2022年2月11日金曜日
20220211 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋
ISBN-10 : 4006002297
ISBN-13 : 978-4006002299
独墺合併が当時のヨーロッパを聳動させたということはいうまでもない。しかし、かつてはその実現を阻止するためには武力干渉を辞しない決意を示したイタリアは、今は終始傍観の態度を持したのであった。イタリアは当時すでにドイツへ著しく接近するにいたっていた上に、対アビシニア戦争のあとをうけてその主たる関心をアビシニアとイタリア本国とを結ぶ連絡路としての地中海へ注ぐにいたっており。しかも、この地中海に関してもまたイギリス・フランスに対抗する関係上ドイツの支持を将来にわたって必要と考えていた、オーストリアの独立保全に対するイタリアの関心は、こうして、もはや著しく冷却するにいたっていた。独墺合併後、ムッソリーニは演説して、「山々の彼方の国民(オーストリア人を指すー著者)は、1934年にわれわれがなしえたことに関してわれわれの注意を喚起するという憂鬱な単純さを依然もっている。けれども、われわれは答える、あの年以来多くの水がテヴェレの、ドナウの、シュプレーの、テームズの、そしてセーヌすらもの橋の下を流れたのである。この時期の間に、イタリアは巨大な、そして血塗れの努力をしながら、われわれの未だに忘れ得ないあの制裁がイタリアの上に課せられるのを経験したのである」と述べた。彼はこのような言葉でオーストリア問題に対するイタリアの態度変化を説明したのであった。他方、イギリスおよびフランスは独墺合併についてドイツのとった手段に対して抗議しながらも、オーストリアの事態に対して戦争を賭して干渉する意志は全くなく、傍観的態度を持したのであった。しかし、このような中でソ連邦はドイツが独墺合併によって東南ヨーロッパへ膨張したのに対して警戒の念をいよいよ深くし、ドイツの今後の侵略を防止すべき方法について四国会議をひらくことをイギリスに提議したが、イギリスはこれを拒否したのであった。チェンバレン首相は議会においてソ連邦のこの提案について述べて、それはヨーロッパが二つのブロックに分裂している現状をさらに悪化させてイギリスを必然的に戦争へ導くものであるとなし、宥和政策の立場を依然堅持する旨を明らかにしたのであった。
しかし、独墺合併がヨーロッパの政治地図を変えたことの意味は、きわめて大であった。昔から「東南ヨーロッパへの門」と考えられていたウィーンをその掌中に収めることにより、ドイツ軍はハンガリー平野の端を抑え、バルカン半島の入口に立つにいたったのである。また、独伊両国が今や遂に国境を相接するにいたった結果として、フランスが小協商諸国およびポーランドに軍事的援助を提供することは全く困難となった。けれども、当面の最も重大な結果は、チェコスロバキアの版図の約半ばがドイツの領土によって包囲された形となり、しかも、その部分の中にはドイツ人を主要人口とするズデーテン地方が含まれていたことである。そこで、ドイツの膨張計画の次の対象はチェコスロバキアであろうということが、いち早く噂されるにいたった。そして、現に独墺合併の直後からヘンライン(K. Henlein)を党首としたズデーテン・ドイツ党(Die Sudetendeutsche partei)の運動を中心としてズデーテン地方の事態は早くも著しい不穏を呈することになった。このズデーテン・ドイツ党はその創立以来ドイツ外務省から資金的援助を仰ぎ、ドイツ政府の指令にもとづいてその運動を行ってきたのであったが、同党は、独墺合併の翌月にはズデーテン地方に関して高度の自治を要求するにいたった。そして、この前後を通じて同党はこのズデーテン地方のドイツ人とチェコ人との間の衝突を極力挑発することを試み、それによってズデーテン問題を同地方の被抑圧少数民族の問題として世界に強く印象づけることを努めたのである。このような中で、チェコスロバキア政府は同党に対して譲歩的態度をもって折衝し、極力交渉の妥結をはかったのであるが、ドイツは同党を操って解決を常に回避する方針をとらせて事態を紛糾させ、ドイツがチェコスロバキアへ干渉する口実をつくり出すことを企てたのである。そして、遂にヒットラーはズデーテン地方のドイツ人をその迫害の渦中から救い出すためには実力行使をも辞さない態度を示すにいたった(9月)ここに及んで、ヨーロッパ国際政治はズデーテン問題を中心として正に重大段階に到達することになった。
さて、当時の険悪化した国際情勢の下において、一たびもしドイツとチェコスロバキアとの間に戦火が閃くにいたった場合、その戦争がいかなる規模のものへ拡大するかは到底予測を許さなかった。このような情勢を前にチェンバレンはヒットラーと会談し、事態を平和的に収拾することを企てた。しかし、その間においてヒットラーはベルリンにおけるその演説において述べて、現下の事態はパリ平和会議がその標榜した民族主義の原則を適用しなかったことに由来するとなし、チェコスロバキア政府が国内少数民族に対して無慈悲な抑圧を加えてきたことを述べて、これを痛撃し、またチェコスロバキア、ソ連邦間の相互援助条約に論及して、ボリシェヴィズムはチェコスロバキアを中央ヨーロッパへの進出の拠点として利用していると強調し、しかも、述べて、ズデーテン問題が解決をみた暁にはドイツはもはやヨーロッパに関して何ら領土的要求をもたない旨を断言したのであった。
20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋
ISBN-13 : 978-4769829799
いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。
五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。
談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。
鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。
「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。
さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。
児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。
くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。
文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。