2025年7月10日木曜日

20250710 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.220~222より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.220~222より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 米国が日本の言動に突発的に必要以上と思える強さで反応することは時折あるものの、日本を主対象とした脅威論は、日本の国力の低下に伴い目に見えて減っていった。1990年には「日本の経済的脅威」と題する公聴会が連邦議会で開かれたが、21世紀に入ると主たる脅威の対象は、日本から中国へと移っていた。

 2005年の上院財政委員会の公聴会で、モンタナ州選出のマックス・ボーカス上院議員は、「中国の競争的な挑戦がアメリカ人を神経質にしている。財界から一般市民に至るまで、アメリカ人はアメリカの経済、雇用、生活様式などに対する中国の影響に神経質になっている」と述べている。そして、翌2006年に議会調査局が作成したのは、『中国はアメリカ経済にとって脅威か』というレポートであった。そこには、近い将来、中国がアメリカを抜き去り世界最大の経済大国となるとはっきり記されている。またその報告書の中には、中国は「不公正」な経済政策を多くとっており、公正に貿易を行っておらず、そのような中国の世界経済大国への伸長は、日本が1970年代から1980年代に経済的に躍進してアメリカ経済に大きな影響を与えた時と同じような説明が必要であると記されていた。そしてそこには、暗に中国の躍進も過去の日本の躍進も不公正なやり口によるものであるという解釈がなされていることが示されていたのである。

 いずれにせよ2010年には中国がGDPで日本を抜き去り、世界第二の経済大国となる。安全保障を米国に依存し、必需品を輸入に頼らざるを得ない小さな島国の日本とは異なり、巨大な大陸国家中国による脅威は深刻であることが、徐々に明らかとなっていった。眠れる巨人中国が一旦目覚めると大変なことになるという、19世紀以前から幾度となく語られ、そのたびに杞憂に終わってきたイメージが、ついに21世紀になって現実のものとなったのである。ただ、当初は、経済発展が進み国民一人あたりの所得が上昇するにつれて、中国は民主主義に移行するであろうし、また欧米と似た価値観を持つにいたるであろうという楽観的な見方が支配的であった。しかし、そのような見方は誤りであることが徐々に明らかになっていく。一方、2011年は東日本大震災が発生し、もはや日本は脅威のもとであるというよりも憐みの対象とも言えるような視線で見られることになっていった。中国の大国化にともない、これまでとは逆に中国が日本を従えた形でのアジア主義や黄禍論的脅威が、今や語られるようになってきている。日清戦争以前の中国を中心とした当初の黄禍論に戻ったともいえる。

20250709 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.264-266より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.264-266より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 私は政治家でもなければ実業家でもなく、これらの職業に求められる才能もほとんどない。だが、歴史を理解すれば、今日のテクノロジーや経済や文化の展開をよりよく把握するーそして、こちらのほうが緊急性が高いのだが、私たちの政治上の優先順位を変えるーのに役立つと確信している。政治はおおむね、優先順位の問題だ。医療の予算を削減し、国防にもっとお金を費やすべきか?安全保障上、テロと気候変動のどちらかのほうが差し迫った脅威なのか?失われた先祖代々の領土の奪還に専心するのか、近隣諸国と共有の経済特区の創出に集中するのか?優先順位に即して人々の投票の仕方や、実業家の関心の持ち方、政治家が名を成そうとする方法が決まる。そして、優先順位は、私たちがどのように歴史を理解しているかに左右されることが多い。

 いわゆる現実主義者たちは歴史の物語を、国益を増進させるために利用されるプロパガンダの小道具として退けるが、じつは、そもそも国益を定義するのがそうした歴史の物語なのだ。クラウゼヴィッツの戦争論についての考察で見たように、最終目標を定める合理的な方法はない。ロシアやイスラエルやミャンマーの国益も、他のどんな国の国益も、数学や物理学の何かしらの方程式からは、けっして導くことはできない。国益はつねに、歴史の物語の教訓とされるものなのだ。

 したがって、世界中の政治家が手間暇かけて歴史的な物語を詳しく語るのは少しも意外ではない。先ほどのウラジミール・プーチンの例は、この点でおよそ特別ではない。2005年に国連事務総長のコフィ―・アナンは、当時ミャンマーの独裁者だったタン・シュエ将軍と初めて会談した。アナンは、先に話し始めるように助言を受けていた。将軍が会話を独占するのを防ぐためであり、対談はわずか20分の予定だったからだ、ところがタン・シュエが機先を制し、一時間近くもミャンマーの歴史をまくし立て、アナンにはほとんど口を利く機会を与えなかった。11年5月、イスラエルのベンジャミン・ネタニエフ首相がホワイトハウスでアメリカのバラク・オバマ大統領と会見したときにも同じようなことが起こった。オバマの短い前置きの後、ネタニヤフは彼を相手にイスラエルの歴史とユダヤの民について、延々と語って聞かせた。まるでオバマが彼の生徒であるかのような扱いだった。皮肉屋なら、タン・シュエもネタニヤフも歴史の事実などろくに気にも掛けず、何らかの政治目標を達成しるために意図的に歴史を歪めているのだと言うかもしれない。だが、それらの政治目標そのものが、歴史についての固い信念の産物なのだ。

 私がAIについてテクノロジー業界の起業家と語り合ったときだけではなく政治家と対談したときにも、歴史はしばしば中心的なテーマとして話題に上った。バラ色の歴史を描き出し、それに即してAIに熱狂的な対談相手もいた。これまでつねにより多くの情報はより多くの知識を意味してきたし、以前のどの情報革命も、私たちの知識を増やすことによって、人類に多大な恩恵をもたらしてきたと彼らは主張した。印刷革命は科学革命につながったのではないか?新聞とラジオは、近代的な民主主義の台頭につながったのではないだろうか?AIの場合にも同じことが起こるだろうと彼らは言う。それよりは暗い展望を持つ人もいたが、それでも彼らは、人類は産業革命をなんと切り抜けたのとちょうど同じように、AI革命もどうにかして切り抜けるだろうという希望を表明した。

 だが、どちらの見方も私にはたいして慰めにならなかった。これまでの章で説明した理由から、AI革命を歴史の上で印刷革命や産業革命と重ね合わせることを私は苦々しく思っている。権力の座にある人がそうするときには、なおさらだ。なぜなら歴史についての彼らの展望が、未来を形作る決定に色濃く反映されているからだ。このような歴史上の重ね合わせは、AI革命の前例のない性質と、これまでの革命の有害な面の両方を過小評価している。印刷革命の直接の結果には、さまざまな科学的発見と並んで、魔女狩りや宗教戦争があるし、新聞やラジオは民主主義体制だけではなく全体主義体制によっても利用された。産業革命はどうかと言えば、この革命に適応する過程で、帝国主義やナチズムといった壊滅的な実験も行われた。もしAI革命によって私たちが同じような実験へと導かれるのなら、今回も切り抜けられると、本当に確信を持つことができるだろうか?