2025年9月19日金曜日

20250918 大気の薫りと混然一体とした記憶の想起について  ー和歌山への訪問から自然と歴史についてー

 先週末から今週の月曜日にかけて、久しぶりに和歌山を訪問する機会を得ました。今回の滞在は和歌山市内に限られ、市外や南紀方面へ足を延ばすことはありませんでしたが、街なかの空気を吸うと、周囲の山々や海から流れ込む独特の大気の薫りが、かつて南紀や和歌山市内で暮らしていた頃の記憶や感覚を呼び起こしてくれます。そして、この感覚は、気力や忘れかけていた興味なども蘇らせて、心身を元気にしてくれるように思われます。また、対照的に、現在在住している首都圏では、こうした自然豊かな大気を感じられるような環境や機会は乏しく、さまざまな利便性の反面で、自然との距離が遠いように感じられます。

 これまでにも当ブログにて折に触れ何度か述べてきましたが、私がはじめて和歌山の自然環境に接し畏怖を覚えたのは、2001年に北海道から南紀白浜へ転勤した際でした。南紀白浜の関西圏有数の温泉地としての賑わいの背後には、黒潮からの波が打ち寄せる荒々しさと、紀伊山地(熊野)の南方的な鬱蒼とした照葉樹の森が広がっています。そして、その景観は、それまで、鼻で息を吸うと頭が痛くなるような寒い北の大地にいた私にとっては強烈なものであり、全てを包み込んでしまうような、その自然環境の前では、ただ立ち尽くすばかりでした。

 南紀白浜、その北隣の紀伊田辺市、さらに双方の内陸に位置する上富田町は、紀伊山地南西端の沿海部の中核地域であり、古い時代に「牟婁(むろ)」と呼ばれていたのは、この地域であったと推測されます。転勤後、この地名(西牟婁郡)をさまざまな書類や葉書や手紙に書くたびに、それまであまり縁がなく、また関心もなかった、その古風な地名の響きから、何と云いますか、本物の土俗的な歴史の厚みと、時間の隔たりに、ある種の違和感と驚きを感じていました。

 やがて、休日を利用して自転車や自動車で周辺地域を巡るようになりますと、古めかしい地名は「牟婁」にとどまらず、地域に多数あることに気が付きました。また、「牟婁」からさらに内陸に入りますと、熊野信仰の中心地域になります。そして、この「熊野」も「くまの」以外に「いや」と呼ぶ地名があったり、あるいは地名ではありませんが、能楽の曲「熊野(ゆや)」のように、文字と読みの対応関係が異なることを知り驚かされました。こうした経験は、我が国の古い言語と方言との関係や、口語と文語の歴史的な変遷、さらには地域性などについて考えさせる一つの契機になったと云えます。

 さらに、興味深いのは地名だけではありません。地域各地の遺跡や出土物なども、土俗的な歴史の厚みを物語るものと云えます。これまでに当ブログにて何度も題材としている弥生時代の青銅製祭器である銅鐸は、この「牟婁」地域、すなわち田辺・白浜・上富田からも複数出土しています。また、古墳時代に造営された古墳も、当地域に多数存在しており、その造営様式は紀北、すなわち紀ノ川下流域(和歌山市周辺)の古墳とは明らかに異なっています。それら地域の複数古墳は、むしろ、紀伊水道を隔てた対岸、徳島県(阿波)の古墳との類似性が指摘されており、このことは、古代での文化の伝播経路や交易ルートなどを検討するうえで重要な手掛かりであると云えます。

 ともあれ、そうしたことから南紀白浜や和歌山市での在住の頃を振り返ってみますと、自然と歴史が渾然一体となって息づいていたことを改めて実感させられます。内陸部ダム湖での釣行への運転時、周囲を見渡しますと、古くからあまり変わっていないであろうと思しき南方的な横溢とした自然の景観のなかに銅鐸出土地があったり、南紀白浜の白良浜北側に鎮座する熊野三所神社境内にある半ば自然と一体化したような火雨塚古墳を見ていますと、千年以上前からの時の流れや、人々の営みについて否応なく考えさせられます。そして、負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、こうした経験は、少なくとも私にとっては首都圏での生活では得がたいものであったと云えます。あるいは、元来、歴史などに興味を持つ性質であった私にとっては、前述のような自然と歴史が混然一体となった環境によって、歴史への興味が、より具体的なもの、あるいは、地に足のついたものへと深化したのではないかと思われるのです。

 そして、今回の短い滞在においても、こうした感覚がまた少し甦ったように感じられました。地域での大気の薫りが契機となり、自らの、そしてまた、太古から現代に至るまでの地域の歴史の営みに、また思いを馳せることが出来たように思われます。自然と人間、そして地域の記憶とも云える時間の重層性は、少なくとも私にとっては、和歌山と云う地域において特に顕著に感じられると云えます。また、現在、首都圏に在住する私にとって、この再認識・確認は、単なる懐古に留まらず、同時に、現在よりさきについて考えるための契機にもなったように思われます。

そういえば、吉田松陰による「西遊日記」に以下のような記述があります。

原文
『心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり。』

現代語訳
『心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。』

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

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