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2021年8月29日日曜日

20210829 中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」 pp.166-168より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」

pp.166-168より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121017420
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121017420

「 国東から臼杵にかけては石仏が点在している。磨崖仏もあって、誰が彫ったのかわからない。優れた技量の持主がいたのだろう。むかしの工匠たちは、ものものしい署名などしなかった。仕事を終えると、ノミや金槌を袋に入れて風のように立ち去った。

 大分県中津市、旧名でいうと豊前国中津藩。福沢諭吉の故郷である。父が廻米方の小役人であった関係で、大阪・堂島の生まれ。数え年三つのときに一家は中津へもどった。福沢家は十三石二人扶持、典型的な下級武士の家柄。その旧宅があるー明日の予定が定まったので、いそいそとお酒のお代わりをした。

 中津市留守居町に旧宅が復元されていた。間口二間、奥行十五間で、ウナギの寝床のように細長い。諭吉少年は、もっぱら土蔵の二階で勉強したという。頭がつかえそうな天井に、明りとりの窓が一つ。手製の書見台がポツンと置かれていた。

 白状すると、この旅に出るまで、私は有名な「学問のすゝめ」すら、ろくすっぽ読んでいなかった。

「天は人の上に人を造らずと云えりー」そんな書き出しのところだけを、なんとなく知っていた。はじめて実物にあたって知ったのだが、高邁な出だしにくらべ終わりにちかいところは、おそろしく実際的だ。諭吉は三つのことをすすめている。自分のため、ひいては世の中のためにもなるという。

一つ、言葉を学んで、よくおしゃべりをしろ。

二つ、顔色容貌を快くして、人に嫌われないようにしろ。

三つ、仕事や専門のちがう人とまじわれ。

三代にわたり入口に膾炙してきた名著は、ごく日常的な「すゝめ」を力説している。あらためてこのようなことを説いたところに福沢諭吉の面目があるのかもしれない。この筋金入りのリアリストには、君子重かざれば威なしとばかり肩肘はった連中がおかしくてならなかったのだろう。そういえば、こんなふうに述べている。いつも苦虫を噛みつぶしたような顔をして重々しく構えているのは、「戸の口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し」。仕事や専門のちがう人とまじわってこそ生涯の友ができる。人間、鬼でもなければ蛇でもない。「心事を丸出しにして颯々と応接すべし」。

 ついでに記念館で見つけた諭吉の言葉をあげておくと、記憶力中心の教育を批判して文部大臣に忠告したそうだ。それは「半死半生の青瓢箪」をつくるだけ。

 この小藩の下級武士の二男坊は、名うての神仏の里を隣にもつ郷里の因習に悩まされたのではあるまいか。前近代的なものが何重にもかさなりあった土地柄を醒めた目で見つめながら、たえずみずからを鍛えていった。ついでながら「学問のすゝめ」のしめくくりは、旅のすすめだ。ひろく世界を歩いて見聞をひろげるべし。さもないと「三・五匹の鮒が井中に日月を消する」の世界に終わってしまう。」

2021年5月11日火曜日

20210511 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.119-124より抜粋

 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」

pp.119-124より抜粋

ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018


革命は過去との激しい断絶を伴うから、革命を正当化したり、否定することは自然な反応であるだろう。しかし、そうすることによって革命は道義的賞賛と道義的非難のもやのなかに包まれてしまうのだ。だから、われわれは革命のイデオロギー的判断、とくに道義的色彩の濃い判断を、避けなくてはならない。そうすれば、革命がその国の力を飛躍的に増大させるという、単純な事実が浮かび上がってくるだろう。フランス革命はフランスの力を、ロシア革命はロシアの力を、飛躍的に増大させたのであった。中国革命も同じような視点から見なくてはならない。

 もちろん、近代の革命は普遍的な原理の上に立っているから、革命の原理が国際政治に強い衝撃を与えるという面もたしかに存在する。しかし、われわれは普遍的な原理そのものが与える衝撃と、その普遍的原理を現実の政治・経済的体制として具体化した国家が与える衝撃とを混同してはならないのだ。革命の衝撃と普通考えられているものはこの二つの混合物なのであり、それを混同することかた、革命に対する誤った対応が生まれてくるのである。

 共産主義革命の場合にも、普遍的原理であるマルクス主義が与える衝撃と、それを体現した国家、ソ連が与える衝撃とは、質的にも量的にも異なっている。前者の場合には、思想は思想の論理で動いている。しかし、思想が力の組織である国家の原理となるや否や、思想の論理に加えて、権力の論理が作用し始め、それが次第に支配的になっていくのである。革命の衝撃がこのような構造を持つものである場合、外交の扱うべき側面は疑いもなく後者である。外交の基本的な任務は、力の組織としての国家間の関係を調整することだからである。したがって、ソ連革命についても、資本主義と社会主義が対立している間は真の平和はないと、そのイデオロギーが考えていることよりも、そのイデオロギーを体現した国家ソ連が、巨大な重工業を作り上げ、ロケット部門においてアメリカと激しく競争しているという事実、中東欧諸国をその支配下に置き、その経済統合にかなり成功してきたという事実、そして、重工業の発達と対照的に、消費財部門は貧弱で、とくに農業部門は完全に行詰っているという事実の方が、ソ連の対外政策を現実に動かすより重要な要因となっているのである。

 中国の場合も、この事情は基本的に同様である。したがって、われわれの視点は、力の組織としての国家、中共が中国共産革命によってどのように変わったかということに集められなくてはならないのである。

 そのように考えた場合、中共革命のもっとも重要な意義は、中国が民族革命を行うための組織的な基礎を、何回かの失敗のあとに与えたことにある。中国における民族国家の形成と産業革命、すなわち、一般に近代化と言われている現象が軌道にのるまでは、きわめて困難な、そして長期間にわたる過程が必要であった。その理由は中国の広大さと中国の伝統的な政治構造のゆるやかさにある。

 すなわち、中国には文明圏はあったが、近代的な意味での民族国家は存在しなかった。中国の一般民衆の政治に対する意識は、「日出デテ耕シ、日入リテヤスム、井ヲ鑿ッテ飲ミ、田ヲ耕シテ食ウ、帝力、我ニ於テ何カアランヤ」という有名な言葉に現れている通り、無関心の一語に尽きた。その無関心の上に皇帝を頂点とする官僚機構が表面的に乗っかっていたのであり、その最下端は県吏であって、村落まで及んでいなかった。そして、官僚制と村落の一般民衆とを結んでいたのは、土紳と呼ばれる富農階級であって、彼らが地方の実権を握っていたのである。この地方分権が清朝末に至って、皇帝の権力が弱まるとともにますます強まり、ついに軍閥の時代においてその極に達したことは周知の通りである。

 このように権力構造をそのままにしておいてなされた近代化の試みが失敗したのは不思議ではない。それは西洋文明の輸入のはやい海岸線沿いと揚子江沿岸に、外国資本を借り入れ作られた工場などを生み出したにとどまった。新しく作られた工場は中国の家族制度と結び付いて閥族化していったし、どちらにしても、海岸地帯の工業化は内陸の大多数の中国国民と密接に結びついてはいなかった。国民党の指導者としての蒋介石の業績を評価することはむつかしいし、とくに彼がこの地方の権力構造に手を触れようとしたかどうかについては意見が分かれている。しかし、いずれにしても、日本が中国に侵略を開始したときには、地方の権力構造は変わっていなかったのである。

 しかし、日本軍とのゲリラ戦を通じて、毛沢東の率いる中国共産党は農村に基礎を置く軍隊を作ることに成功した。毛沢東は日本が降伏したときには、百万の軍隊を指揮していたが、それは中国の歴史上最初の、村落に根を下した権力の組織であったのである。それが、いわば根なし草の蒋介石の軍隊を破ったのは当然であった。第二次世界大戦終了当時、中共が世界第四位の軍隊を持っていたことは見逃しえない事実である。こうして、中国の北部において生まれた権力の組織的な基礎は内戦における中共の勝利によって、全中国に拡大された。それによってはじめて、中国は近代的な意味における民族国家となったのであり、産業革命を強力に推進することができるようになったのである。

 この事実は、力の闘争である国際政治における中国の位置を理解する上にきわめて重要である。国家の力を構成するものは、表面的には軍事力や経済力に見える。しかし、その基礎をなすものは民族国家という形の、組織的な基礎なのである。近代の国際関係の歴史をきわめて巨視的に見るならば、権力に、広範で強力な組織的な基礎を与えることに成功した国が強大化して行ったことが理解されるであろう。その意味で、近代史は民族主義の勝利の歴史なのである。

 近代初頭のヨーロッパにおける強国、スペイン、フランス、イギリスはすべて、その地理的・歴史的条件から、民族国家の形成にいち早く成功した国であった。そして、この三つの国が十七世紀かた十八世紀にかけて権力闘争の主役となり、やがてスペインは脱落し、イギリスとフランスがその他の王朝国家をまじえて、長期にわたる権力闘争を展開したのであった。この権力闘争は一八一五年のウィーン会議において均衡を見出したが、それはある意味で民族主義と王政との均衡であった。フランスとイギリスそれ自身が、民族主義の原則によって貫かれたものはなかったのである。

 しかし、やがて民族主義の第二の波が、産業革命と結びついて起こってくる。そして、きわめて多数の国民を参加させながら、民族主義的感情と、進歩したテクノロジーによって国家の統一を保つことが可能になったのであった。それは国家権力を飛躍的に増大させることになった。そして、その結果として力の不均衡が起ってきたのである。

 まず、民族主義と産業主義を結びつけることに成功した国と、それを行っていない国との間にいちじるしい力の不均衡が生ずる。それは、帝国主義を生む基本的原因となった。そのころ福沢諭吉は、西洋文明をとり入れなければ国の独立を保つことはできないと主張し、古い伝統を固守する中国と朝鮮については、「我国は隣国の開明を持て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」として「脱亜論」を唱えた。それは福沢を批判する材料とされてきたが、しかし、福沢が当時の世界における力の不均衡とその原因を正しく捉えており、いわばやむをえない方法として「脱亜論」を主張したことに注目するとき、明治の日本が置かれていた立場の困難性と悲劇性を示すものと考えるべきではないだろうか。

2021年3月3日水曜日

20210303 「幕末維新変革史」下巻巻末での記述から思ったこと・・

先日投稿の記事にて岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上下巻を読了したことを書きましたが、その下巻巻末近くに、福沢諭吉と田中正造についての記述がありました。この組合せは多少意外とも思われましたが、実際のところ両人の年齢の差は6歳ほどであり、幕末期から国内外各地を移動し活躍していた福沢と比べ、田中正造は幕末期においては、主に地元での活動に従事し、また、領主である旗本との諍いなどもあったりと、この時期での活動範囲は福沢諭吉と比べると、相対的に狭かったと云えます。

その後、田中正造は一時期官吏として勤めていた時期もありましたが、やがて郷里に戻り地域選出の議員などを務め、さらには衆議院議員にも選出されています。そして、明治34年には足尾鉱毒事件についての直訴を行います。

思うに田中正造は、江戸時代の名主・庄屋によくある実直な篤農家的なメンタリティーを持ちつつも、直情径行的な性格的特徴を持つ人物であったように思われます。とはいえ、現在から、田中正造のある意味、悲劇的とも云える人生を考えてみますと、そこには、西欧的に近代化された明治日本の所謂「有司専制」そして、それに付随する「政商」といった様相や存在が否応なく見えてきます。

そして、もう一人の記述のあった福沢諭吉との関係性について考えてみますと、何かしら複雑な、一筋縄ではいかない様相が見えてくるように思われますが、福沢諭吉は、思想や文化といった文明の基盤となるものを重視するのと同時に、事物の経済的な側面そして、その基盤となる国家の強さ(盤石さ)もまた重視しました。また、それは当時流行の西欧合理主義的思考とも軌を一にすることから、福沢諭吉は門弟・教え子や読者達に対して、そうした主張をしたものと思われます。

また、ここにその播種を見たも云える民権思想派(田中正造)と国権伸張派(福沢諭吉)との分立は、昭和期に入ると、土着民権思想的なものと国権伸張論的なものが合流して行き、福沢諭吉以来の西欧由来の色彩を遺す国権伸張論は、あまり世間一般で流通しなくなったのだと思われます。

こうした事情は、これまでにも何度か触れました中江兆民による「三酔人経綸問答」に登場する南海先生・洋学紳士・東洋豪傑の三名の関係性・立ち位置とも異なり、たとえば福沢諭吉は、南海先生もしくは洋学紳士に比定することが出来ると思われますが、田中正造については、この各々三名の特徴には合致しないように思われます。

また、当著作下巻では、この六歳違いの二人(福沢諭吉・田中正造)の人生を並列的に示すことによって、明治期の時代精神の一様相を伝えたかったのではないかと思われました。

ともあれ、下巻巻末近くに書かれている、この二人の人生についての記述は、それまでの比較的淡々としているとも思われる記述から、うって変わり、その文章は生き生きとしているように感じられました。また私見としては、当著作下巻は、これら記述部分を読むだけであっても、何かしら得るものはあると思われますので、ご興味のある方は、ご一読をおススメいたします。

そして、自身のこととしては、先日ツイートしましたが、伊藤正雄氏翻訳による「現代語訳 文明論之概略」を購入して読んでみたくなりました・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


ISBN978-4-263-46420-5

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2020年9月2日水曜日

20200902 現在読み進めている著作「民衆暴力」から

本日の首都圏はぐずついた天気ではありましたが、気温は高く、蒸し暑さを感じる1日でした。また、現在読み進めている中央公論社刊 藤野裕子著「民衆暴力」(一揆・暴動・虐殺の日本近代)は、期せずしてタイムリーとも云える第4章「関東大震災時の朝鮮人虐殺」に至り、その記述に眉を顰めることが度々ありましたが、それらは概ね史実であると云えます。そしてまた、(残念ながら)それら記述から、昨今のコロナ禍下の我が国において生じた、報じられた、いくつもの出来事とも、自然な連続性を見出すことが出来ると云えます・・。

関東大震災直後での出来事と、現今の我が国におけるコロナ禍下の出来事の連続性を結節する主たるものは、先日読了した講談社刊 鴻上尚史・佐藤直樹著「同調圧力」(日本社会はなぜ息苦しいのか)に描かれている「世間」において空気のように存在している「同調圧力」であると考えます。

「同調圧力」は、多くの場合、明言されることはないものの「世間」内部での互いの目配せによって醸成されるような、一種、忖度の前提となるようなものであり、これが空気のように「世間」内部に蔓延すると、各々の自由な発言、行動が著しく困難になり、知らぬ間に、ある特定の方向に(世間内部の)発言や行動が向かっていくといった性質があるように思われます。

そしてこれは筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻に記されている「小さな所属集団内部での情意伝達に慣れた人々が、長い間「以心伝心」を理想としてきたということもあろう。言葉による伝達には限界があり、大切なことはすべて言葉によらずに伝達されるという考え方は、日本文化のなかに浸透していた。」によって説明できるのではないかと考えます。

さらにまたそれは、明治初期に福沢諭吉が、自身の興した慶應義塾内に「演説館」を建設した理由(必要性の認識)にも近しい関係があるのではないかとも思われます。

つまり、端的に我が国では、伝統的に、言語によって構成・構築された言説によって彼我が互いに議論を交わす(戦わす)といった文化が社会そして世間に根付いておらず、あったとしても、表層的とも云える語義上での揚げ足取りといった様相になることが多いように見受けられます。

そして、こうしたことから敷衍しますと、国産の思想・哲学といったものが生まれ難いといった状況にも、浅からぬ関連性があるのではないかと思われるのです。

また、そのように考えてみますと、その基層には、古くから国民全般に広く浸透した宗教上の正典といったものが存在しないことが、少なからず影響を及ぼしているのではないかと思われます。

ともあれ、そうした事情は、昨今のインターネットの普及により、社会全般にて参照可能となった情報が著しく増加したことにより、さらに拍車がかかり、現在においては、以前よりもさらに、さまざまな「世間」を結び付け「社会」とすることが可能となる、共有化し得る「言説」を構築あるいは見出し難い状況と云えるのかもしれません。

しかしまた同時に「ある程度の世間の範囲」(たとえば地域社会)にて古くから共有化されている「言説」の核となるものは、以前と比較すると、見出し易くなってきているのかもしれません・・。その意味でも、やはり国であれ地域であれ、その辿って来た「歴史」とは、軽視されるべきものではなく、それは冒頭にて述べた「関東大震災時の朝鮮人虐殺」においてもまた同様であるように思われるのですが、さて如何でしょうか?

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


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2020年7月27日月曜日

20200727 株式会社岩波書店刊 岡義武著「明治政治史」上巻 pp.229-233

「ところで、士族層の経済的没落に対しては、新政府としても到底無関心ではありえなかった。明治6年に参議木戸孝允は、その建議の中で、「我邦人口三千万と称すると雖も、其実を推して之を算すれば、僅かに二三百万人に過ぎざるべし。何となれば、孝允嘗て西洋諸国を歴覧するに、其人民貴賤を問わず貧富を論ぜず一も国の為に其義務を尽さざるは莫くして、我邦は即ち之に反せり。農は唯穀粟を出すを以て己が務と為し、工は唯什器を製するを以て其業と為し、商は唯有無を通ずるを以て之が職と為し、皆国事に於いて毫も関渉する所無し。国の正気は民心に在て、民既に国事に心無し。何を以て民と為すに足らんや」とし、このような中で、「我邦四民中、猶能く廉恥を知り愛国の念を存し、国の為に其義務を尽さんと欲する者、独り一士族中に多きのみ。是三千万人中其器械たるを免かかる者、僅かに二三百万人に過ぎずと謂うべきなり」として、士族をまことに貴重な存在であるとみなしている。また明治11年に右大臣岩倉具視は上に引用した「華士族授産之儀に付建議」の中で述べて、「士族の情況を考ふるに、鎌倉以来の武士は猶馬を馳せ剣を試みるの戦卒たるに過ぎざりしに、徳川氏の中葉以後儒学世に行はれ、地方に学校あらざるなく、士族たる者文武を兼ぬるを以て常識とし、其子弟学問に就かざる者なく、父兄の訓ゆる所、師友の導く所一に忠孝節義、治国安民に非ざるはなく、脳漿に浸涵して幾んど固有の天性を成すに至り、其中才徳の士彬々輩出し、諸藩の治績々観るべきものあり」とし、「士族は其積世涵養の力を以て、其精神以て百科に進むに足り、其志行以て艱苦に耐るに足り、其気力以て外人と競争するに足る。今の現況を据るに、学問百科凡そ以て国の事業に進むべき者、士族の性の尤も近き所とす。・・今姑らく士族の名称を除き虚心以て之を商量するに、将来果たして国の文明を扶けて独立を維持する者、此の高尚なる種族に非ずして何ぞ乎。此高尚なる種族を除く外、我邦の人民を槩論するに、学問なく士気なく、以て重任を負担するに足らず。蓋し其の能く進修有為の地に進み、外人と競争するに足るの日を待つは、猶ほ二三十年の後に在るべし。故に我政府は此の高尚の種族を失わずして与に共に前路に進むとき、大に将来の進歩を裨益すべし」となしている。また参議伊藤博文は明治十三年十二月のその建議の中で、「今天下の人物、品流を概論するに、其国事を担当して文明を率先たるに堪ふるもの、士族に望まざることを得ず。而して、士族の位置は宜く貴族の一部たるべし」と唱えており、翌十四年に諸参議が連署して提出した立憲政体に関する奏議の中にも、「士族の封建武門の世に於ける、平民の上に位し、教育素より気節有為の人多く其間に出づ。是れ宜く貴族の一部たるべし」となしている。

 士族層を高く評価して、これを重要視したのは、しかし、新政府に限らなかった。福沢諭吉の場合のごときも、その一つのよい例である。福沢は「封建の門閥制度」にためにその父が学才を生かしえなかったのを回想して「門閥制度は親の敵」と考えたことは、よく知られている。しかし、そのような彼もまた封建制度の遺産である士族層に対し強い期待を寄せたのであった。彼は「時事小言」(明治十四年)の中で「国民の気力を養ふ」方策として「士族の気力を維持、保護する」ことが必要であるとし、「日本の社会に於て事を為す者は古来必ず士族に限り、乱に戦ふ者も士族なり。治に事を執る者も士族なり。近くは三十年来西洋近時の文明を入れて其主義を世間に分布し、又維新の大業を成して爾後新政を施したる者も士族ならざるはなし。所謂百姓町人の輩は唯これを傍観して、社会の為に衣食を給するのみ。之を人身に譬れば百姓町人は国の胃の腑にして、士族は其脳の如く又腕の如きものなり。事を為すの本源は脳に位して、其働は腕に在り」とし、胃のみが丈夫で脳と腕との力を発揮できないものは「活溌の人」とはいいえない。これを動物にたとえれば豚のごときものである。それ故に、「今我国に士族の気力を消滅するは、恰も国を豚にするものにして、国権維持の一事に付き其影響の大なること論を俟たずして明」かである。士族はひとり政治、学術の面ばかりでなく「殖産の道」においても「全国の魁を為して人民の標準たるべき者」であるとし、また述べて、人の能力は実際に血統に因る天賦である。「この能力遺伝の主義を以て日本全国の人民を通覧したらば、士族の血統を惜しむ可しとの理由は特に喋々の弁を俟たずして明白」であろう。それ故に、士族の「数百年来遺伝の教育血統(武士層の間に行われて来た伝統的な精神教育を指すー著者)」を保全することは、「天下の大計」上から必要であり、士族層をむなしく経済的没落の運命に委ねることは、「百丈の大木鬱々たるものを故さらに発掘して其根を露し之を日に照らして、坐して其枯るるを待つ」ようなもので、「智者の策」とはいえない、と力説したのである。」

2019年6月24日月曜日

20190624 「翔ぶが如く」を読了し、次の著作を読みつつ思ったこと

先日ようやく「翔ぶが如く」全10巻を読了しました。これまで当作品に関して記したいくつかのブログ記事は、投稿直後から、ここ最近の投稿記事では珍しいほど、多くの方々に読んで頂きました。これらを読んで頂いた皆様どうもありがとうございます。


この作品を読了し思ったことの1つは、我が国の「官」についてです。この作品では、現代に繋がる我が国の「官」の体制が、未だ盤石でなかった時代が描かれていると云えますが、おそらく、良くも悪くも、この作品にて描かれている西南戦争による「学び」から、我が国近代国家の統治の癖のようなものが定着したと思われます。

そして、それが時代を経るごとに、少しずつカタチを変えつつ、同時に根本的には大きな変化をすることはなく、太平洋戦争後の現代に至るまで継承され続けているように思われます。また、そうした「統治の癖」がインターネットによる情報化社会によって露わになり、その「統治の癖」と「社会全般での意識水準」の均衡を得るため、何と云いますか「時代精神の変革」を余儀なくされているのが現在であると云えます。

とはいえ、こうした時代精神の(特に内発的な)変革は、おそらく、我が国が不得意とするところであり、また、その変革のためには古今東西の事例、すなわち、
研究などにより、ある程度明瞭に抽象化された歴史像の存在および、その社会での定着が重要であると思われるのですが、これがさきの「時代精神の変革」から遡り、さらに不得手であるように思われるのです。

一概には云えませんが、我が国社会全般が持つ性質として、即物的に感知可能と云える 
表層的な要素に対しての感受性はかなり鋭い一方で、抽象的な意識の連合、あるいは思想に関しては、それらに基づいて他の考えを評価したり、新たに他の思想を組み立て、表明することを、敢えて避けるようなところがあると思われます。 

そして、その淵源について考えてみますと、近代社会以降に関しては、冒頭の「官」による西南戦争からの学びがあるのではないかと考えます・・。さらに、そうした「官」側の姿勢を批判したものが福沢諭吉や夏目漱石にはじまり丸山眞男に至るまでの近代日本について述べた思想家、著述家など人文社会科学分野の系譜であると云えるのではないでしょうか。


また、そのように考えてみますと、昨今、主に会社経営、医学など実学分野での学問研究に対しては「官」側からも積極的に支援する一方、歴史や思想といった即物的には実学とは (到底)云い難い学問研究は、以前に比べ、さらに避けられている、もしくは多少悪意的にとれば「エピゴーネンの生成」に腐心・注力しているようにも思われます。 

そして、そうした視座に基づき、先日から当ブログにてとりあげたウンベルト・エーコによる「プラハの墓地」を読んでみますと、なかなか考えさせられるものがあると思われます。


そういえば、「プラハの墓地」は、その後100頁以上にまで読み進み、また、現在そうした状況であることから、さきに読了した「翔ぶが如く」と、当著作を関連させようとするのかもしれませんが、以前も当ブログにて述べたことですが、面白いことに両著作の時代背景は20年程度しか変わらないのです・・。 

さらに、こうしたことを書いていますと不図、想起されるのは、さきの両著作時代背景の 中間期の我が国社会を背景とし、また、作中随所に当時の社会状況についての描写も見られ、そして饒舌とも云える独白形式の文体が作中多くを占めることにより「プラハの墓地」とも共通する要素があるように思われる夢野久作による作品「犬神博士」なのですが、さて、この指摘は面白いでしょうか・・(笑)。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部



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2018年11月16日金曜日

20181116 ある地域の生活文化について述べようとして・・

以前に何度か当ブログにて述べたことではありますが、世界の様々な生活文化の中で、何らか・いくつかの要素が共通し、ある地域に見受けられることがあります。その卑近な例を一つ述べますと『箸を用いて食事を摂る文化は東アジア特有である。』といった感じです。

とはいえ、おそらくは蒸気・内燃機関の進化発展に端を発し、特に近代以降、国際的な人々の往来が盛んになり、その結果、人に付随するさきの生活文化も混淆し、そこから更に新たな生活文化の相が形成されているのが現代であると云えますが、それらの始原・オリジナルでは、ある地域においてのみ特有である生活文化が、まさしく土着のままで地域に根差していました。しかしあるいは、その状態もまた、さらに以前の時代における人々の往来による各種生活文化の混淆の結果、形成されたものであるのかもしれませんが、それでも、それは殆どの場合、蒸気・内燃機関の進化発展によりヒト・モノの輸送効率が急激に改善された後と比較しますと、より始原・オリジナルに近い状態を示していると云えます。

その意味において、我が国の近代化は19世紀後半以降であり、また、それ以前までの我が国の歴史、生活文化は始原からの有機的・緩徐的な文化の蓄積によって形成されており、対して19世紀後半から現在に至るまでの我が国の歴史そしてそれに付随する生活文化はジェット・コースターのように乱高下、あるいは活発に変化しているように思われます。また、そうであるからこそ、現在においてもなお、福沢諭吉、夏目漱石等からはじまり竹山道雄、丸山眞男、山本七平、大岡昇平、会田雄次、三島由紀夫、司馬遼太郎等の我が国社会に対する文章化された思想・思いなどを『生きたもの』として我々が知覚することが出来るのではないかと思われるのです・・。

しかし他方、彼等、近代以降の思想家・著述者等の文章を、まさに『生きたもの』として読むことが出来、さらに、それぞれの思想にピントを合わせて現在の我が国社会を眺めてみますと、そこから映ずるものは一体どのようなものであり、また、どのようにコトバにて表現され得るものなのでしょうか・・?

本来はこのようなペシミスティックな考えを述べるつもりではなく、この19世紀後半までの比較的ゆっくりとした歴史の積み重ねにより形成された我が国の地域における生活文化は、戦後しばらくまでは、おそらく地域に濃厚に残存しており、また、こうした身体感覚として認識出来る残存した生活文化と民俗学の書籍をある程度読み込むことを融合させることにより、その地域の生活文化そしてまた歴史をも深くまで知ることが出来るようになるのではないかと思われます・・。

もちろん、そのようなことは好きでなければ出来ませんし、いや、それ以前に、これまでの我が国のお家芸であった表層的な認識・真似による対外的な優等生ぶりが通用しなくなってきているのが(皮肉なことであるのか)各種機器の進化発展が著しい『現代』であるのかもしれません・・。

今回本当に述べたかったことは東アジア南部の主に内陸部を中心とした生活文化『照葉樹林文化』のことであり、不思議なことに、こうしたことは、首都圏在住時では感じることが出来なかったのですが、ここ徳島ではごく身近なものとして感じられるのです・・。こうした感覚は、読書の結果得たものなのでしょうか、それとも所与のものであるのでしょうか?

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

~書籍のご案内~
祝増刷決定!
ISBN978-4-263-46420-5

医歯薬出版株式会社刊
~勉強会の御案内~
前掲書籍の筆頭著者である師匠による歯科材料全般、あるいはいくつかの歯科材料に焦点を当てた勉強会・講演会の開催を検討されておりましたら、よろこんでご相談承ります。師匠はこれまで長年にわたり大学歯学部・歯科衛生・歯科技工専門学校にて教鞭を執られた経験より、さまざまなご要望に対応させて頂くことが可能です。

*上記以外、他分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
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どうぞよろしくお願いいたします!

数年前より現在までに日本列島各地・特に西日本において発生した、さまざまな大規模自然災害により被害を蒙った地域の速やかな復旧そして、その後の復興を祈念しています。

↑こちらもどうぞよろしくお願いいたします! 

2018年2月1日木曜日

20180201 【再投稿】岩波書店刊 中島岳志編『橋川文三セレクション』pp.90-93より抜粋引用

一体、明治期におけるナショナリズムの理念を支えた主体の構造はいかなるものであったか?
いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。

橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三

2017年12月22日金曜日

20171222 明治維新から日清・日露の役に至るまでの一視点

明治維新以降の我が国における文明化とは専ら西欧化のことであり、この西欧化とは、本来それとは異なった歴史文化を育んできた我が国からすれば、それまでの過去に対する訣別の意味合いが強かったと云える。

また、当時我が国にさまざまな学問・技術の指導の為来日していた外国人の記録を見ると、当時、西欧化の担い手として彼らから教育を受けていた多くの我が国の若者には、自らの歴史文化を恥じ、これを否定するといった側面があったと記されている。

ともあれ、その一方で当時の我が国とは、産業を興し国を富ませ、軍備を増強しなければ西欧列強の植民地となってしまう可能性も十分にあったことから、少なくとも、当時においては自身オリジナルの歴史文化の価値について論じる余地などはあまりなかったのではないかとも思われる。

如何せん当時は帝国主義真っ只中の国際情勢であり、また同時に我が国とは概ねコーカソイドにより構成される西欧列強諸国とは人種的に異なるモンゴロイドにより構成される国であった。

現今の国際社会においても人種問題とはなお多く耳にするが19世紀・20世紀初頭においては西欧列強の帝国主義を肯定・是認する社会進化論といった思想が最新の科学的知見として広く受け入れられていたことから、当時、西欧列強の中で我が国が味わったであろう苦痛・不合理とは現今の基準にて考えれば並大抵のものではなかったと思われる・・。

ともあれ、それでも我が国は独立を保持するため、西欧列強に伍して闘い続けなかればならなかった。

あるいは、当時はそれだけが独立国として生き残る有効な選択肢であったとも云える。

そして、当時の我が国とは正しく身命を賭して、こうした世界的風潮(西欧列強による帝国主義・世界規模の権益の伸長)と自身を同化させることにより戦ってきたことについては、もう少し世界的に評価されても良いのではないかと思われるところであるが、こうしたことは西欧諸国・アジア諸国双方にとって、あまり認めたくない、あるいは注視の必要がない歴史の一部分であるのかもしれない・・。

いや、モンゴロイドの国であるにも関わらず、西欧列強の帝国主義を真似して参加し、その末端のお先棒を担いだといった、あまり名誉ある扱いには値しない国とされているのではないだろうか・・。

また、さきにも少し触れたが明治維新以降、西欧的な文明化を国策とし、その実績をあげつつあった頃、隣国の中国(清王朝)、(李氏)朝鮮とは未だ旧態依然として低迷の状態にあり、それに対し我が国とは、その事態につけ入り、侵略政策を取ったと考えられやすいが、そうした見方とは当時の我が国を見誤っていると云える。

当時の我が国とは、現在における国際感覚とは異なり、未だ江戸期以来の文化伝統が色濃く残る社会でもあった。

その意味から当時、隣国の中国、朝鮮とは、古来からの文化的交流にて耳慣れた国々であり、それらに対して我が国が強く望んだことは一日も早く近代化の道を歩んでくれることであったが、こうしたことは少数の理解者、賛同者を得たものの、全体的な流れとはならず、その結果我が国は我が国で独自の道を歩むようになっていった・・。

また、当時の思想家・教育者である福沢諭吉が1885年に時事新報にて『脱亜論』を発表したが、それを述べた同じ人物が当時の(李氏)朝鮮における改革派勢力を支援していたことは一体どのような歴史的文脈に基づくものであるのかとは、なかなか興味深いことではないかと思われる。

ともあれ、その独自の道を歩んだ我が国の先にある山場が日清・日露の役であった・・。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。























2017年5月24日水曜日

20170524 これまで5月内で最も多く読まれた記事について・・

A「昨日分の投稿記事は思いのほか多く読まれており、少し驚きました。

さて、今月も後半に入ってよりしばらく経ち、もう間もなく6月となりますが今月5月にて最も多く読まれた記事は5月5日投稿分の『再び荷物の整理をしていて思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】』であり、次に多く読まれていた記事との差はあまり大きくありませんでしたが、ともかくそのような結果となっております。

おそらくこの記事は記事後半の書籍からの抜粋引用部が興味を惹いたのではないかと思われますが、たしかに、ここで述べられているような考えとは、おそらく我が国において少なくとも広くは認知されておらず、また現今の社会情勢においてもより一層、高等教育≒職業教育の傾向が強まってきているものと考えます・・。

とはいえ、それは社会の趨勢であり、それに対しあくまでも反対し続けるのも実際問題としては困難であると思われますので、たとえば、高等教育における医療・介護科目あるいは技術科目の選択必修化といったことは、自身の経験から、あながち悪いことではないと考えます・・。

何故ならば、我々人間とは、実際に手を用いる何らかの継続的な作業を通じて、より、その思考、思想が練れてくるのではないかと考えるからです・・。

つまりは、そのような実際の作業経験を通じ理系学問に対して興味が湧く方もいるであろうし、一方、そこでの経験から文系学問への興味が加速する方も少なからずいるであろうということです。
おそらく、作業経験が理系あるいは文系学問への能動的な興味に発展するのかとは、その個々人の基層にある天然の資質にかかっているものと考えます。

そして、当然ではありますが、そこには本質的には学問間の上下関係はありません・・。

そこではじめて、さきに挙げた記事抜粋引用部のミルの主張および同著者の文章を引き論を進めた福沢諭吉の精神とも、どうにか折り合いがつくのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?

とはいえ、そこで重要なことは、それら科目群【医療・介護・技術】が必修になる場合において、能動的な興味を惹起させずにそれらが単に創造的回避、処理の対象としてしまってはいけないということです・・。

【小林秀雄が『教育とは、教育者が現れることだ』とどこかで述べておりましたが、それはこうした意味もあるのかもしれません・・。
また、このことは高等教育のみならず、どの教育段階においても共通して云えることではありますが・・。】

おそらく、近代以降の我が国の教育制度とは、その早急な近代化、西欧化を推し進めるあまりに、制度、カタチの輸入、定着ばかりにこだわり、その持続的な発展性、持続可能性についてはあまり考えてこなかった、考える余地がなかったのではないかと思われることがあります・・。
【こうしたことは軍隊教育を具体例として述べられることが多い。】

そして、その悪弊とは、戦後期においても受け継がれた結果が現在のあまり芳しくない諸状況ではないかとも思われます・・。

そういえば、ここまで書いており不図思ったことは、先日読了した増田俊也著『七帝柔道記』の登場人物たちのハビトゥスは福沢諭吉著『福翁自伝』のそれに近いのではないかということです・・。

興味を持たれた方は是非読み比べてみてください・・(笑)。

ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」





2017年4月28日金曜日

20170428 最近よく眠くなること、および読んでいる著作について【抜粋引用あり】

先日の600記事到達から本日の記事投稿によって10記事作成したことになります・・。

この10記事とは案外早く感じ、あるいはこの調子で書き続ければ700記事への到達もまた、そこまで先ではないとわずかに錯覚を覚えるのですが(笑)、その一方で、やはりある程度疲労は蓄積しているようであり、先日の記事にも書きましたが、少し気が抜けるとすぐに眠たくなってきます・・。

また、そのように書いておりますと、不図思い出すのは、このようなことは以前にもあったということです・・。

それは鹿児島在住初年目2009年の暮れ頃であり、当時はどうしたわけか、常時眠くて仕方がない状態でした・・。

具体的には、電子顕微鏡で試料を観察しながら、いつの間にか意識が飛んでいたり、パソコンの前で何か作成している時もそうしたことが生じていました・・(苦笑)。

現在になり考えてみますと、それは同年11月に兄が亡くなっていたことが何かしら関係していたのではないかと思われますが、その詳細な原因とは今もって不明です・・。

また、そうしたことを思い出してみますと、今回のそれは前述2009年に経験したものに比べれば、大したことではなく、また、その原因とは継続的なブログ記事作成にあることは感覚的に理解できますので、これを改善するためには、ある程度記事作成の頻度を抑えることが効果的であろうとは自然に思い至るのですが、それでも、このように記事作成をほぼ習慣的にはじめてしまうことが、まさしく『分かっちゃいるけど止められない』といったところではないでしょうか・・(笑)。

とはいえ、そうした状態にて記事を作成しておりますと、不思議なことに比較的スムーズに文章は湧くようであり、ここまでの記事作成も割合速やかに為されております・・。

また、それは現在読み進めている夢野久作の著作の影響によるものであるかもしれません・・。

この著作もおそらく本日あるいは近日中に読了に至ると思われますが、その中で述べられている時代、地域の状況とは、おそらくある程度史実に沿った、近いものであり、また、さらにそこから既読の複数著作に思い至るわけですが、中でも中江兆民著『三酔人経綸問答』あるいは福沢諭吉著『文明論の概略』などは、この著作の時代、地域などの背景を理解する上において効果的であるのではないかと思われます・・。

また、それをさらに『地域』に重点を置いてみますと、大西巨人著『神聖喜劇』、野上彌生子著『迷路』などに描かれている世界にも相通じる部分が少なからずあるのではないかと思われます・・。

ちなみにこの夢野久作の著作とは『犬神博士』であり、その独特の文体から繰り広げられる世界観はなかなか面白く一読の価値があると考えます。
そこまで長い著作ではなく、比較的気軽に読むことが出来ると思いますので、興味のある方は読んでみてください。

では下に、この著作冒頭一部分の抜粋引用を示します。

株式会社KADOKAWA発行 夢野久作著 『犬神博士』 pp.10-11
『その次は何だ。エッ。犬神博士。
どう言う意味だ、それは・・。我輩は
大神二瓶という立派な姓名があるのだ。
その大神のアタマの大の字の横ビンタへ何で石ころをブッ付けた。
誰にことわって犬にしてしまった。我輩が犬を飼っているからと言うのか。
フーム。そうじゃない。吾輩の言う事が犬神さまみたいに適中ると言うのか。馬鹿にしている。
我輩の予言と犬神様の御託宣と一緒にする奴があるか。元来ここいらに犬神が流行るものか。
ナニ。俺がいるから流行らない。馬鹿にするな。そんなら犬神の故事来歴を知っているのか。
知らない。ソレ見ろ。知りもしないのに利いた風な事を言うな。

ナニ。犬神の話を聞かせろ。ウン。知らなきゃあ話してもいい。元来犬神というのは吾国に伝わる迷信のうちでも一番下等なものなんだが、それだけにトテモ愚劣な、モノスゴイ迷信なんだ。主として中国、山陰道方面に流行したものだがね・・。

先ず或る村で天変地異が引き続いて起る。又は神隠し、駈落ち、泥棒、人殺しなんどの類が頻々として、在来の神様に伺いを立てた位では間に合わなくなって来ると、村中の寄り合いで評議して一つ犬神様を祭ってみようかと言う動議が成立する。

そこで村役、世話役肝煎役なんどが立ち上って山の中の荒地を地均して、犬神様の御宮を建てる一方に、熱心家が手を分けて一匹の牡犬を探し出して来る。

毛色は何でも構わないが牝犬では駄目だそうだ。牝は神様になる前にヒステリーになってしまうからね。

その牡犬を地均した御宮の前に生き埋めにして、首から上だけを出したまま一週間放ったらかして置くと、腹が減ってキチガイのようになる。そこでその汐時を見計らって、その犬の眼の前に、肉だの、魚だの、冷水だのとタマラナイものばかりをベタ一面に並べて見せると犬は、モウキチガイ以上になって、眼も舌も釣り上った神々しい姿をあらわす。
その最高潮に達した一刹那を狙って、背後から不意討ちにズバリと首をチョン斬って、かねて用意の素焼きの壺に入れて黒焼きにする。
その壺を御神体にして大変なお祭り騒ぎを始める。
ところでその犬神様に何でもいいから、お犬様のお好きになりそうなものを捧げて、お神籤を上げると、ほかの神様にわからなかった事が何でも中ると言うから妙だ。
天気予報から作の収穫、漁獲のあるなしはむろんの事、神隠しが出て来る。
駈落ちが捕まる。間男、泥棒、人殺しが皆わかると言うのだが、成る程考えたね。
人間だってそんな眼に会わせたら大抵神様になるだろうが。』

・・・たしかに我々日本人にはどうもこうした傾向があるように思われ、また、現代においても、そこからあまり進化はしていないのかもしれないと考えさせることがあります・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。







2017年3月1日水曜日

20170301 555回目の投稿 主に書籍からの抜粋引用 Alternative Facts of Japanese Modern History?

今回の記事投稿により、総投稿記事数が555記事となります。
この数字は特にキリが良いわけではありませんが、ゾロ目ということで、わずかに気分が高揚します・・(笑)。

さて一方、本日の首都圏は日中気温は多少上がったものの、夕刻よりの降雨により現在はまた肌寒いといっても良い状況であると思われます・・。

また、この降雨は明日一杯続くとのことから気が重く、そのことから、先ほどのゾロ目云々はこれで相殺されるようなカタチとなります・・(苦笑)。

しかし、この現在降っている雨も少し以前の明らかな『冬の雨』に比べると、わずかながら春めいているとも感じますので、やはり季節は春に向かっているのでしょう・・。

そしてお春に向かっている』でもう一つ感じるのは、花粉症の症状が昨今またわずかに認められることです・・。

そういえば、花粉症に関しては首都圏、和歌山在住時のいずれも、そこそこ悩まされましたが鹿児島在住時はすっかり影を潜めておりました・・。

その代わりに鹿児島は降灰があり、これには悩まされました・・。では『花粉症と降灰でいずれがマシか?』と二者択一で考えてみますと、これまたなかなか悩まされる問題です・・(笑)。

ともあれ、こうしてハナシが鹿児島になったところで以降本日の投稿記事は、昨日の記事にも書いたとおり、橋川文三による西郷南洲翁(隆盛)についての記述を抜粋引用してみようと思います・・。

橋川文三著 文藝春秋刊 「西郷隆盛紀行」pp.202ー207より抜粋
「話は少し変わりますが、西郷が明治二十二年でしたか、名誉回復がなされますね。
少しこだわるようですけれども、私としては、やはり西郷は永遠の逆賊であったとしていた方がよかったような気がします、そして西南戦争の年でしたか、福沢諭吉が書いたような「丁丑公論」のような西郷評価が残っていたならば、日本人にとってもそれはよかったんじゃないかと思います。
だからといって、最近見られるような西郷復活というか、やはり西郷さんは偉かった式の感じ方はそのままでは私は認めたくない。しかし、西郷は逆賊であった、あるいは反動であったというふうにまとめていわれるとそれも違う、それは間違いだと思ってしまう。日本の近代化の問題を考えてみて、今の日本とは違ったものができたはずだという思い―正反合というんですかね、そこで西郷も生きてくるという感じです。」
中略
「西南戦争が難しいというのは、第一にリーダーである西郷自身が、どういう姿勢を持っていたのかはっきりしない点があります。それから政府軍というのは、これはもう近代的な装備を持つ堂々たる軍隊で、西郷軍というのは、それに比べて前近代というか、もっと泥臭い感じ、土俗的な軍隊ですね。
そうするともう勝敗の行方は明らかなんで、敗けるべくして敗けたという感じが強い。
そういう意味で明治十年というのは、従来の土俗的なもの全てが駄目だということを、改めて天下に示すという恰好になって、それ以降は近代主義がもっと羽を伸ばすということになります。
私の感じでは、たしかに日本の近代主義はひとつの成功をおさめます。そしてそれなりに順調に歩みますが、結局、第二次大戦での敗戦という形で失敗してしまう。こう見てくると、やっぱり西郷の方がよかったんじゃないかという気がしてくるんです。
というのは、鹿児島の中村きい子さんの小説「女と刀」の中で、今度の戦争の敗戦場面が描かれていて、そこで一人のお婆さんに、彼女は西南戦争で敗れて帰ってきた自分の父親の話をよく覚えているんですが、つまり西郷さんはあんな戦争をしろとは言わなかったはずだ、だから西郷さんが勝っていたならば、こんなひどい目にあわなくても済んだと語らせているんです。
もう一つは、柴五郎の「ある明治人の記録」(石光真人編著・中公新書)を見ても、彼は会津藩ですから、勿論西南戦争当時は西郷憎しというので志願までしていて、結局、戦争には参加できませんでしたが、西郷敗るの報に非常に喜んでいるんです、しかしその彼が、今度の第二次大戦をかえりみて、反省すべき点がありそうだという意味のことを語っていたように思います、学問的なことからいうと、こういう薄弱なデータしかないんですけれど、今紹介したような、当時のことを経験した人たちが自分の心底から語っているようなことは、この他にも意外にたくさんあったんではないかという感じがして仕方ありません。

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。







2016年9月11日日曜日

20160910 筑摩書房刊・山田風太郎著 「秀吉はいつ知ったか」pp.243ー249より抜粋引用

「榎本武揚はまさしく英才であった。少年時、昌平黌に学び、青年時、海軍伝習所に学んだというのだから、現代でいえば東大を出て、防衛大学を出たようなものだ。そして二十代後半の五年間をオランダに留学した。当時おそらく近代兵学、近代科学についての素養において、彼の右に出る者はなかったであろう。その自負ゆえに、彼は帰朝して早々にぶつかった幕府崩壊の嵐の中にひとり屈せず、幕府艦隊を率いて五稜郭に立てこもり、官軍に猛抵抗して徳川の侍の最後の意気地を見せた。その壮絶さが官軍の参謀黒田清隆を感心させ、箱館戦争終結後、みずから坊主になってまで叛将榎本の助命に奔走するという美談を作り出した。降伏後、牢から出た榎本は、以後海軍中将に任ぜられ、ロシアや中国の駐在公使、外務、海軍、農商務、文部等の大臣を歴任する。元幕臣、しかも新政府に対する叛将というハンディキャップを持つ人間としては稀有の栄職である。いかに彼が有能であったかがわかる。ただ、きれるだけでなく、榎本は快男児であった。
五稜郭の戦いのみならず、オランダへゆくとき、ジャワ海で嵐のために船が難破して名も知らぬ小島に漂着し、海賊船に襲われたが、かえって日本刀をつらねて海賊たちを制圧し船を出させたという逸話、海軍卿時代、隅田川に海軍の汽艇二隻を浮かべ、芸者を満載してドンチャンさわぎをやったという快談、ロシア駐在公使の任を終えたとき、まだ鉄道もないシベリアを馬車で横断して帰国したという冒険など、あたかも武侠物語の主人公の観がある。しかも写真で明らかな通り、日本人は珍しいほどの颯爽たる美丈夫である。まさに人物、風貌、男の中の男といっていい。この榎本武揚にして、私の見るところでは、その人生において重大な二つのミスをした。人生のミスはなにも彼にかぎったことではないが、いかにも武揚らしくないミスである。ミスというより、誤判断だがー。
一つは、例の福沢諭吉の「痩我慢」問題に見られる福沢との鞘当てである。
明治三十四年(1901)、福沢諭吉は「痩我慢の説」という文章を発表した。実に福沢が死ぬひと月前のことである。彼は、国家も個人も痩我慢が大事である。平時において大国に対して小国が独立を保つのも痩我慢の精神、戦時において国敗れんとするも最後まで全力をあげるのも痩我慢の精神だとして、維新時なお戦う力があるのに幕府を売ってしまった勝海舟を嘲罵した。兵乱のために人を殺し、財を散ずる禍いを軽くしたかも知れないが、一国の士風をそこなった罪はそれより重いとしたのである。さらに、それはなお許すとしても、維新後、勝が新政府の栄爵の地位を得るのは何ごとか、と弾劾した。
そしてまた彼は、ほこさきを榎本武揚にも向ける。
榎本が、すでに滅亡した徳川武士の意気地を見せようとして五稜郭で戦ったのはまさしく痩我慢の見本であっぱれなふるまいだ。たとえ敗れて牢に投じられたとしても、勝敗は兵家の常ととがむべきではない。しかし、そのあとがいけない。
「氏が放免の後に、さらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服する能わざる所のものなり」
と、福沢は言い、榎本よ、君はいま青雲の志をとげて安楽豪奢に余念がないかも知れないが、夜雨秋寒くして眠る能わず、残燈明滅独り想うのとき、五稜郭で君に殉じて戦死したいくたの部下たち、またそのあとに残されて路傍に彷徨した母や子たちを想像して腸を寸断されることはないか、と述べ、榎本のいま世に処すべき唯一の路は、坊主となって死者の菩提を弔うか、そうでなければせめて世間の耳目から隠れてひっそりと生きるべきである、と断案を下した。
実はこの文章を公開する前に、福沢はこれを勝と榎本に見せ、これについて何か言いたいことがあれば言え、という手紙を送った。
維新時まっさきに両刀を捨てた「平民」福沢諭吉から、「士道」についてのこの公開状をつきつけられて、勝海舟のほうは、行蔵は我に存す、毀誉は我に関せず、そのまま公表されても毛頭異存なし、という風のような返事をよこし、榎本のほうは、目下多忙、そのうち愚見を述べる、と、ぶっきらぼうに言って来たが、それだけで、以後何も言って来なかった。実は福沢の文章を読んで、彼は真っ赤になって激怒したといわれる。
この「痩我慢の説」は明治三十四年に発表されたのだが、実際は十年前の明治二十四年に書かれたもので、それはその年福沢が興津に遊んだとき、そこでの清見寺の境内に建ててある一つの石碑を見たからである。明治元年(1868)八月、榎本は幕府艦隊をひきいて北海道へ向かったが、途中房総沖で暴風のために艦隊四散する難に遭った。
その中の一隻咸臨丸は清水港までおし流されたところを官軍方の攻撃を受け、おびただしい死者が海に浮かんだままになった。それを土地の遊侠清水の次郎長なるものが一々ひろいあげて、ひそかに葬った義挙を伝えるための石碑であった。
咸臨丸は福沢が、勝艦長とともにはじめてアメリカへ渡ったときの船である。
「それからの咸臨丸」の悲運に万感をもよおしながらこの記念碑を見た福沢諭吉は、その裏面に、「人ノ食ヲ食ム者ハ人ノ事ニ死ス。従二位榎本武揚」と彫りこんであるのに気がついて、帰京後たちまち「痩我慢の説」の筆をとり、かつその内容をひそかに勝と榎本に示したのである。榎本の文字は徳川に殉じた侍たちを悼んだものだが、福沢は、徳川の禄を食みながらついに徳川のために死ななかったやつが、えらそうに何を言うか、という心情を勃然と発したのであった。そして、これについては福沢と榎本の間に、明治の劈頭早々に、次のようなただならぬいきさつがあったのだ。
明治二年(1869)六月、降将として箱館から東京に送られた榎本武揚が辰ノ口の牢獄にいれられたまま、それっきり消息が絶えてしまったのを、榎本の老母や姉たちがひどく案じているといううわさをふと耳にした福沢諭吉は、榎本とは一面識もなかったにもかかわらず、榎本の最後の勇戦ぶりに感心していたこともあって、義侠の人肌をぬいだ。
彼はひそかに武揚が牢で健在であることを調べて家族に知らせてやり、牢獄に書物その他を差し入れてやり、はては武揚の母に代わって助命嘆願まで書いてやり、さらに黒田清隆と相談して触法運動に奔走さえしたのである。ところがである。やがて釈放された武揚は、この福沢の労にまったく酬いることがなかったのだ。どうやら出獄後、礼のあいさつにさえゆかなかったらしい。福沢の尽力のことは家族から聞かなかったはずがない、-いや、それどころか彼自身獄中で、福沢から差し入れられたオランダの化学書も受けとったのに、これに対して彼の感想は、「実は、この方一同、福沢の不見識には驚きいり申し候。もそっと学問ある人物と思いしところ存外なりとてなかば歎息いたし候。これくらいの見識の学者にても百人余の弟子ありとは、我が邦いまだ開化文明のとどかぬこと知るべし」と、姉宛の手紙に書いたようなものであった。榎本は、福沢から差し入れられた化学書があまり初歩的なものであったので、かえってむっとしたのである。彼の語学力、また西洋知識についての自信は絶大なものがあった、自分の履歴についてのプライドは天より高かった。おそらく、直参、最初の留学生、徳川艦隊司令長官のコースを経た彼は、九州の小藩の下級武士出身で、いまは市井に塾をひらいているだけの福沢という男が、自分のために多少の奉仕をしてくれようと、町人が殿様に犬馬の労をとってくれたぐらいにしか思わなかったのではあるまいか。」
「秀吉はいつ知ったか」
ISBN-10: 4480433031
ISBN-13: 978-4480433039
山田風太郎





2016年8月15日月曜日

20160815 主に書籍からの抜粋 立国の根本とは・・【書籍からの抜粋あり】『忠誠と反逆』より

本日2016年8月15日分のブログ記事とはインターネット接続が出来ない環境にて作成しております。
こうし環境にてブログ記事作成を行うのは、かなり久々であり、仕方なく白紙のワード文書にて作成しはじめました。

とはいえ、このような若干の環境の変化により記事が思い浮かばなくなるということもなく、何かしら記しはじめた次第です。
さて、本日は終戦(敗戦)記念日であり、また同時に我が国の暦上においてはお盆(祖霊を祀る行事)ということもあってか、本日の通勤電車は普段に比べ幾分か空いておりました。
また特に本日8月15日は終戦(敗戦)記念日ということからではありませんが、久々に丸山眞男著・筑摩書房刊の「忠誠と反逆」を取り出し読んでみました。


この著作表題となっている「忠誠と反逆」とは、現代の我々が読んでみてもたいへん興味深い内容であり、就中その中の福沢諭吉の思想について触れた部分とは、我々日本人の近現代史(あるいはそれ以前をも)を考える上で大変興味深い記述が散見されるのではないかと思われます。
では、その一節を下に示します。


PP.55-58
「天下の大勢」という客観的な法則はあくまで法則であり、「勝てば官軍」という事実はあくまでも事実である。
しかしこの法則なり事実が自我の次元において忠誠転移の根拠になり口実となることに福沢は我慢がならなかった。

いわゆる絶対的な名分論がもし純粋に自我に内面化されたものならば、それは「盲目」であり「愚鈍」ではあっても、こうした滔々とした転向は生まないはずである。

とすれば「今の所謂大義名分なるものは、唯黙して政府の命に従ふに在るのみ。」したがって万一、西郷の企てが成功したならば、おそらく現在西郷に逆賊のレッテルをはっている役人どもも「寝返りの易くして神速なるべきは智者を俟たずして明」らかであり、「其、新聞記者の如きは展転反側の最も自在にして最も妙を得たる者なるが故に、忽ち筆を倒にして後へを攻め、以て正三位陸軍大将西郷隆盛公の盛挙を賛成」するだろう。

「実は人民の気力の一点に就て論ずれば、第二の西郷を生ずるこそ国の為に祝すことなれども、其これを生ぜざるを如何せん。余輩は却て之を悲しむのみ」。


この立地点が、後年、勝海舟と榎本武揚の行動を「三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以って立国の根本たる士気を弛めた」ものとして痛烈に論破した「痩我慢の説」にまっすぐ連なっていることはもはや喋々を要しない。

福沢における「痩我慢」の精神と「文明」の精神と、「士魂」と「功利主義」との矛盾あるいは二元性ということがしばしば指摘される。

抽象的に二つの「イズム」をとりあげるならば、たしかにそうもいえるだろう。

しかし思想史の逆説と興味は、まさにそうした抽象的に相容れない「イズム」が、具体的状況のなげかけた「問題性」に対する応答としては結合するというところにある。

あたかも幕末動乱に面して武士における家産官僚的要素と戦闘者的要素とが分裂したことに照応して、忠誠対象の混乱は、「封建的忠誠」という複合体の矛盾を一挙に爆発させた。家産官僚的精神によって秩序への恭順のなかに吸収された君臣の「大義」は一たまりもなくその醜い正体をあらわした。

しかもいまやその同じ「秩序への恭順」が皮肉にも「上から」もしくは「外から」の文明開化を支える精神として生き続けているではないか。
矛盾したものの結合は実は福沢の批判する当の対象のなかにあるものであり、「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し」という状況判断に立った福沢は、右のような形の「封建性」と「近代性」の結合を逆転することで―すなわち、家産官僚的大義名分論から疎外され現実の主従関係から遊離した廉恥節義や三河(戦国!)武士の魂を、私的次元における行動のエネルギーとして、客観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進させようとしたのである。


「丁丑公論」における「抵抗の精神」の力説と、「学問のすすめ」や「文明論之概略」における「人民独立の気象」の要請とは、こうして福沢の立場においては密接につながっていた。

たしかに福沢は「封建的忠誠」の分解をラディカルに推しすすめたが、その作業は、単純に「封建的」に代わって「近代的」なものをすげかえるのではなくて、現実に進行していた解体を利用して、その構成契機の役割を転換させることにあった、封建的忠誠における外面化の傾向をしてむしろ徹底させ、これをパブリックなものに高めよ。そのことによって私的=心情的契機はかえって個人の内面に定着するだろう―これが維新後の「集団転向」の現実を前にした福沢の苦肉の処方箋であった。
「葉隠」の非合理的な忠誠が逆説的に強烈な自我の能動性をはらんでいたのとちょうど裏腹の関係で、福沢はむしろ非合理的な「士魂」のエネルギーに合理的価値の実現を託した。

「本来忠節も存ぜざる者は終に逆意これなく候」というのが「葉隠」のダイナミズムであったとするならば、逆に、謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネーションへの忠誠を期待できるだろうかというのが、幕末以来十余年のあわただしい人心の推移を見た福沢の心底に渦まく「問題」だったのである。」

・・さて、上掲の著作が著されて(1960)から半世紀以上経過しております。

そして、意外ではあるかもしれませんが、ここに述べられていることは現在の我が国諸々を考える上においても示唆するものが多いのではないでしょうか・・?


今回もここまで興味を持って読んで頂いてどうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。


正調 田原坂

2016年3月6日日曜日

20160306 ブログの閲覧者数から・・

A「最近のBさんのブログの閲覧者数はどうなっていますか?」

B「ええ、お陰様であれから特に大きな変動もなく、大体1日300~500人程度で落ち着いています。とはいえ、やはり以前に比べて閲覧者数が増加したことから、記事を書く際に多少緊張しているのではないかと思います・・(苦笑)。それでも、どうにか記事を書き続けることが出来ているのは、このブログ記事の作成によって、何かしら心の安定を得ているからではないかと思います・・。また、その意味においては、やはり、さきほどの閲覧者がいらっしゃるということは、大きな励みにはなっているのですが・・。それに加えて、純粋にブログ記事の作成が楽しいといった側面もあり、今現在、こうした便利な発信形式が存在することはありがたいかぎりです(笑)。」

A「まあ何でもプラス、マイナスの側面があると思いますよ・・(笑)。ともあれ、最近のBさんのブログを読みますと、また考古学、古代史の資料、書籍へ興味の方向がスライドしているのですか?」

B「・・ええ、まあ何となくではありますが、最近はまた日本古代史関連の書籍が面白くなってきた感じがします。そして、こうした書籍が面白くなってきますと、今度はそれらに示されている遺跡、古墳などを実際に見たくなるのです・・(笑)。また、こうした自身の傾向を考えてみますと、どうも私は暖かくなってくると、遺跡、古墳などを見たくなる傾向、性質があるのかもしれません・・(笑)。これまでに遺跡、古墳を見聞した際に記した日記、撮影した写真などを見てみますと、面白いことに、それらは全て3月~10月に集中しているのです。そうしますと、このこととさきほどの読書傾向の変化とは、どうも連動しているのではないかと思うのです・・(笑)。」
A「ほう・・それはなかなか面白いですね(笑)。また、それで私が今、不図思い出したのは、アメリカでは個人が季節毎で所属する運動部、部活が異なるということが普通であるということです。これは、もしかしたらさきほどのBさんのハナシと関連、類似する要素があるかもしれませんね・・。」

B「ああ、そのことは私も以前どこかで聞いたことがあります。しかし、現在はわかりませんが、私が所属していた頃の運動部、部活とは、一般的な傾向として、そのような季節毎に所属が変わるということは難しかったように思います。また、こうしたことは、何も所属する運動部、部活に限らず、おそらく我が国のこれまでの労働環境、会社組織等にも何か関係、関連があるのかもしれません・・。しかし、そうであるからといって、日本も季節、年度毎に仕事を変えた方がいいというわけではありませんが・・。これはおそらく、そういった環境のさらに基層にある文化に何かしらの原因があるのではないかと思います・・。そして、そうしたことを理解、把握しないで、表層的に制度のみを変革することは、後になって何らかの反動、しっぺ返しがくる可能性が高いのではないかと思うことがあります・・。」

A「・・まあ、たしかに我が国の組織などに属する個人とは、一般的に強くその組織に組み込まれる傾向がありますからね・・。もしかしたら、それは定住型水稲耕作社会の特徴であるのかもしれません・・。そして、そうした組織とは、日常自転的な業務、行動を為す場合においては、確固、堅牢としたものなのでしょうが、何か未知の事態に遭遇し、それに対し的確に対応しなければならない必要性が生じると、何だか大変なことになってしまう傾向があるのではないかと思います・・。そうした具体例として19世紀の相次ぐ外国船の来航に対する徳川幕閣の内外への施策、対応、戦間期から太平洋戦争敗戦に至るまでの大日本帝国政府の施策、対応などが挙げられるのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、私もさきほどのアメリカの運動部、部活の制度が全面的にいいというわけではありませんが・・。ただ、大事なことは、様々な内外の歴史、文化の知見に基づいてキチンと考えてゆく姿勢ではないかと私は思います・・。その意味において、現在の様々な勉強ブームとは、どうも皮相的に見えてしまい、どうもコトバばかりが躍っているように思えてしまうことが多くあります・・。とはいえ、そうしたこともまた大事であるのかもしれませんが、我が国においては、何でもビジネス、仕事のタネになればそれでいいと思い、またその後、それのみに焦点を合わせてゆくような傾向があるのではないかと思います。また、こうしたことは、何も我が国の歴史、文化を専門に学ばなくとも、ある程度の知見を積めば、そうした傾向は見えてくるのではないかと思うのですが・・。また、おそらくそうしたことは、昨今のインターネットをはじめとする情報技術の進化発展に伴い、我々日本人よりも海外の我が国について調査、研究している組織、人々の方が好悪の感情に振り回されることなく、冷静沈着に見て、判断しているのではないかと思います・・。そして、そういった意味において、我々日本人は、国際的な意味での優等生病にならず、様々な歴史、文化についての知見を能動的、自発的に広めた方がいいと思うのですが・・。また、もちろん、さきほどの情報技術の進化発展により、我が国も大きく影響を受けており、それにより、特に若年層において、既存の帰属組織への組み込まれの程度が弱くなってきているのではないかと思います。そして、そういったことに対して、基本的に、国家、公権力は介入出来ません。それ故、我々は個人として、否応なく、こうした状況の現代社会に対して適切に対応することが必然的に求められてしまうのではないでしょうか?また、こうしたことは、テレビなどにおける言説、様々な雑誌の見出し、そして書籍などの宣伝広告といった表層的、皮相的な言語のさらに下、基層にある層の変化、進化のようなものが必要なのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、そうした変化、進化を促す要素として外圧があるというような意見に対しては、感情レベルではありますが、どうも承服しかねるのです・・(苦笑)。」

B「・・ええ、仰ることは大体理解できます。しかしまた、こうした議論も福沢諭吉の「文明論之概略」あるいは夏目漱石の「現代日本の開化」などの時代から、あまり変化していないように思います。そのように考えると、現在のこの勉強ブームには、一体どのようなオチがあるのかは多少気になるところです・・。ただ、こうした勉強ブームといったものには、過緊張の傾向があるように思います。そして過緊張にはおそらく反動のようなものがあると思いますので、それがどのような形であらわれるのかもまた、同様に気になるところです・・。しかし、何れにせよ、歴史、文化を蔑ろにしたり、何かのリアクションとして、あるいは機会主義的に価値あるもののように扱うことは、長い目で見るとかなり危険なことなのではないかと思います。また、これは自分に対する戒めでもあります・・(苦笑)。」

一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


2016年1月4日月曜日

20160103 情報リテラシーと国民性についての対話

A「どうも年末年始で何か面白い本や映画などは観ましたか?」

B「いえ、映画やテレビなどはあまり観ておりませんでした。
また、書籍に関しては相変わらずで蔵書を読み返しておりました・・。
その中で加藤周一の「日本文学史序説」は相変わらず興味深く読めました。」

A「ああ、Bさんはあの著作からよくブログでの引用抜粋をしていますね。
そういえば加藤周一といえば、私は新書の「羊の歌」をなかなか興味深く読んだ記憶がありますね。」

B「「羊の歌」は私も以前読みましたが、これは今現在であるからこそ面白く読めるのではないかと思います。」

A「なるほど、たしかにそうですね(笑)。
あと最近Bさんのブログで大岡昇平の著作を何度か取上げていましたが、同著者の「ある補充兵の戦い」もなかなか興味深いと思いますよ。
この著作は「俘虜記」での体験とかなり被ると思うのですが、その視点およびその文体が「俘虜記」とは異なるのです。
こういった同一に近い経験に基づき複数の著作を作れるということは著者の才能およびある種の工夫によるのでしょう。」

B「ええ「ある補充兵の戦い」も以前読みましたが、これも興味深かったですね。
この著作は「俘虜記」と比べ体験を割合軽めに淡々と述べているように思います。
つまり「俘虜記」「ある補充兵の戦い」は共に基本的には著者自身の体験に基づいたノンフィクションではあるのですが、同時に体験に対しての思索、評価の程度、姿勢が異なるのではないかということです。
そのようなことから「俘虜記」は一般的な意味での小説であり、著者の思想、考えが色濃く反映されているのではないかと思います。
それに対し「ある補充兵の戦い」とは、前にいいましたとおり、著者の体験をあまり感情を交えずに書いた回想録に近いものではないかと思います。」

A「なるほど・・いわれてみるとそうした傾向はたしかにあるかもしれませんね。
あと、それで私が思い出すのは戦記ものが多い潮書房光人社から刊行されている比留間弘著の「地獄の戦場泣きむし士官物語」です。
この著作と「ある補充兵の戦い」とは、その作風において幾分類似しているのではないかな?」

B「・・またシブい著作を出されましたね・・。
私もその著作も以前読みましたが、おっしゃることわかります。
現在我々が読むことが出来る太平洋戦争の戦記ものは数多くあり、また、私はそこまで多くの戦記ものを読んだわけではありませんが、両著共にたしかにその著述の仕方、文体は特に重いものではないと思います。」

A「ええ、両著者共に筆舌に尽くしがたい戦争体験をされているはずなのに、そうした割合読みやすい文体、つまり自身の体験に対し距離感を保ちながら、その体験を書けることは、ある意味スゴイことであるのかもしれません・・。」

B「たしかにそうですね・・。
それにしても我々日本人にとって太平洋戦争とは、かなり大きな影響をおよぼしているのでしょうね・・。
そしてそうであるがゆえに、現在を生きている我々は、そうした歴史を忘れてしまってはいけないのでしょう。
こうしたことは、これまでに読んだ様々な戦争を経験された著述家の多くが書かれていましたが、一方、現在の我が国の情勢を見ていますと、彼らのその願いとは、私を含め後の世代にあまり通じていないように思えます・・残念ながら。」

A「ええ、現在の我が国の社会にはよくわからないイケイケドンドン的な積極、攻撃的な傾向が多く見受けられますね。
しかし一方において、現在日本を取り巻く状況とは、以前に比べ、きな臭くもなってきていますから、それは生物的には健康な反応であるのもしれません・・。
ただ、そういった情勢の中で私が強く危惧するのは、そうした状況に便乗して国内外の勢力が自身の利己的な欲望を手段を選ばずに満たそうとすることなのです。
まあ、たとえ利己的ではあってもそれが他者を結果的に貶めるものでなく、逆に向上、満足させるものであれば、それはそれで良いのかもしれませんが、そうしたものは決して多いといえないのが現状であると思います・・。」

B「ええ、良くも悪くも我々日本人は社会に生じた流行、傾向などの核に対する凝集性あるいはそれを応用しようとする傾向がありますから・・また、これは古来よりの傾向であるので、変えることは困難であると思います・・。
では、そうした傾向を無理に変えることなく、そうした勢力を抑えるためには、どうすれば良いのでしょうかね?」

A「ううむ、それは言葉でいえば案外簡単で、単純に様々な意味における情報リテラシーを向上させれば良いのではないでしょうか?
そして、それを為すためには、さまざまな書籍を読み、多くの人々とカタチだけでない議論を継続的に行うことではないでしょうか?」

B「ええ、書籍、議論などは、どちらかというと、これまであまりカッコいいものとして扱われてきませんでしたので、これが能動的に行われるような環境になれば、何かしらの効果は出てくるかもしれません。
私はおそらく泥臭いと思われながらも、単純に楽しかったので修士院生時代に両方共割合多く行ってきたと思いますので、その点は理解、肯定できます・・。」

A「うん、福沢諭吉の創設したあの学校には演説館があるけれども、あれは当時の我が国において演説、議論文化の必要性を痛感した結果造られたのでしょう・・。
そしてそれを痛感した原因とは、さきほどBさんが指摘していたことに関連するかもしれないけれども、凝集性が強く、雰囲気、空気に縛られやすい我が国の国民性ではないでしょうか・・?
そして雰囲気、空気に縛られやすい国民性とは、本質的に書籍の深い読解、議論などを不粋、面倒なものとして避ける傾向があるのではないかな・・?。
しかし、そうした傾向とは、結局のところ野狐禅に陥ってしまうのではないでしょうか?」

B「ええ、そうした傾向とは、たしかに我が国社会において伝統的に根強いと思います。
しかし、そうすると話はまたふりだしに戻ってしまうのではないでしょうか?」

A「・・そうですね、少なくとも我が国における自身の悪しき利己的な欲望を満たそうとする勢力とは、古今意識、無意識問わずそういった我が国の国民性から生じる傾向を利用、便乗してきましたからね・・。
そして、それだからこそ能動的な態度に拠って自然に情報リテラシーが向上されることが重要なのでしょう・・(苦笑)。」




2015年12月24日木曜日

20151224

A「最近Bさんのブログの閲覧者の数はどうですか?」

B「ええ、以前とあまり変らず大体1日100人程度です・・。」

A「そうですか・・100人はそんなに悪くないと思いますよ。
むしろコンスタントに1日に100人は難しいのではないかと思いますが、しかし、そうしますと現在までの全期間の閲覧者は18000人程度ということになるのでしょうか?」

B「そうですね、大体そのくらいです。
現在までの全閲覧者数は19000人程度になっています。
しかし一方、私のブログのページの表示回数はつい先日80000回を越えました。
それでよくわからないのは「ページの表示回数とは一体どういう意味であるのか?」ということですね。」

A「・・私もよくはわかりませんが閲覧者数とは文字通りブログを閲覧した人数であり、表示回数とはその閲覧した方々が開いた、表示した回数であるのではないでしょうか?
ですから単純に考えればBさんのブログを閲覧した方々は大体4つの投稿を見ているということになるのではないでしょうか?」

B「はあ、なるほど・・そういうことになるのですか。
それは知りませんでした。
どうもありがとうございます。
それで、閲覧された各々ブログの回数を見てみますと、直近で書かれたブログと類似、関連する内容のものが何故か多くなるのです・・。
こうしたことは以前からそのようなことが続いていたのですが、何だか面白くもあり、また一面において「いい加減なことは書けないな・・。」となるのです。
このことは私にとっては大変ありがたいのですが同時に「一体これは誰の仕業なのだろうか?」とも思うのです。
そしてその正体を自分なりにプロファイルしてみますと、それは人文社会科学系の知識、見識をかなり有した人ではないのかと思うのですが、そうしますと私の知人である場合、かなり限定されてきます・・。」

A「ブログを書いていると、そうした楽しみも出てくるのですね(笑)。
ともあれ、その正体が何時の日か判明する日はくるのでしょうかね?
また、そのためにもBさんのそのブログはもう少し続けた方がいいのではないかと思います(笑)。
あと、あらかじめお伝えしておきますが、その正体は私ではないですよ(笑)。」

B「はあ、そうですか・・。
この質問は以前、別の方にもしたことがあるのですが、その方も「私ではない。」とおっしゃっていました・・。
そうすると私の知人の中で該当しそうな人はかなりに少数に絞られてきますが・・では一体誰がその閲覧者の正体なのでしょうかね?」

A「・・ううむ、そうなるとそれはBさんがすぐに思いつく人ではないと思います・・。
とはいえ、少なくともそれらは悪意のある行為ではないようですので別に気にすることはないのではないでしょうか?」

B「ええ、まあそれはそうですし、以前はあまり気にもしなかったのですが、ブログ作成について考えたりしますと、そういったことも自然と考えてしまうようになるのです・・。
しかしながら、だからといってそれが作成するブログに大きく影響するというわけでもないのですが・・。
ただ、それもまたブログのネタにはなるのではないかとも思いますが(笑)。」

A「・・ええ、その調子でいいと思いますよ(笑)。
それにいつか機会があればそれが誰だかわかる日もくると思いますし・・。
まあ、気長にブログを書き続けていれば、また何か違った面白いことも起きるのではないかとも思います(笑)。」

B「はあ、そのようなものでしょうかね・・。
それでしたら、まあ特に深く考えずにブログを書き続けようと思います。
しかし私はそういった誰かをプロファイルして探索するセンスみたいなものはないのでしょうかね?」

A「いえ、それは私もよくわかりませんし、また、それは今考えてみても特に有益ではないと思いますので、まあ、そのまま放置安定でいいのではないでしょうか・・?」

B「なるほど・・放置安定ですか、まあ、そうですね。
とりあえず求職活動と同様、地道に続けて行くことにします。
あと地道といえば、先日新しく購入したブログのネタ帳がもうすぐ最後のページまで行きそうです。
ここ最近、自身の対話形式のブログの数を増やそうとしていましたので、その影響がこのような形で表れたのではないかと思います・・。」

A「Bさんのブログのネタ帳はもしかして今も無印のリングノートですか?」

B「・・ええ、そうです。
しかし何故そのことを御存知なのですか?」

A「それはBさん修士院生の頃から同じノートを使っていませんでしたか?
あの頃はたしか万年筆で色々とノートに書き込んでいましたが、その時のノートはまだ残っていますか?」

B「・・ええと、多分どこかに残っているはずであると思います。
あれも今読み返してみますと多分ブログのネタになりそうなことがいくらかは書かれていると思いますが・・
しかし、ブログのネタになりそうなことがより多く書かれているのは在鹿児島時代に記したノートではないかと思いますが・・。」

A「鹿児島時代のノートはどのようなことを多くかれていたのですか?」

B「そうですね・・日々起きたことや、実験の進行に関しての感想などが多かったと思います。
あとは読んだ本、論文の感想なども書いていたと思います。
Aさんが御存知であると思われる本は、そうですね会田雄次の「アーロン収容所」や大岡昇平の「俘虜記」あとは小松真一という方の「虜人日記」ですかね・・あの頃は何故か国内外の収容所ものの著作を集中的に読んでいましたね・・。」

A「・・それもなかなか興味深い現象ですが、ともあれBさんはそれらを何といいますか客観的に読んでいたのですか?それとも感情移入して読んでいたのですか?」

B「・・ええと、それは概ね後者であると思います。
しかし私は思想系の著作にしろ大抵は感情移入して読んでいると思います。
そうしたことを判断する好例としてニーチェの「ツァラトストラかく語りき」で挙げられると思います。
あの著作を読んで落ち込むのはそこで語られている対象を自分に近いと感じているからであり、逆にそれを読んで奮い立つのはどちらかというと他者の物語として感じているのではないでしょうかね?
しかし、それで私が思うことは我々日本人とは、どこかそういった著作を前者、つまり他者の書いたものとして読むような傾向があるのではないかと思います。」

A「ええ、たしかにそうであるかもしれません。
また、それは論文と散文を読む時における立場の違いにも通じるものがあるのではないかと思いますが・・?」

B「基本的に論文などは客観的な立場、他者の書いたものとしてで読みますからね・・。
そうしますと我々は物語、思想系の著作も論文と同じスタンスで読んでいるのですかね?」

A「・・ううむ、多分その根底には能動性の多寡があるのではないでしょうか?
我々はあまり人が専攻しないような分野の院に進みました。
そしてそこではとりあえず文献を多く読まないとどうにもなりませんよね?
ですから、そういった専攻分野に進む連中というのは一般的に見れば、かなりの変わり者、変人であり、それがどのように変っているかといえば、思想系や重い内容の著作を能動的に読めるという何かよくわからない情熱があることではないかと思います。
そしてそこには現代社会における効率性、功利性と相反する何かがあるのではないかと思います。
ですから、理系学問分野は別ですが、人文社会科学系の学問が浮世離れしている、実利的でない、コスパが悪いなどといわれるのはそういったところにあるのではないでしょうかね?
まあ、戦前の高等教育とは、そうばかりでもないようでしたが・・。」

B「そうですね。
それはたしかにあると思います・・。
ですからやはり著作を読む時の立場、能動性、モチベーションとは、なかなか重要ではないかと思います。
こういっては何ですが書籍自体を自然に読む習慣のない方々はおそらくその能動性の重要さを認めようとしないでしょうが・・。
それでも実はそれが現代の我々の社会に見られる反知性的な傾向の一つの根源ではないかと思いますが、どうでしょうかね?」

A「・・ええ、おっしゃることはよく分かります。
それは日本社会が基層において性悪説に基づき、それではどうもカッコが悪いから表層を性善説で取り繕っているようなことが原因ではないでしょうかね?
あるいは福沢諭吉がどこかで述べていた明治政府に対する批判として「多情の老婆」と評していたことをも想起させますね・・。」