ISBN-10 : 4140015012
ISBN-13 : 978-4140015018
ところで、さきの義朝や重成が登場する「平治物語」は「保元物語」と同様、早くから琵琶法師によって語られたが、そのうちとくに「平治物語」の場合は「平治物語絵巻」がのこされ、鎌倉時代の姿をそのまま伝えている。画風は十三世紀半ばにさかのぼるといわれ、かなりの数のものが各所に分散して伝えられてきた。これらの絵巻は、合戦場面における人間の姿を躍動するような筆致で活写し、軽快なリズムと華麗な色彩によって戦闘の悲惨な修羅場を描き切っている。それは戦争描写の傑作の一つといっていいものであるが、そのいくつかの合戦場面をみていて気づかされるのは、武士たちの頭頂部や顔の圧倒的な量感と、かれらの変化に富む表情のたくましさである。眼光の鋭さはもとよりのこと、大きな口許が決死の勢いで真一文字にひきしめられ、また裂けんばかりに大きく咆哮している。
が、そのなかでもとくに私の目を奪うのは、その鼻の表現である。ここでは、六波羅の邸から出陣する平清盛を描いた場面(個人蔵)をみてみよう。とくにその清盛と、かれらを取り囲む武将たちの顔面の中央に描かれている鼻の躍動感はどうであろう。高く盛りあがった鼻、口許まで垂れ下がるような長いずんぐりした鼻、両翼を広げて大きな鼻孔をつけた鼻・・。ここに描かれている武将たちの鼻は、あえて誇張したいい方をすれば、その顔の中央部を広々と占拠し、顔そのものの象徴物と化しているような印象を見るものに与えずにおかないのである。そのような鼻は、前代までの貴族たちの顔のうえにはけっしてあらわれることのなかった鼻である。
そのことを確かめるために、ここで「平治物語絵巻」からもう一枚の絵を掲げてみることにしよう。「六波羅行幸の巻」(国宝、東京国立博物館蔵)がそれであるが、これは女装して御所を脱出する二条天皇と、それを源氏の兵士たちが見とがめている場面である。牛車のスダレをあげてのぞきこんでいる兵士たち。その兵士たちを制止して、車のなかにいるものはけっして怪しい者ではないといっているらしくみえる一人の貴族。かれはおそらく天皇の近侍をつとめる者なのであろう。その貴族にたいして疑いのまなざしを向け、いまや剣を抜こうとしている兵士、そしてもう一人弓をつがえようとしている兵士がいる。この切迫した一瞬の場面に目を近づけてみよう。あい対する貴族と雑兵の顔の顔の中央部を注視してみよう。剣を抜こうとしている兵士の鼻が高く鋭く突き出るように描かれ、弓矢をもつもののそれが団子鼻の形で盛りあがってみえるのにたいして、貴族の鼻はうっすらと軽いタッチで小さく描かれているにすぎない。貴族の方の表情のつくりが、いわゆる「源氏物語絵巻」の登場人物にならって「引目鉤鼻」の手法をうけつぐ形で処理されていることはいうまでもないだろう。その様式的な鉤鼻が、雑兵たちの鼻の個性的な変化とみごとな対照をみせているのである。貴族の白面が全体としてもうろうとした雰囲気のなかで、あたかもあるかなきかの目鼻立ちで点じられているのにたいして、雑兵の褐色の顔面はすべて、意志と感情をむき出しにするくっきりした輪郭線によってとらえられている。そしてその輪郭線に一つのまとまりを与えている部分がその巨大な鼻なのである。このような傾向は、このほかの合戦絵巻にもみられ、そこに登場する武士たちの場合にも大なり小なりあてはまることはいうまでもない。
あえて極端ないい方をするならば、中世に新興の勢力として時代の前面に押し出してきた武士集団は、その顔面の中央部を占める鼻の大胆な造型において、前代の貴族の時代から明確に区別される存在として意味づけられねばならぬ、と私は思う。むろん多くの合戦絵巻に登場する武士たちの姿といえども、前代の貴族たちのそれのように、いまだ様式的な表現世界から脱けでてはいなかった。そこには、近代的な意味における写実の枠組からだけでは律しきれない法則がはたらいてもいる。しかしながら、そのことを認めたうえでのことであるが、それでもない貴族たちの鼻の描法と武士たちのそれとのあいだには、越えがたい大きな溝がつくられていたというほかないのである。貴族と武士についての認識の尺度に重要な径庭が存しているのである。
ISBN-13 : 978-4140015018
ところで、さきの義朝や重成が登場する「平治物語」は「保元物語」と同様、早くから琵琶法師によって語られたが、そのうちとくに「平治物語」の場合は「平治物語絵巻」がのこされ、鎌倉時代の姿をそのまま伝えている。画風は十三世紀半ばにさかのぼるといわれ、かなりの数のものが各所に分散して伝えられてきた。これらの絵巻は、合戦場面における人間の姿を躍動するような筆致で活写し、軽快なリズムと華麗な色彩によって戦闘の悲惨な修羅場を描き切っている。それは戦争描写の傑作の一つといっていいものであるが、そのいくつかの合戦場面をみていて気づかされるのは、武士たちの頭頂部や顔の圧倒的な量感と、かれらの変化に富む表情のたくましさである。眼光の鋭さはもとよりのこと、大きな口許が決死の勢いで真一文字にひきしめられ、また裂けんばかりに大きく咆哮している。
が、そのなかでもとくに私の目を奪うのは、その鼻の表現である。ここでは、六波羅の邸から出陣する平清盛を描いた場面(個人蔵)をみてみよう。とくにその清盛と、かれらを取り囲む武将たちの顔面の中央に描かれている鼻の躍動感はどうであろう。高く盛りあがった鼻、口許まで垂れ下がるような長いずんぐりした鼻、両翼を広げて大きな鼻孔をつけた鼻・・。ここに描かれている武将たちの鼻は、あえて誇張したいい方をすれば、その顔の中央部を広々と占拠し、顔そのものの象徴物と化しているような印象を見るものに与えずにおかないのである。そのような鼻は、前代までの貴族たちの顔のうえにはけっしてあらわれることのなかった鼻である。
そのことを確かめるために、ここで「平治物語絵巻」からもう一枚の絵を掲げてみることにしよう。「六波羅行幸の巻」(国宝、東京国立博物館蔵)がそれであるが、これは女装して御所を脱出する二条天皇と、それを源氏の兵士たちが見とがめている場面である。牛車のスダレをあげてのぞきこんでいる兵士たち。その兵士たちを制止して、車のなかにいるものはけっして怪しい者ではないといっているらしくみえる一人の貴族。かれはおそらく天皇の近侍をつとめる者なのであろう。その貴族にたいして疑いのまなざしを向け、いまや剣を抜こうとしている兵士、そしてもう一人弓をつがえようとしている兵士がいる。この切迫した一瞬の場面に目を近づけてみよう。あい対する貴族と雑兵の顔の顔の中央部を注視してみよう。剣を抜こうとしている兵士の鼻が高く鋭く突き出るように描かれ、弓矢をもつもののそれが団子鼻の形で盛りあがってみえるのにたいして、貴族の鼻はうっすらと軽いタッチで小さく描かれているにすぎない。貴族の方の表情のつくりが、いわゆる「源氏物語絵巻」の登場人物にならって「引目鉤鼻」の手法をうけつぐ形で処理されていることはいうまでもないだろう。その様式的な鉤鼻が、雑兵たちの鼻の個性的な変化とみごとな対照をみせているのである。貴族の白面が全体としてもうろうとした雰囲気のなかで、あたかもあるかなきかの目鼻立ちで点じられているのにたいして、雑兵の褐色の顔面はすべて、意志と感情をむき出しにするくっきりした輪郭線によってとらえられている。そしてその輪郭線に一つのまとまりを与えている部分がその巨大な鼻なのである。このような傾向は、このほかの合戦絵巻にもみられ、そこに登場する武士たちの場合にも大なり小なりあてはまることはいうまでもない。
あえて極端ないい方をするならば、中世に新興の勢力として時代の前面に押し出してきた武士集団は、その顔面の中央部を占める鼻の大胆な造型において、前代の貴族の時代から明確に区別される存在として意味づけられねばならぬ、と私は思う。むろん多くの合戦絵巻に登場する武士たちの姿といえども、前代の貴族たちのそれのように、いまだ様式的な表現世界から脱けでてはいなかった。そこには、近代的な意味における写実の枠組からだけでは律しきれない法則がはたらいてもいる。しかしながら、そのことを認めたうえでのことであるが、それでもない貴族たちの鼻の描法と武士たちのそれとのあいだには、越えがたい大きな溝がつくられていたというほかないのである。貴族と武士についての認識の尺度に重要な径庭が存しているのである。