2024年3月8日金曜日

20240307 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065130271
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065130278

 織田信長が国友鍛冶の技術に目をつけ、大量に発注したことから量産が始まり、いわゆる「国友鉄砲」は、希代の名声を得るようになった。とりわけ信長に継いで全国の覇者となった秀吉は、国友村を直轄領地として、専属武器工場のように扱ったと言われる。国友村のこの権力者隷属の立場は徳川幕府成立後も変わらなかった。

鉄砲伝来の背景
 
 ここで考えておかねばならないことは、鉄砲伝来の技術が、例外なく刀工、刀鍛冶の手で開発されていることで、すでに八板金兵衛の例が物語るように、わずかなコツをヒントとして与えられれば、正確に現品を模するだけの錬鉄(鉄の原料は、初期にはある程度、いわゆるシャム鉄などの輸入にたよっていたが、日ならずして山陰の砂鉄を中心に、国産で十分良質の鉄材を得ることができるようになった)、加工の技術を当時の日本の刀工、刀鍛冶たちが身につけていたことがわかる。やがてこれらの銃は、中国大陸沿岸を荒らし回った日本の海賊倭寇の手にわたり、明の人びとは、日本製の小銃を、飛鳥をも落とす「鳥銃」と呼んで恐れたが、それを模することに大きな苦心を払った明の技術水準に比較すれば、当時の日本の刀剣技術水準の優秀さが読みとれよう。
 さらに、日本における鉄砲の急速な普及に幸いとしたのは、当時の日本が戦国の世であり、単に各大名が競って威力のある武器の開発を志していたばかりではなく、各地に群雄が割拠し、戦乱の軍馬が各地方を往来し、また、その間を縫って、ようやくはっきりした形をとりはじめていた商人階級の手になる商業路網が、活発な活動の緒についていたことであった。もし強大な権力を一手に握った徳川幕藩体制の確立後に、西欧の鉄砲が伝わったとしたら、幕府の手で秘密に開発される努力は尽くされたではあろうが、けっして全国各地にあれほど激しい勢いで普及はしなかったはずだし、そうとすれば築城法その他多くの点で日本の古来の立場に、ここまでの大きな変革の影響も与えなかったであろうと想像される。

戦法は一変した

 とにかく、鉄砲は初伝以来わずか五年もすれば、全国の強力な大名の手に渡り、少なくとも一五四九年には、はやくも銃戦の記録が見えはじめている。ことに織田信長が鉄砲の利用にすぐれていたことはよく知られている。一五六〇年の桶狭間の戦いですでに、織田・今川両軍とも鉄砲隊を組織しているが、鉄砲隊の使い方は、信長勢のほうが格段にまさっていたようであり、そうしった幾多の経験から、弾丸をこめ代え、次弾を斉射できるまでの時間を見計らい、一陣、二陣(場合によっては三陣まで)交替で斉射と装弾をくり返す、というよく知られた戦法や、弾丸の射程内に馬止めの障害柵を巡らし、騎兵を殲滅する戦法などを会得した織田の軍勢は、高名な長篠の戦い(一五七五年)において、武田勝頼の軍を壊滅させ、鉄砲隊の戦争における効果に決定的な評価を与えたのであった。
 このため、旧来の騎兵を中心にしたやりと刀での戦闘は意味を失い、とりわけ名乗りをあげて豪の者同士が争う一騎打ちは影をひそめ、これに代わって、足軽など身分の軽い者で組織された歩兵団をいかに巧妙に使うか、という点が、戦術の要諦として浮かび上がってきた。これは、一介の足軽でも鉄砲を使って相手の大将さえ殺すことができ、それゆえ論功にもあずかれる可能性のあることであり、下剋上の風潮に拍車をかけることになった点も見のがせない。