和歌山大学の学生・教職員による書評『Ritornello (リトルネロ)Books & Media Review』第45号 阿部秀二郎著「いま、考えておきたいこと」pp.10‐11より抜粋
カサルスは、バイオリニストのティボー、ピアニストのコルトーとともにトリオを組み数々の名演を残して来たとされる。個性豊かで好みも異なる世界的演奏家たちがトリオを組み、長く活動を行うことができた理由は、それぞれの音楽性に対する尊敬の念があったからである。しかし信条において、カサルスはティボーやコルトーとは一線を画していた。のみならず信条を誓約するために、カサルスは画した一線を隠そうとはせずに、実際に行動したのである。
カサルスは家庭でも、カタロニアの地域的特質という面でも共和制に共感を抱いていた。カサルスは10代のころ、精神の危機に落ちる。感性の成長が著しく妨げられることにより危機に陥ったJ.S.ミルとは異なり、カサルスの場合には様々な書物を読み漁ることで、音楽のもたらず「美」や「善」ばかりではなく、世の中には貧困や本性的に問題のある人間などの「悪」が存在することに気づく。「悪」が存在する悲しき社会において生きるべき価値や意味は何か問ううちに、音楽が続けられない状態になってしまう。カサルスは宗教や共産主義思想にも救いを求めるのであるが、前者は何も回答を与えず、後者は欺瞞に満ちたものと感じられた。結局、カサルスは自らの良心に立ち返ることになる。そしてその経験により、信条への誓約はより強固なものとなった。
ヒトラーが勢力を伸ばした時に、ワーグナーなどの楽曲が利用されたのは有名である。共産主義思想のみならず、ナチス労働党の思想もカサルスにとっては人間的価値を尊重するものには到底思えなかった。そうすると、ナチスに利用されるワーグナーの楽曲も、またその楽曲を当時ベルリンなどで演奏する演奏家もすべて、尊重されるべき人間的価値とは一致しないものになる。受け入れるわけにはいかないのである。ティボーやコルトーはこの点でカサルスよりも柔軟であった。ティボーはヒトラーの前での高額な待遇の演奏を受け入れることはなかったが、コルトーはフルトベングラーとナチス支配下のドイツで共演することもあった。
そしてティボーやコルトーはカサルスとは異なるチェリスト(フルニエ)とトリオを組み活躍している中で、カサルスは活動を停止したのである。
経済学において利己心が経済活動の中心であるとする考え方はアダム・スミスが提示したが、スミスが提示した当時は、道徳哲学がテーマになっており、人間は利己的存在か利他的かという問題に対する議論が展開されていた。スミスは、両面が存在するが、利己的側面が社会的利益をもたらす可能性もあると指摘する文脈において、便宜の理論を説明し、市場経済の利益にも言及したのである。こうして当時は社会生活において、利己は消極的に容認し得るものであった。しかし長い時を経て、利己が幅を利かせる時代になってきた。利己を前進させるための制度やインセンティブの研究が進み、それを妨害する存在は効率性を損なうという理由で排除されるようになっていく。
カサルスたちが生きる時代もその途上に存在した。報酬がどの程度であったかは調査していないが、自己顕示欲を掻き立てるインセンティブという点で、コルトーにとってフルトベングラーとともに、ナチスを鼓舞する演奏会での拍手喝采は魅力的であったのかもしれない。
そのような中で、コルトーはカサルスの態度をどう見ていたのか。コルトーは第二次大戦終了前にパリがナチスから解放されたときに、フランス軍に拘束されることになる。そして今度はコルトーが活動を停止することになる。そしてコルトーは良心の呵責を感じていたのである。
ではカサルスの時代からさらに進んだ現代においても良心は存在するか。このことはサミュエル・ボウルズらのラディカル・エコノミストによる分析(「モラル・エコノミー」)によって明らかにされている。彼らは利己的な金銭的インセンティブと良心などのモラルが本来不可分なもの(スミスもミルも分かっていた)なのに、現代の経済学では可分とされてきたこと、しかし実験に基づく人間行動は良心を有し、インセンティブが適切に利用されないと、良心の作用が弱まり、結果的にマクロ的に社会に不利益をもたらすこと、を説明する。
旧キエフ公国で起こっていることに対して、その戦争や破壊が日本にもたらすコスト・ベネフィットを分析し、対策を論じることは重要なことであろうが、その考え方だけでは狭隘であろう。ケインズが感覚的に良心に従い、世論または既存の経済思想とは異なる考え方を展開したように、ひとまずじっくりと、内に存在する声と向き合い、そこから何を考えるべきか探りたい。