2024年10月20日日曜日

20241019 中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋

中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122026180
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122026186

 薩摩藩には、郷中制度というものがあった。青少年団といってよく、藩士の部屋住みの子弟はみなこれに入る。「十八交リヲ結ブ健児ノ社」と頼山陽が謳った組織である。古くからあった。町内ごとに組織されていた。私見だが、南方習俗の若衆組の組織がなまのままで薩摩藩のなかに組み入れられたのが郷中制度でないかと思える。

 私は、一時期、若衆組に関心をもったことがあり、いまもそうである。西日本の現象で、とくに黒潮の洗う鹿児島県、高知県、和歌山県熊野地方には、大正初年うまれの人々の少年期までは濃厚に残っていた。要するに十八交リヲ結ブで、適齢になると入り、若衆組(薩摩藩では郷中頭)の支配に属し、若衆組織の中で、おとなになるための教育をすべてうける。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆宿へいく、そこで雑談したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。

 「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若衆が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」ときいてみたことがある。故老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです。」といった。故老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が根底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意的に指名すればよい。

 話が外れるが、こういうことーとくにたねに対する不厳密性ーは、たとえば北方アジアの遊牧民族には決してありえないことである。かれらには骨の信仰があった。男のたねが子供の骨をつくると信じ、骨が子々孫々へ相続してゆくと信じていた。朝鮮語では、この象徴的な(あるいはなまなましいといっていいかもわからないが)骨のことをポンという。朝鮮は中国の儒教社会システムごと取り入れながら、ポンについては北方遊牧民の信仰を相続していた。この点でいえば、若衆組があるかぎり、日本の(私は西日本しか知らないが)農村漁村は南方的であるといっていい。

 薩摩藩の郷中制度にもどる。ふつうの庶民の若衆組の場合とはちがい、山火事や海難への処し方は教わらないが、武芸や角力はやる。夜這いはない。西南戦争のとき西郷が可愛岳から深夜脱出したが、坂を這いのぼりながら「夜這が如たる」といってみなを笑わせた。しかしさすがに武士社会だけに「ヨベ」はなかった。胆だめしはある。自分の胆だめしどころか、他人の胆までとる。刑場では打首の刑があるときけば競って駆けつけ、まっさきに到着した者はまだ絶命してほどもない罪人の体にとりつき、短刀で腹を割いて胆をとるのである。その胆を蔭干しにして薬にするとも言い、あるいは単に度胸の競いあいだけだともいい、あるいはそれをその場で食ってしまうという凄い事例もあったらしい。南方の未開人は、敵の勇者の肉を食う。薩摩ではこれを「ひえもんとり」というが、あるいは遠い時代の食人の風の名残りかもしれない。

 薩摩の郷中制度では、妙円寺参りという強行軍の行事もあり、曾我どんの傘焼きという勇壮なものもあり、また関ケ原の日には故老の屋敷へその話をききにゆく。

 こういう郷中制度という、南方島嶼の若衆組の風習がそのまま藩体制の中に居すわり、その青少年教育を一手にひっつかまえたという重要な組織をもつのは、三百諸侯の中で薩摩藩しかない。会津藩にも、青少年に相互に教育させるという組織があって、他藩に類を見ないものだが、薩摩藩の郷中制度のように、ごく自然に発生して歴史のなかで無理なく生長を遂げたいわば習俗的なものではなく、人工的な制度である。

 薩摩藩の郷中制度が、西日本とくに南海道(紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐)や瀬戸内の島々、さらには薩摩とその西南諸島の農村漁村に濃厚にのこってきた若衆組の士族社会での形態であるということの証拠のひとつは、村落体制における郷中頭(若衆組では若衆頭)の権威が高いことである。

 その前に、若者の権威、もしくは発言権の高さ、あるいは若いというだけで当人も威張り、村の年寄りも遠慮し、ときにおもねる、というのは、中国や朝鮮の儒教社会では絶無である。この絶無ということをどう強調してもまちがいはない。なぜならば若いということで威張るというだけで、儒教の基本思想として悖徳的なことで、悖徳的という以上に儒教とはまったく相容れないものといっていい。長幼の序を人倫の基本的な秩序とする儒教にあっては、老ほど尊敬される。若い者は、木の端のように遇されて、発言権もほとんどなく、全体に価値のうすき存在といっていい。たとえば韓国社会では若い者が近眼鏡をかけて祖父もしくはそれに準ずる血族の長老に会うことすら、不倫とされる。めがねというのは近視、遠視を問わず、倫理的イメージとしてのそれは、すべて大久保彦左衛門がかけているような「老眼鏡」とされる。若い者が、老大人ぶってめがねをかけて老人の前に出ることほど無礼なものはない。要するに儒教社会においては若い者は木の端のようなものである。