか、より自然の脅威といったものを感じさせます・・。
(古代人が台風にカミを見たのは西日本に在住してはじめて実感として分かりました。)
また、このことは和歌山、南紀においても同様であり、殊に北海道からこの地に転勤となり、しばらくの期間とは、このすさまじい雨・台風に大きなショックを受けたことをおぼえています(北海道にはあまり台風が上陸しない)。
とはいえ、我々人間とは概ね、どの地域であれ、しばらくそこに住んでいると、その環境に慣れるものであるらしく、今現在の私とは、さきの自然環境といったものに関しては、ほぼどうしようもないものであるため言及しませんが、その他の環境に関しては『むしろ首都圏の方がおかしいのではないか?』と思うことが多々あります・・。
(朝夕の電車のラッシュ、行列、都心部の雑踏、空気の悪さ、騒音・・)。
また、そうは考えるものの、実際の生活においては以前よりも大分、この首都圏特有の慌ただしさにも慣れつつはあると云えます。
しかしそれでも、これが『自分にとって良い』ものであるとは、どうしても思うことが出来ません・・。
また、以前投稿したブログ記事においても書きましたが、そうした内面における『葛藤』(理想と現実のギャップ)こそが、ブログ記事といったカタチであれ、文章を書き続ける大きな原動力となっているのではないかとも思われます・・。
とはいえ、この程度までどうにかこうにかブログ記事を書き続けていますと時折思うことは『おそらく何処に住もうと当初はしばらく逡巡・呻吟するかもしれないが、何かしらは書き続けることは出来るのではないだろうか?』ということです。
もちろん、これはあくまでも今現在においては希望的観測の域を出ませんが、同時に以前よりも『それが出来るのではないか?』といった実感もまた強くなってきています・・。
(しかしながら、この『実感』がまたクセモノなのかもしれない・・(苦笑)。)
ともあれ、いずれにせよ、このさき未だどうなるか見当もつきませんが、ここまでブログ記事を書き続け、そして上記のような実感をも持ち得るに至ったことは、これまでに(かなり)稚拙なものも多いと思われる一連のブログ記事を読んでくださっている方々のおかげであると云えます。
(おかげさまで、これまでに総計24万人ほどの方々に閲覧して頂きました。)
今後も800記事の到達までは書き続ける予定ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
また、今回に関しても、ここまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた地域の諸インフラの復旧、そしてその後の早期の復興を祈念しています。』
このまま本日に関しては記事作成を休もうかとも思いましたが、書籍の抜粋引用であれ、ともかく記事を作成しようと思い立ち、今現在このように何かしら文章の作成をはじめている次第です・・。
そういえば、現在台風が九州南部に接近しつつあるとのことで、目下のところ、これが心配ではあり、またたとえ台風が上陸するにしても、あまり大きな被害を齎さないことを願っています。
また、台風に関してですが、九州南部にて遭遇する台風とは、やはり首都圏における台風と異なり、何と云いますか、より自然の脅威といったものを感じさせます・・。
(古代人が台風にカミを見たのは西日本に在住してはじめて実感として分かりました。)
また、このことは和歌山、南紀においても同様であり、殊に北海道からこの地に転勤となり、しばらくの期間とは、このすさまじい雨・台風に大きなショックを受けたことをおぼえています(北海道にはあまり台風が上陸しない)。
とはいえ、我々人間とは概ね、どの地域であれ、しばらくそこに住んでいると、その環境に慣れるものであるらしく、今現在の私とは、さきの自然環境といったものに関しては、ほぼどうしようもないものであるため言及しませんが、その他の環境に関しては『むしろ首都圏の方がおかしいのではないか?』と思うことが多々あります・・。
(朝夕の電車のラッシュ、行列、都心部の雑踏、空気の悪さ、騒音・・)。
また、そうは考えるものの、実際の生活においては以前よりも大分、この首都圏特有の慌ただしさにも慣れつつはあると云えます。
しかしそれでも、これが『自分にとって良い』ものであるとは、どうしても思うことが出来ません・・。
また、以前投稿したブログ記事においても書きましたが、そうした内面における『葛藤』(理想と現実のギャップ)こそが、ブログ記事といったカタチであれ、文章を書き続ける大きな原動力となっているのではないかとも思われます・・。
とはいえ、この程度までどうにかこうにかブログ記事を書き続けていますと時折思うことは『おそらく何処に住もうと当初はしばらく逡巡・呻吟するかもしれないが、何かしらは書き続けることは出来るのではないだろうか?』ということです。
もちろん、これはあくまでも今現在においては希望的観測の域を出ませんが、同時に以前よりも『それが出来るのではないか?』といった実感もまた強くなってきています・・。
(しかしながら、この『実感』がまたクセモノなのかもしれない・・(苦笑)。)
ともあれ、いずれにせよ、このさき未だどうなるか見当もつきませんが、ここまでブログ記事を書き続け、そして上記のような実感をも持ち得るに至ったことは、これまでに(かなり)稚拙なものも多いと思われる一連のブログ記事を読んでくださっている方々のおかげであると云えます。
(おかげさまで、これまでに総計24万人ほどの方々に閲覧して頂きました。)
今後も800記事の到達までは書き続ける予定ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
また、今回に関しても、ここまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた地域の諸インフラの復旧、そしてその後の早期の復興を祈念しています。』
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