2016年1月4日月曜日

20160104 コトバと情報リテラシーについて・・

A「最近ブログを連投気味で投稿していますが、文章を書く調子がいいのですか?」

B「いえ、そういうわけでもないのですが、年末年始ですのでブログのネタを考えて書く時間が普段よりも多く取れているからではないでしょうか?」

A「はあ、なるほどそうだったのですか。それでもこの年末年始に書いた一連のブログで自分の書いた文章の割合が多少多くなったのではないですか?」

A「ええ、そうですね・・。これで自分の書いた文章が全体の三分の一を越えました。
そして今後はもう少し自分で書いた文章の割合を多くしてゆきたいですね(笑)。
ただ、閲覧者数を短期的に多く得るのは書籍の引用抜粋の方がいいようです・・(苦笑)。
また、現在のところ私のブログとは、多くの閲覧者を得ることが第一の目的ではありませんし、また自身の文章の割合を多くしていった方が長期的に見て自身のためになるのではないかと思うのです・・。」

B「・・なるほど現在そういった状況なのですか・・。それでも意識して自身の文章を増やしてゆこうとするのは、いいことであると思いますよ。あと、Aさんは昔から文章を書くのが好きだったのですか?」

A「・・さて、どうでしょうか?しかし、そういわれて今思い返してみますと、私が文章を好きで書いていた時期はたしかに何度かありましたね・・。中学生の頃、作文を現代文の先生に褒められて、その後色々と書いていた時期がありました・・。その先生は当時の私から見て大変博学であり、また映画にも造詣が深く、その点でも影響を受けたかもしれません。そして高校入学後にも新聞部にいくつか文章を投稿したのですが、その後、部活動の方に力を入れるようになり、文章を書くことは徐々に閑却されるようになった次第です・・。」

B「ふーん、そんなことがあったのですか・・。それで読書の方はその間ずっと続けていたのですか?」
A「・・高校時代は読んでおりましたが、大学では部活動で忙しくなり本を読む時間はあまりありませんでした・・。ただ、引退後は部活動で培った体力にものをいわせて色々と読むようになり、会社入社後の初めてのボーナスでギボンの「ローマ帝国衰亡史」を購入するようになっていました(笑)。加えて休日に映画のレビューなどを投稿したりもしていました・・(苦笑)。ですから、私は周期的に文章を書きたくなるような性質、傾向があるのかもしれません・・。」

B「それで結局文系の大学院に進むことにしたのですか・・。そして修士院生の頃はやはり民俗学関係の本を多く読んでいたのですか?」

A「ええ、当時はそれまでの人生の中で最も多くの本を読んでいた、熟読していたと思います。また、たしかに民俗学の文献もそれなりに多く読んでいましたが、同時に考古学、哲学そして歴史関連などといった周辺分野の文献も併行して読んでおりました・・。
それに加え、当時は議論も多くしておりました。学問、研究に基づくある程度深い議論したのは、あれが最初であり、それはかなり自身の精神的な糧になったのではないかと思います・・。」

B「うん、我々日本人は議論をあまり好まないからね・・。しかし、学問上の議論とは、個人の感情的な好悪と関係なくできるからね、その意味で剣道、柔道などの試合に似た部分があるかもしれない・・。ただ、それでもやはり我々日本人一般は議論が苦手というか好まない傾向がありますね・・これは国民全体の性質が女性的、受容的な性質であるからなのだろうか?」

A「・・それは、かねてより多くの方々が指摘していることではありますが、たしかにそういった傾向はあると思います・・。しかし一方、何といいますか、我が国ではそうした社会における女性的な要素による影響を指摘することはタブーとされているような雰囲気があるのではないかとも思います・・。」
B「・・それはよくわかりますが、同時に我が国の場合、対照的な男性的な要素が強くなりすぎても、どうもおかしな方向に行ってしまうような傾向もあるのではないでしょうか?」

A「ええ、我が国の様々な歴史的遺物を見てみますと、たしかにそういった傾向があり、また、そうした流れは時代を通し、交互に循環、交替しているような感じを受けますね。」

B「・・なるほど、たしかにいわれてみるとそうかもしれませんね。
そして、そうだとするとやはり社会における男女双方要素のバランス、均衡が大事なのでしょうね?」

A「なかなかそうしたことは科学的に判然としませんので、難しいとは思いますが、実のところかなり重要なのではないかと思います・・。そして、そうしたことを考慮せずに対症療法のような施策のみを続けていますと、ことはより一層悪い方向に行ってしまうのではないでしょうか?」
B「ふーん、そうすると具体的にはどんな施策が今の時代に適しているのでしょうかね?」

A「・・そうですね、一つには情報リテラシーの向上を目指した教養教育を自然なかたちで充実させることに加え、医師、獣医師、歯科医師、薬剤師、看護師、歯科衛生士などの普遍的な科学、医学的知識を必要とする国家資格、加えて同様知識を必要とする理工学系の学部、院を女性に対して門戸を広げるような施策、つまりそうした学問分野の小規模の公立大学、学部、学科の新増設などは、ある程度有効であり、また現今進行中の少子高齢化に対しても効果があるのではないかと思います。」

B「なるほど、いわゆるリケジョを増やそうというのですか・・。それはたしかに短期的に見て男性にとってはあまりうれしくないですが、長期的に見れば、そうした普遍的知識、技術を備えた女性を相手にせざるを得なくなり、必然的に男性側も自助努力、学問をするようになるということですか・・?」

A「ええ、まあそういったところです・・。そして、それに加えもう一つ大事な施策として、一見経済的に有益とは思われないような文系学問研究分野およびそれに従事している人々に対して雇用を含めた何らかの補助を行うことです。かなり我田引水、牽強付会の感はありますが・・・(苦笑)。」

B「まあ、そういった施策は西欧の国々では割合多く見られるけれども、現在の我が国では理解がないというか、まあ、いずれにしても難しいのではないかな。残念だけれども・・良くも悪くも我が国の国民性とは即物的なのだと思いますよ。」

A「科学的知識と文系的な教養とは、双方共に重要なのですが、我が国における文系的教養とは、本質的にある種の伝統芸能と同様、未だ男性に属する部分が多いと思います。そしてそれと同時に、今後将来多くの女性が自然に入ってくるような、来たがるような魅力的な環境にすることもまた大事ではないかと思います・・。しかし、これは当分先の話になりそうですが(苦笑)。」

B「・・なるほどねえ・・。しかし女性に対するそうした施策とは一歩間違えると新約聖書マタイ伝あるいはオスカー・ワイルドの「サロメ」みたいなオチになるからね・・・なかなか難しいのではないでしょうか・・?ただ、そのサロメのような危なっかしい性質を制御するという意味において普遍的な科学技術の知識を重視することは悪くないと思います。そして、そこでも重要なことは、女性陣の能動性を活性化し、そうした流れを自然に作ってゆくことなのだろうね・・。」

A「ええ、まあそんなところです。」

20160103 情報リテラシーと国民性についての対話

A「どうも年末年始で何か面白い本や映画などは観ましたか?」

B「いえ、映画やテレビなどはあまり観ておりませんでした。
また、書籍に関しては相変わらずで蔵書を読み返しておりました・・。
その中で加藤周一の「日本文学史序説」は相変わらず興味深く読めました。」

A「ああ、Bさんはあの著作からよくブログでの引用抜粋をしていますね。
そういえば加藤周一といえば、私は新書の「羊の歌」をなかなか興味深く読んだ記憶がありますね。」

B「「羊の歌」は私も以前読みましたが、これは今現在であるからこそ面白く読めるのではないかと思います。」

A「なるほど、たしかにそうですね(笑)。
あと最近Bさんのブログで大岡昇平の著作を何度か取上げていましたが、同著者の「ある補充兵の戦い」もなかなか興味深いと思いますよ。
この著作は「俘虜記」での体験とかなり被ると思うのですが、その視点およびその文体が「俘虜記」とは異なるのです。
こういった同一に近い経験に基づき複数の著作を作れるということは著者の才能およびある種の工夫によるのでしょう。」

B「ええ「ある補充兵の戦い」も以前読みましたが、これも興味深かったですね。
この著作は「俘虜記」と比べ体験を割合軽めに淡々と述べているように思います。
つまり「俘虜記」「ある補充兵の戦い」は共に基本的には著者自身の体験に基づいたノンフィクションではあるのですが、同時に体験に対しての思索、評価の程度、姿勢が異なるのではないかということです。
そのようなことから「俘虜記」は一般的な意味での小説であり、著者の思想、考えが色濃く反映されているのではないかと思います。
それに対し「ある補充兵の戦い」とは、前にいいましたとおり、著者の体験をあまり感情を交えずに書いた回想録に近いものではないかと思います。」

A「なるほど・・いわれてみるとそうした傾向はたしかにあるかもしれませんね。
あと、それで私が思い出すのは戦記ものが多い潮書房光人社から刊行されている比留間弘著の「地獄の戦場泣きむし士官物語」です。
この著作と「ある補充兵の戦い」とは、その作風において幾分類似しているのではないかな?」

B「・・またシブい著作を出されましたね・・。
私もその著作も以前読みましたが、おっしゃることわかります。
現在我々が読むことが出来る太平洋戦争の戦記ものは数多くあり、また、私はそこまで多くの戦記ものを読んだわけではありませんが、両著共にたしかにその著述の仕方、文体は特に重いものではないと思います。」

A「ええ、両著者共に筆舌に尽くしがたい戦争体験をされているはずなのに、そうした割合読みやすい文体、つまり自身の体験に対し距離感を保ちながら、その体験を書けることは、ある意味スゴイことであるのかもしれません・・。」

B「たしかにそうですね・・。
それにしても我々日本人にとって太平洋戦争とは、かなり大きな影響をおよぼしているのでしょうね・・。
そしてそうであるがゆえに、現在を生きている我々は、そうした歴史を忘れてしまってはいけないのでしょう。
こうしたことは、これまでに読んだ様々な戦争を経験された著述家の多くが書かれていましたが、一方、現在の我が国の情勢を見ていますと、彼らのその願いとは、私を含め後の世代にあまり通じていないように思えます・・残念ながら。」

A「ええ、現在の我が国の社会にはよくわからないイケイケドンドン的な積極、攻撃的な傾向が多く見受けられますね。
しかし一方において、現在日本を取り巻く状況とは、以前に比べ、きな臭くもなってきていますから、それは生物的には健康な反応であるのもしれません・・。
ただ、そういった情勢の中で私が強く危惧するのは、そうした状況に便乗して国内外の勢力が自身の利己的な欲望を手段を選ばずに満たそうとすることなのです。
まあ、たとえ利己的ではあってもそれが他者を結果的に貶めるものでなく、逆に向上、満足させるものであれば、それはそれで良いのかもしれませんが、そうしたものは決して多いといえないのが現状であると思います・・。」

B「ええ、良くも悪くも我々日本人は社会に生じた流行、傾向などの核に対する凝集性あるいはそれを応用しようとする傾向がありますから・・また、これは古来よりの傾向であるので、変えることは困難であると思います・・。
では、そうした傾向を無理に変えることなく、そうした勢力を抑えるためには、どうすれば良いのでしょうかね?」

A「ううむ、それは言葉でいえば案外簡単で、単純に様々な意味における情報リテラシーを向上させれば良いのではないでしょうか?
そして、それを為すためには、さまざまな書籍を読み、多くの人々とカタチだけでない議論を継続的に行うことではないでしょうか?」

B「ええ、書籍、議論などは、どちらかというと、これまであまりカッコいいものとして扱われてきませんでしたので、これが能動的に行われるような環境になれば、何かしらの効果は出てくるかもしれません。
私はおそらく泥臭いと思われながらも、単純に楽しかったので修士院生時代に両方共割合多く行ってきたと思いますので、その点は理解、肯定できます・・。」

A「うん、福沢諭吉の創設したあの学校には演説館があるけれども、あれは当時の我が国において演説、議論文化の必要性を痛感した結果造られたのでしょう・・。
そしてそれを痛感した原因とは、さきほどBさんが指摘していたことに関連するかもしれないけれども、凝集性が強く、雰囲気、空気に縛られやすい我が国の国民性ではないでしょうか・・?
そして雰囲気、空気に縛られやすい国民性とは、本質的に書籍の深い読解、議論などを不粋、面倒なものとして避ける傾向があるのではないかな・・?。
しかし、そうした傾向とは、結局のところ野狐禅に陥ってしまうのではないでしょうか?」

B「ええ、そうした傾向とは、たしかに我が国社会において伝統的に根強いと思います。
しかし、そうすると話はまたふりだしに戻ってしまうのではないでしょうか?」

A「・・そうですね、少なくとも我が国における自身の悪しき利己的な欲望を満たそうとする勢力とは、古今意識、無意識問わずそういった我が国の国民性から生じる傾向を利用、便乗してきましたからね・・。
そして、それだからこそ能動的な態度に拠って自然に情報リテラシーが向上されることが重要なのでしょう・・(苦笑)。」