2017年4月3日月曜日

20170403 気温の上昇、記憶から自身の言語・コトバの能力の限界について・・

本日は夕刻に雷が鳴り雨もそこそこ激しく降りました。
この時丁度外出中であったため、急ぎ雨宿りをしました。
しかし、その雨の降り方は既に冬のものではなく、春の雨であることを感じさせました。
また、明日は気温もいくらか上昇するとのことで多少安堵している次第です・・(笑)。

さて、そこで不図思い出したのは以下の文章です・・(笑)。
「温度もまた生命に影響すること甚大である。温度の上昇は物理化学的現象の発現のみならず、生命現象をも一層活発にする。
温度の低下は物理化学的現象のエネルギーを減少して生命現象を鈍らせる。
天然の外界においてはこの温度の変化はいわゆる季節となって現れるが、これは結局地上における動植物生活の変化によって特徴づけられているにすぎない。
これらの変化が生じるのは、植物や或る動物の内界即ち有機的環境が外界と平衡しているためである。
もしも植物を温室の中に入れておくならば、冬の影響はもはや感じなくなる。
冬眠する冷血動物にしても全く同じことである。
然るに温血動物になると、いわば細胞を温室の中に保っているようなものである。
それ故このものは冬眠の影響を感じない。
しかしながらこれも結局外界と温度の平衡を保とうとする一種独特の内界の抵抗にすぎないのであるから、ある場合にはこの抵抗が破れて、温血動物でも熱くなったり冷たくなったりすることがあり得る。」

岩波書店刊 クロード・ベルナール三浦岱栄訳 「実験医学序説」P.196より抜粋引用

そして、上に示した抜粋引用部をあらためて読んでみますと3月29日投稿分の記事「みた夢のハナシ、師匠との会話などから・・」にて夢をみて起床直後の『震え』の記憶が想起されます(苦笑)。

そしてまた、こうした感覚とは、これまで何度か味わった記憶がありますが、それらの中で最も『怖い』と感じていたのは2012年秋頃のある記憶です・・。

この記憶に関しては今現在、比較的明瞭に憶えており、また憶えているからこそ、現在でも『怖い』と感じることが出来るのですが、しかし同時に、この記憶のことを文章化することは未だ躊躇を覚えます・・。

そして何故、躊躇するのかと考えてみますと、それは、この記憶とは『怖い』ものであると同時に、自身にとって大変大きな意味を持つと考えることから、そう簡単には文章化したくない、出来ないのではないかと思われます・・。

それに加え、実際にその記憶を文章として著した場合『何だ、そんなことか!』と他者から無惨に嗤われるのも、またイヤであるといった、いささかケチくさい了見もあるのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかしながら、その一方で、これまでブログ記事の継続的な作成が出来た一つの主要な原動力がまさに、この時の経験、記憶であると自身は考えるのです・・。

また、おそらく、こうしたことは、あまり他者に書いても、説明しても精確には伝わらずに終わってしまうのではないかと思われるのです・・。

それ故、一面における現在の自身の言語・コトバの能力の限界といったものが、この辺りにあるのではないかと思われる次第です・・(苦笑)。

そして、そうしたことを書いておりますと、何故だか思い起こすのが下に示す文章です・・。

「・・そう、それは無理だよ。自分の存在の忘れ難い一時点で覚えた生の感覚というものを、他人に伝えるのは不可能なんだよ。
その感覚こそが人生の真実、その意味ーその微妙で深く浸透する本質なのだが。無理だな。ちょうど夢を見るのと同じように、僕らは生きているんだーただひとりぼっちでね・・」

三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」pp..74ー75


“No, it is impossible; it is impossible to convey the life-sensation of any given epoch of one’s existence--that which makes its truth, its meaning--its subtle and penetrating essence. It is impossible. We live, as we dream--alone.” 
「Heart of Darkness」 Collins Classic Joseph・Conrad P.32

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に発生した熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。」








20170402其の2 『時代を通じ普遍的に人々に重み、深みを感じさせる「何か」とは』

A「あと20記事未満の投稿により、総投稿記事数が600に至ります。

この600記事とは果たしてどの程度のものであるかイマイチよく分かりませんが、それでもキリの良いところまでは書き続けないとどうも気持ちが悪いものです。

しかし、その場合、果たして600という数字がキリが良いのかどうか分かりかねるところではありますが、まあ少なくとも直近のキリの良い数字としては、自身にとって多少の意味があるのではないかと思われます・・(笑)。

さて、本日分の記事は先ほど既に投稿しましたが、本日は休日ということもあり、もう1記事書くことが出来るのではないかと思い、新たに記事作成を開始した次第です・・。

こうした試みはこれまでにあまり為されていなかったことから、多少不安ではあるのですが、実際に書き始めてみますと、そこまで逡巡することなくキーボード上の手は動いてくれるようです・・(笑)。

とはいえ、その書くべき主題といったものは今現在決まっておりません・・(苦笑)。

しかし、そうした状態から書き起こし、大抵の場合はどうにか記事作成を行うことが出来ておりますので、とりあえず書き進めるにしたがい、何かしら主題は思い付くのではないかと思われます・・。

そういえば、先月の最も読まれた記事は3月10日分の記事「保守は右翼、革新は左翼・・?」であり、これも他記事の閲覧者数に比べダントツといって良い状態でした。

何故、この記事が多くの方々に閲覧して頂いたのかは書いた自身もよく分からないところではあるのですが、少なくとも現在の表層的にウヨク・サヨクに分け、難癖を付けるような風潮においては多少は意味があったのかもしれません・・(苦笑)。

また、その意味において現在の文学、映画といった文化一般において、こうしたことを能動的に考えてしまうような重み、深みがあれば良いのではないかとも思われます・・。

(現在においては時代遅れの意見であるのかもしれませんが、さまざまな文化的事物における価値の根源にあるものとは、時代を通じ普遍的に人々に重み、深みを感じさせる「何か」ではないかと考えます・・)

しかし一方、表層的な人気を得ようとする作品とは、概ね、そうしたことを意識的に避ける傾向があります。

たしかに、そちらの方が「君子危うきに近寄らず」で安全ではあるのかもしれませんが、そうした文化事物にて世の中が埋め尽くされてしまいますと、それはそれで逆に息苦しい社会となってしまうのではないでしょうか・・(苦笑)。

いや、それら文化の系譜、成り立ちを知らなければ、そうした状態を息苦しいとすら感じることもなく、それが当たり前と感じ、その中において文化事物に対する別の尺度による評価が為されるようになるのかもしれません・・。

また、これまでのさまざまな文化の発展もまた、見方によれば、そのような感じで為されたものも少なからずあるのではないかとも考えられます・・。

つまり、こうしたこともいわば「勝てば官軍」であり、実はその為される評価とは曖昧模糊とした基準であるのかもしれません・・。

それでも先に述べた、時代を通じ普遍的に人々に重み、深みを感じさせる「何か」とは存在するのではないかと自身は考える次第です。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」