2021年10月15日金曜日

20211014 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「山伏の里」pp.285-287より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「山伏の里」pp.285-287より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

昭和23年の夏だったか、京都の円山公園に異様な装束の人物があつまっていた。むろん、この集会は、当時の進駐軍司令部の許可はえられていたが、末端の兵たちは、かれらが何物であるかを知らず、その集団を目撃したどのアメリカ兵の表情にも、きみわるげな恐怖のいろがあった。

ある兵は、この異様な服装のひとりにカメラをむけようとしたが、その男が不意にふりかえったために、カメラを落として逃げ出したりした。たまたま居あわせた私に、ひとりのアメリカ兵がツバをのみながら、「あれはサムライか」「ちがうヤマブシという連中だ」かれらは、4、500人もいた。山伏の総本山である京都の聖護院門跡が、戦後最初の峰入り(門跡が全国の山伏を引率し、かれらの聖地である大峰山に入る行事)をしたときのことであったように思う。

どの山伏も、戦前から大事に保存してきた正装をつけていた。頭にトキンをいただき、ケサ、スズカケをつけ、金剛杖やシャクジョウを地につき、なかにはホラ貝やオノをもった者もあり、門跡はたしか、馬上で帯剣していたような記憶がある。

日本全体が、アメリカ人や第三国人に対して、負け犬そっくりの気持におちいっていた当時だったから、この異様な集団は、目のさめるほどの力動感を我々にあたえた。むろん、アメリカ兵は、もっとおどろいたことだろう。かれらは、山伏群を遠まきにして近よりはしなかった。

かれらの目からみれば、この装束は、いかにも悪魔的にみえたはずである。

これは私の想像ではなく、悪魔的というのは、すでに天文18年(1549)7月、九州にやってきたスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが、はじめて山伏をみて目をみはり「これは悪魔だ」とローマ法王庁にかきおくっているのである。

私は、13歳のとき、叔父に連れられて大峰山にのぼった。叔父はべつに山伏趣味はなかったらしいが、大峰山がよほどすきだったらしく、それまでに何度ものぼっている。

「どうや、ええ山やろ」

と、かれは1日7里行程の登山を私にしいたうえ、山腹の洞川という町の安カフェーで、私にビールをのませた。そのカフェーには、山伏がいっぱいいた。私はかれらの「悪魔」的装束はこわくなかったが、ビールをつぐ女給の首すじがオシロイでまっしろになっているのがひどく気味わるかったのをおぼえている。

それが病みつきになって(といって、カフェーやビールの味でもなく)私は、それから四度ばかり大峰にのぼっている。