A「おかげさまで昨日のブログ記事閲覧者数もまた1000人に到達しました。
また投稿記事数も本日の記事投稿により445記事となり、とりあえずの一区切りともいえる450記事まで、あともう一歩となります・・。
そして、現在、目標とする投稿記事数は500と設定しておりますが、450記事に到達しますと、以前よりも、この目標が一層現実味を帯びてきます・・。
これまで一連の記事を興味を持って読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。
とはいえ、実際のところ、500記事に到達したならば、何か良い出来事が生じるというわけでもなさそうです・・(苦笑)。
そうしますと「これまで(何となく)目標を定め、それに向かい、一つ一つ記事を作成し投稿してゆくといった作業、行為とは一体どのような影響を私に及ぼしているのであろうか?」という疑問が不図、頭をよぎることがあります・・。
そしてまた、その影響とは、果たして500記事という具体的な目標とする数値に到達した場合においてのみ、発揮、及ぼされるのであろうか?とも思うに至ります。
他方、ブログ記事の作成、投稿という作業、行為によって生じる何らかの影響とは、これまでに投稿した400記事程度により(十分)得られているのであるとすれば、今後のそれはいわば蛇足というものであり、必要ないものとして認識することも出来るのかもしれません・・。
しかしながら、感覚的なことではありますが、こうしたものは、ある数値目標を達成、到達することにより、何かが生じるというものでも、ある一定の適当な量をこなしたから何かが生じるというものでもないと思われます・・。
それは、ただ偽らざる自らの内心(無意識に近いものであろうか?)との調和、融和によって内面において何かが生じるのではないかと思われます・・。
そして、それ(内面での変化)が自身の行動、言動に変化をもたらし、結果的に外部からの要因により、何かしらの出来事が生じたように思われる、感じられるのではないでしょうか・・?
(あるいはそうしたものとして認識した時点で何かが大きく変わるのかもしれない・・。)
もちろん断言はできませんが、これまでブログ記事の作成投稿を行っておりますと、少なくとも私の場合、そうではなかろうかと思われるということです・・(あくまでも一つの仮説です・・。)。
その意味において、容易に自らの内心との調和、融和を図ることが出来る方の方が相対的にこの世間を生きていく上においては有利であるのかもしれません・・(結局それはコトバ、そしてコトバの定義の問題なのであろうか・・?)。
また、それと同時に、この主題、テーマとは以前作成投稿したブログ記事「なかなか大事なことであるかもしれませんが・・」と関連があるのではないかとも思われます・・。
そして、それをさらに長期間、数世代にわたるモノガタリとして考えてみますと、今度は「素戔嗚から菅原道真まで・・」と題した以前に投稿したブログ記事の主題、テーマとも関連が見出せるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
先日来の熊本、阿蘇山の噴火による、四月に同地域を中心として発生した大地震での被災された地域の復旧、復興作業に支障がないことを祈念します。」
2016年10月9日日曜日
20161009 最近の東京にて思ったこと
A「これまでに投稿された一連のブログ記事を読んで頂いている方々は理解してくださっているとは思いますが、私は特に自信を持って一連のブログ記事を作成しているわけではありません・・。
むしろ私はこれまでに自信を持って何かにあたったということはないと思います・・(苦笑)。
しかし一方、世間一般において「何かを行うにあたり自信を持っていないとダメである。」とはよくいわれることです。
そして、他者による自信の認識とは具体的には、表面的な態度、挙措動作であったりするのですが、私が考えるに、そうした表面上の態度、挙措動作から感じ取ることの出来る自信とは、往々にして(全てではないにしても)ニセモノ(練達した虚勢)ではないかと思われます・・。
そして、特に昨今の我が国の社会においては著しく表面的な見た目が重視される傾向が存在すると思われるのですが、これは実のところ大変マズイことなのではないかと思われます・・。
そして、さらに誤解、非難を恐れずに記しますと、それは主に女性的な感性に基づいているのではないかと思われます。
そして、それに反応、対応するようなカタチで男性側に、さきに述べたような傾向(著しく表面的な見た目が重視される)が社会にて惹起され(無駄に)強化、強調されるに至るのではないかと思われます・・。
とはいえ、これは主に首都圏において看取し得る傾向であり、おそらく国内他地域、地方においては、そうした傾向とは、あたり前のように、むしろ「良からぬもの」として認識されているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?
また、そのことと少しハナシが異なりますが、先日朝の通勤電車にて車内に設置してあるモニター(様々なニュース、広告等が流れている)を意識せずに見ておりますと、流れていた百貨店の紳士服売り場の広告映像にて外国人(コーカソイド)のモデルが様々なスーツ、コートを着てポーズを決め、ダンスを踊るものがありましたが、その最後に百貨店の名前と共に「This is Japan」と表示されておりました・・。
それを観て「さすがにそれは違うのでは・・」と思いましたが、私が思うに、昨今の首都圏、東京には、何かしらこうした(欧米的な外装の洗練を誇示する楽屋落ち的な)傾向が存在するのではないかと思います・・(昨今のテレビ番組自体、視聴率の低迷により開き直ったのか、こうした傾向が著しく見受けられるように思います。)
そして、この傾向とは、おそらく主に首都圏、東京のある程度若い年齢層の新住民の見当違いな積極性により惹起せられたのではないかと思われます(明らかではありませんが・・)。
また、こうした現象を認識し、同時に考えることは、こうしたものは明治初期の「東京」において見られた一連の流行(牛鍋、ザンギリ頭、洋服、舞踏会、建築・・)とも類似しているのではないかということです・・。
また当時(明治初期)のこうした傾向とは、たとえ軽薄であっても一国の首府として地方に対し圧倒的に大きな波及力、影響力(同調圧力?)を持っていたのかもしれませんが、様々な情報、傾向が様々な地域、地方で当時よりも容易に入手することが可能になった現代においては、そうした首府における傾向とは、ある地方においては特に参考とするべきものではなく、むしろ反面教師的なものとしてとらえられるのかもしれません・・。
それは、おそらく昨今一連の東京オリンピック開催準備に付随する出来事、築地市場移転に伴い浮上した出来事などと併せ、より強く、そのよう(反面教師)に認識せられるのではなかろうかと思います・・。
そして、こうした一連の首府機能、文化、感性の劣化ともとらえられる出来事、傾向とは一体どのような事情、状況によりもたらされたのでしょうか・・?
また、史家が指摘する江戸末期における徳川幕閣とは、その統治能力を失っていたということは、あるいは、さきに挙げた傾向、出来事とも何かしら関連があるのではないでしょうか・・?
しかし今度は、ハナシを卑近なところに引き戻し、その観察者である人間(私)が(再度)地方に移り住んだ場合、今度はまた他のことでこうした思い、考えをその地方に持つに至り、結句、首都圏を懐かしく思うことになるのでしょうか・・?
「ないものねだり」と「冷静客観的な観察の結果」とは本質的に異なるものなのでしょうか・・(笑)。
あるいは単なる「コトバのあや」であるのでしょうか・・?
とはいえ、多少飛躍するかもしれませんが、私はスマホ、マンガなどは一国の文化の成長、発展といった創造性に関しては、あまり良い効果を持たないのではないかと先日東急東横線渋谷駅の発車メロディを聞きながら不図、思いました・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の諸インフラの早急の復旧およびその後の復興を祈念しております。」
むしろ私はこれまでに自信を持って何かにあたったということはないと思います・・(苦笑)。
しかし一方、世間一般において「何かを行うにあたり自信を持っていないとダメである。」とはよくいわれることです。
そして、他者による自信の認識とは具体的には、表面的な態度、挙措動作であったりするのですが、私が考えるに、そうした表面上の態度、挙措動作から感じ取ることの出来る自信とは、往々にして(全てではないにしても)ニセモノ(練達した虚勢)ではないかと思われます・・。
そして、特に昨今の我が国の社会においては著しく表面的な見た目が重視される傾向が存在すると思われるのですが、これは実のところ大変マズイことなのではないかと思われます・・。
そして、さらに誤解、非難を恐れずに記しますと、それは主に女性的な感性に基づいているのではないかと思われます。
そして、それに反応、対応するようなカタチで男性側に、さきに述べたような傾向(著しく表面的な見た目が重視される)が社会にて惹起され(無駄に)強化、強調されるに至るのではないかと思われます・・。
とはいえ、これは主に首都圏において看取し得る傾向であり、おそらく国内他地域、地方においては、そうした傾向とは、あたり前のように、むしろ「良からぬもの」として認識されているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?
また、そのことと少しハナシが異なりますが、先日朝の通勤電車にて車内に設置してあるモニター(様々なニュース、広告等が流れている)を意識せずに見ておりますと、流れていた百貨店の紳士服売り場の広告映像にて外国人(コーカソイド)のモデルが様々なスーツ、コートを着てポーズを決め、ダンスを踊るものがありましたが、その最後に百貨店の名前と共に「This is Japan」と表示されておりました・・。
それを観て「さすがにそれは違うのでは・・」と思いましたが、私が思うに、昨今の首都圏、東京には、何かしらこうした(欧米的な外装の洗練を誇示する楽屋落ち的な)傾向が存在するのではないかと思います・・(昨今のテレビ番組自体、視聴率の低迷により開き直ったのか、こうした傾向が著しく見受けられるように思います。)
そして、この傾向とは、おそらく主に首都圏、東京のある程度若い年齢層の新住民の見当違いな積極性により惹起せられたのではないかと思われます(明らかではありませんが・・)。
また、こうした現象を認識し、同時に考えることは、こうしたものは明治初期の「東京」において見られた一連の流行(牛鍋、ザンギリ頭、洋服、舞踏会、建築・・)とも類似しているのではないかということです・・。
また当時(明治初期)のこうした傾向とは、たとえ軽薄であっても一国の首府として地方に対し圧倒的に大きな波及力、影響力(同調圧力?)を持っていたのかもしれませんが、様々な情報、傾向が様々な地域、地方で当時よりも容易に入手することが可能になった現代においては、そうした首府における傾向とは、ある地方においては特に参考とするべきものではなく、むしろ反面教師的なものとしてとらえられるのかもしれません・・。
それは、おそらく昨今一連の東京オリンピック開催準備に付随する出来事、築地市場移転に伴い浮上した出来事などと併せ、より強く、そのよう(反面教師)に認識せられるのではなかろうかと思います・・。
そして、こうした一連の首府機能、文化、感性の劣化ともとらえられる出来事、傾向とは一体どのような事情、状況によりもたらされたのでしょうか・・?
また、史家が指摘する江戸末期における徳川幕閣とは、その統治能力を失っていたということは、あるいは、さきに挙げた傾向、出来事とも何かしら関連があるのではないでしょうか・・?
しかし今度は、ハナシを卑近なところに引き戻し、その観察者である人間(私)が(再度)地方に移り住んだ場合、今度はまた他のことでこうした思い、考えをその地方に持つに至り、結句、首都圏を懐かしく思うことになるのでしょうか・・?
「ないものねだり」と「冷静客観的な観察の結果」とは本質的に異なるものなのでしょうか・・(笑)。
あるいは単なる「コトバのあや」であるのでしょうか・・?
とはいえ、多少飛躍するかもしれませんが、私はスマホ、マンガなどは一国の文化の成長、発展といった創造性に関しては、あまり良い効果を持たないのではないかと先日東急東横線渋谷駅の発車メロディを聞きながら不図、思いました・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の諸インフラの早急の復旧およびその後の復興を祈念しております。」
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