ISBN-10 : 430946372X
ISBN-13 : 978-4309463728
古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の」系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。
この時点で私は、ひとつの決定的な問題、すなわち古典を読むことと、古典でないすべての他の読書とを、どう関連づけるかについては書かずにはいられない。つぎのような疑問が、この問題とかかわっている。「もっと根本的なところでわれわれの時代を理解するのに役立つ本を読まないで、なぜ古典を読めというのか」そして、「時事問題にかかわる印刷物がなだれのようにわれわれを圧し潰そうとするこの時代に、古典を読む時間や余裕はどこにあるのか」。
一日のある部分を。ルクレティウスや、ルキアノス、モンテーニュ、エラスムス、ケベード、マーロウ、方法序説、ヴィルヘルム・マイスター、ラスキン、プルースト、ヴァレリー、ときに気が向けば紫式部、あるいはアイスランド・サガなどを読むためだけに、「読書の時間」をもうけている幸福な人間を想像してみよう。それも、出たばかりの新装本の書評を書く仕事、教授資格をとるための論文執筆、契約でひきうけた編集の仕事の切迫した締切りなども、この人には関係ないとしよう。この幸福な人は自分が汚染されないために、読書のダイエットをきびしく守り、新聞を読むことも新刊小説や最近行われた社会調査の誘惑からも、つねに自分を守らねばならない。さて、このような厳格主義がどれほど正しいか、あるいは有益かは、一応、別の問題として措くことにする。時事問題のたぐいは月並で不愉快なものかもしれないけれど、前に進むにしても、後に退くにしても、とにかく自分がどこに立っているかを、わからせてはくれる。そして、古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのは、こういった理由からである。そのためには、かならずしも内面の静寂を前提としない。忍耐が足りなくていらいらしているときも、なにかが不満でうんざりしているときでも、古典は読める。
理想をいえば、時事問題その他は、窓のそとの騒音ぐらいに思えるのがいちばんいい。窓のそとでは交通渋滞や天候不順があることを知りながら、部屋にいて古典の言説の透徹した格調たかいひびきに耳をかたむける、というのが。しかし、音声をいっぱいにあげたテレヴィジョンみたいな時事問題の喧騒に満ちた部屋にいて、遠くに聞こえる轟音ほどに古典の存在を感じられるなら、それでもずいぶんとましなのである。