pp.125-127より抜粋
ISBN-10 : 4061495755ISBN-13 : 978-4061495753
コジューヴによれば、大きな物語が失われたあと、人々にはもはや「動物」と「スノビズム」の二つの選択肢しか残されていなかった。そして本書ではここまで、そのスノビズムのほうは、世界では1989年、日本では95年に時代精神としての役割を終え、いまは別種の時代精神=データベース消費に取って替わられつつあると論じてきた。とすれば、ここで、その変化を、コジューヴの言葉を踏まえて、「動物化」と名付けるのもよいかもしれない。
動物化とは何か。コジューヴの「ヘーゲル読解入門」は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジューヴによれば人間は欲望を持つ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。
しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求とは異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。その種の欲望の例として、コジューヴを始め、彼に影響を受けた多くのフランスの思想家たちが好んで挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入れても終わることがなく、むしろますます膨らんでいく(と彼らは記している)というのも、性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思う(嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないのである。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とするーここでは詳しくは述べないが、この区別はじつは、ヘーゲルからラカンまで、近代の哲学や思想の根幹をなしているきわめて大きな前提である。コジューヴもまたそれを踏襲している。
したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジューヴが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だったが、このような文脈を踏まえると、その言葉にもまた、単なる印象以上の鋭い洞察が込められていたことがよく分かるだろう。