2022年2月19日土曜日

20220219 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147-149

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147‐149

 志士によるテロ活動の対象は外国人だったが、外国人のために働いたり、外国人に媚びを売る日本人も数多く襲われた。1860年、ある志士の一派が、日米修好通商条約の調印を進めた大老井伊直弼の首をとる。日本人による外国人襲撃事件のなかでとくに目立つのが、薩摩藩士と長州藩士がかかわった1862年と63年のふたつの事件だ。1862年9月14日、28歳のイギリス人商人チャールズ・リチャードソンが生麦村の路上で薩摩藩士に刀で切りつけられ、そのまま失血死する。薩摩藩主の父親を含む行列に対して礼儀を欠く行為をしたというのがその理由だった。イギリスは損害賠償と謝罪および実行犯の処刑を、薩摩のみならず幕府にまで要求した。イギリスと薩摩との1年近くつづいた交渉は決裂し、ついにイギリスの艦隊が薩摩の城下町鹿児島に砲撃をしかけ町の大半を破壊した。ある推計では、薩摩藩士1500人が死亡したという。

 もう一つの事件は、1863年6月下旬に起った。長州が沿岸に設置した砲台から西洋の艦船を攻撃し、本州と九州を隔てる要である馬関海峡(関門海峡)を封鎖したのだ。1年後、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の軍艦から成る連合艦隊が砲台を砲撃で破壊し、残っていた大砲も陸戦隊が上陸して持ち去った。

 このふたつの西洋による報復で、薩摩や長州の好戦的で過激な攘夷派も、さすがに西洋の大砲の威力を思い知らされ、まだ脆弱な日本の現状では外国人を追い出そうと努力するだけむだだと悟った。急進的な攘夷派とて、西洋に引けを取らない軍事力を日本が手に入れるまで待たねばならない。皮肉なことだが、それは、攘夷派が激しく非難していた幕府が進める政策であった。

だがここにきて薩長をはじめとする一部の藩は、江戸幕府は西洋と対抗できるところまで日本の国力を強化できない、と確信するにいたった。西洋の技術を導入するという目標は幕府と共通するものの、この目標達成には日本の政府と社会を再編する必要がある、というのが倒幕派の大名たちの出した結論だった。そこで大名たちは、しだいに将軍を出し抜くための方法を画策しはじめる。それまで薩長は、対抗心を燃やし、互いを信頼せず、ずっと争ってきた。だが、江戸幕府の軍事力強化が双方の藩にとって脅威となることを認識した薩長は手を組むことにする。

 1866年に14代将軍家茂が死去すると、15代将軍慶喜は近代化と改革に集中的に取り組みはじめる。フランスから軍備を輸入し、軍事顧問を呼び寄せたのもその一環である。これにより、薩長は危機感をつのらせた。1867年に孝明天皇が崩御すると、15歳で明治天皇が即位する。薩長の藩主らは、明治天皇の外祖父と共謀して、朝廷の後押しを取り付けた。1868年1月3日、門を封鎖して人の出入りを制限した京都の御所のなかで、討幕派の有力大名が会議を開き、徳川将軍家の領地を取り上げて官位官職を奪うことと、幕府廃止が決定され、将軍辞職が認められた。武家政治の終焉である。この会議の決定では、天皇に統治大権が戻る(王政復古)という神話が強調された。実際には長年にわたり、統治の実権はずっと幕府が担っていたものだった。これらが明治維新として知られる出来事であり、ここから新たな支配体制の時代、明治時代がはじまる。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792