2015年12月21日月曜日

20151222 最近の読書の傾向について

ABさん、最近はどういった本を読みましたか?」


B「ええ、これまでの蔵書は寝る前や移動時などに読んでいますが、思想、哲学系などの重いものは継続的に読めないのでここ最近は御無沙汰です・・(苦笑)。」


A「はあ、そうですか・・。
そういえば先日Bさんのブログに載っていたラッセルの生涯を扱ったマンガはどうでしたか?」


B「・・ああ、そのマンガはつい先日購入しました。
マンガなのでとても読み易かったですが、もし興味があるようでしたら今度持ってきますよ。」


A「そうですか。
それはどうもありがとうございます。
でしたら是非お願いします。」


B「では今度持ってきます。
そういえば、その本を購入した時にヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の新訳本を見つけました。
最近はそういった古典などの新訳本がよく刊行されているようです・・。」


A「そうですか・・あの著作は院生時代の夏休みに輪読会をしましたね()。」


B「ええ、そうです。
あの著作は輪読でもしないと、なかなか読もうとは思いませんからね()
しかし、あれをやったお陰でその後色々と読むことができたのではないかと思います。」


A「そうですね。
私もあれがきっかけで本に赤線を引いたり、コメントを記入したりするクセがついたのではないかと思います・・。
加えて、あの時期に読書と議論に没頭できたことは今考えてみると大変貴重な経験であったのではないかと思います。」


B「あれは私にとっても大変貴重な経験でした。
その後、異なった学問分野に進んでもあの時の経験やノウハウがあったお陰でどうにかなったのではないかと思います。
それでも今となっては多少戦線を拡大しすぎたのではないかとも思うこともありますが・・(苦笑)。」


A「いえ、それはそうであるかもしれませんが、同時にそれが他の人が真似できないBさんの長所なのではないかと思います。
ただ、それを長所として認識してくれる方々がどれくらいいるのか?というのが現実的な問題なのではないかと思います・・。」


B「まあ、それはそうなのですが、私も最近ではどういった仕事が出来るのだろうか?と多少不安に思うことがあります。
そして、こういった不安、悩みにはどのような出口があるのだろうかとも思います・・。
ただ、これまでの求職活動の様々な場面において時折あったのですが、博士課程というと何かただ遊んできたのではないかと思われるようなフシもあるようなのです・・・・。」


A「・・ううむ、基本的には好きなことをやっているわけですから、そう思われても仕方のない部分はあるとは思います。
しかし、そこでやってきたことは、大体においてその分野における研究の最先端であり、また、そこで研究活動をするためには、様々な周辺知識、あるいは分野によっては技術の修得が要求されるわけですよね・・。
そうしたことを続けていると、やはり何かしら人格が変ってくるのではないかと思います。
そして、多くの企業等からすると、そうした人格とは使い難いものとして敬遠し、その理由付けの一つとして、そのように思っていることを匂わせるのではないかとも思います・・。
しかし何れにしても、これは難しい一種の社会問題であると思います・・。」


B「ええ、それは私もよくわかります。
多分、博士課程まで行ってしまいますと、どのような分野であれ、言語の普遍性?にまで達してしまうのではないかと思います。
そうすると、多くの場合、雇用側は自身の方が立場が上であるということを示すことが難しくなってしまうのではないかと思います・・。
つまり、多くの企業は、一種のモラハラのような悲しい方法を用いて被雇用者を統治、支配しているのではないかと思います・・。
これは今考えてみますと、私の会社員時代においても、そういったことが多々ありました。
また、現在においても、そうした状況は特に改善されていないと思います。
そして、こうしたことは仕組み、システムのみを変えても改善できるようなものではないと思いますので、今後もこの状況が大きく変化、改善する可能性は低いのではないかと思います・・。
いってみれば戦前陸軍の内務班的なものが多くの日本の組織における統治、支配における継続的、伝統的なバックボーンになっているのではないでしょうかね・・?」


A「・・・それは大変根が深い問題であることは私もよくわかります。
また、こうしたことは外国に向けて発信しても、おそらく改善されることはないと思います。
むしろ、そうした状況を利用して日本を支配下に置こうとするかもしれません・・。
ですから、こうしたことは主に我々日本人の手で徐々に改善していく以外ないのではないかと思います・・。
しかし、現在の我が国の社会を考えてみますと、楽観視はできないですが・・。」


B「また、こうしたことを見続け、観察し続けることは結構きついものがあり、それであれば金色夜叉式に「いっそのこと自分が搾取側にまわってやれ!」となり、こうした社会を批判する人間を生産性のない一段低い存在として扱うようになるのではないでしょうか?
しかし、そうした開き直った立場だけが生産性があり、現実的であるならば、何故、現在の我が国では、こうした閉塞といってもいい状況が続いているのでしょうかね?
そうしますと私は先ほど話に出ましたヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を思い出すのです・・。
もっともあれが全て良いとは思いませんし、また、そうしたハビトゥスも時間の経過と共に変化、腐敗してくるとも思いますので、そうした精神の健全性を保つためにこそ、鍛錬するためにこそ、人文社会科学的な教養の存在価値があるのではないでしょうか・・?」


A「ええ、それはおっしゃる通りではあると思います。
しかし教養は何であれ絶対に強要できないものですし、学校の科目などとして、少しでも強要してしまえば、その時点で多くのそれが本来持っていた価値が損なわれてしまうのではないかと思います。
それ故、ひと口に教養教育といいましても、実に難しいものがあるのではないかと思います・・。」


B「ええ、そうですね。
教養は絶対に強要できないし、どんな形であれ強要すれば、それは何か違うものになってしまうのでしょう・・。
加えて博士課程の問題も実はそこらへんにあるのではないかとも思います・・(苦笑)。」

20151221 詩、詞および文字、音声言語について

A「先日Bさんのブログを読ませていただきましたが、パリでのテロを「KAMIKAZE」と報道されたことが書かれていました。
あれには少しヒヤヒヤしました。
しかし全体的な内容に関しては特に問題はなかったと思います。
それでもああいったことを書くのは何といいますか、バランス感覚が必要であり、また中傷、非難される方々が出てくる可能性もありますので、少なくとも求職活動されている現在は多少筆を抑えた方が良いのではないかと思います・・。」


B「アドバイスどうもありがとうございます。
あの回は私も書いた後に少し考えて、投稿を止めようかとも思いましたが、特に我が国、外国を貶める目的もありませんし、また、そのように思われる記述もないと思いましたので、投稿後、多少加筆訂正するに留めたのです。」


A「ああ、そうだったのですか。
私も何だか検閲みたいで、このことをBさんにお伝えすることを多少躊躇しましたが、そうした経緯を知ることが出来まして少し安心しました。
ともあれ、繰り返しになってしまいますが、今現在ああいったセンシティブな時事ネタをブログなどで扱うのは、できるだけ控えた方が良いのではないかというのが私の正直な感想です。」


B「ええ、今後も何かそういったアドバイスなどがありましたら、是非お教えください。
それで少し話は変るのですがAさんはポエムのなどの良し悪しなどは分かりますか?」


A「・・いきなり唐突ですね()
ううむ、私も一応人文社会科学系の研究者ですが、正直あまりそういった分野のことは考えたことがありませんでした。
それでもたしかに詩の良し悪しを判断する要素、価値観とは一体どういったものでしょうかね?」


B「そうなのです。
私もよく分からないので今Aさんにお聞きした次第なのですが、一方で時折「いいなあ!」ですとか、何かよくわかりませんが琴線に触れるようなものに時折出くわすこともありますので「それらは一体何に因るのだろうか?」と思った次第なのです。」


A「私はポエムの詩はあまり読みませんが、音楽の歌詞などでは「良いなあ」と思うことがあります。
いや、むしろ私の場合、何かしらのメロディの中にある詩、歌詞に感動を覚えることの方が圧倒的に多いですね・・。
しかしそう考えると、ポエムの詩と歌詞の詞の違いとはメロディの有無なのでしょうね・・。
そして始原においてはポエムの詩も、何かしらの節、メロディにのせて読まれた、朗詠されたものであると思いますので、メロディの中にある歌詞の方が音声言語により親和性があり、詩の方はより文字言語に即したものではないかと思いますが・・。」


B「はあ、たしかに音声言語が言語の始原であると思いますので、その意味ではポエムの詩よりもメロディありきの歌詞の方がより古いのかもしれません。
そして現在では一般的に歌詞もポエムの詩の一種とされていると思いますので、これは音声言語から生じた、あるいはそれに対応した文字言語が後にオリジナルの音声言語を包含するに至った経緯を示しているのかもしれませんね。」


A「・・なるほど。
そうしますと私がポエムの詩よりも音楽の歌詞の方に感動を覚えるということは、私の感性、感受性がより音声言語対応になっているということなのでしょうか()?」


B「ええ、そうとばかりもいえませんが、少なくとも詩心に関してはそうした傾向があるといったところではないでしょうか?
それでもたしかに昔の歌、童謡などを聞いていると、その歌詞がよりポエムの詩としても通じそうなものが多いと思います。
個人的には童謡の「椰子の実」の歌詞は感慨深いです。
この歌は以前より知っておりましたが、南紀在住時に水平線に沈む夏の夕陽を一人で見ていましたら、不図この歌詞が口から出てきたことがありました・・。
それ以来、何故だかこの歌は好きになりました()。」


A「ええ、そういう経験はたしかにありますね。
しかし、そういった場合、特にメロディを伴う歌詞でなくとも良いのではないかとも思いますが・・。
しかし一方、それがメロディの中にあるものであれば、何といいますか、メロディを伴わないものに比べ、容易に想起することが出来るのかもしれません。
そうした意味において、メロディがあることにより、ポエムの詩、歌詞とは、より身体性を持つようになるのかもしれません。」


B「詩、歌詞とは、メロディの中にあることによって、より身体性を持つという御意見は大変興味深いです。
それは丁度、舞踏用の音楽あるいは軍隊の行進曲が生まれた経緯などにも通じる要素があるのかもしれませんね。
そうしますと、メロディとは音であり、それだけでは明確な言語的な意味はありませんが、それでも我々の精神の言語以前のよりプリミティブな層を活性化させる何かがあるということですね。」


A「ええ、多分そうであると思います。
こうしたたとえは少しおかしいかもしれませんが、歌詞を伴う楽曲とはラーメンのようなものであり、その中で明確な意味を示さないメロディ、音楽とはスープであり、一方、その明確な意味を示す歌詞とは歯ごたえのある麺にたとえることができるのではないかと思います。
そして同じメロディで違う歌詞を用いる楽曲の2番、3番はまあ、博多ラーメンでいうところの替玉みたいなものではないでしょうか?
また楽曲とは、ラーメンと同様、そのメロディつまりスープの良し悪しにより大きく依存していると思います。」


B「・・・なるほど、それはなかなか秀逸なたとえですね。
ちなみに、それでしたらチャーシュー、煮玉子、ネギ、キクラゲ、辛子高菜、ゴマなどはどうなるのですか()?」


A「・・ううむ、それらはスープと麺つまりメロディと歌詞をつなぎ、全体の深みをより増すものであると思いますので、そうですね・・楽曲の演奏における特徴的な楽器などの使い方などに相当するのではないかと思いますが・・。」


B「はあ、なるほど、それもなかなか面白い御意見ですね。
また、そうしますと、我々の言語全体に対しても、そのように考えることが出来るのでしょうか?
つまり、言語全体がラーメンであり、その中で、よりメロディに近い音声言語はスープであり、文字言語は麺であるといった感じになるのでしょうか?」


A「うーん、それはどうであるかわかりません・・。
しかし、それでも少なくとも関東地方では、麺を主体としたもりそばは一般的に男性の好きな食べ物とされているのはなかなか興味深いですね。
つまり、少なくとも我が国においては文字言語は長く男性のものとされてきました。
そしてそれを先ほどの「文字言語は麺である。」に対応させてみますとどうでしょう・・?」


B「・・なるほど、それもまたなかなか面白く興味深い御意見です。
また、そう考えますとヨーロッパの言語で男性、女性あるいは中性名詞があるのも何となくその伝で理解できるのかもしれませんね()
合っているかどうかわかりませんが・・。」