A「先日来より読み進めている著作はその後、新たに頁が進み、自身としては面白い内容のくだりとなってきました。
この著作によると、我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからであると述べられています。
また、その虚構とは単なるモノガタリのようなものであってもダメであり、ある社会集団の中で共有され、信じることが出来るような内容を持っていないと、その効果は発揮されないということです(これを異なった視野から述べると、一時は社会において信じられていた虚構・モノガタリが、何らかの原因によって信じられなくなり、共有されなくなると、その社会とは崩壊に向かうということかもしれない)・・。
歴史を述べる際のこうしたくだりとは、自身にとって興味深いものであり、かつて自身が研究のテーマとした『地域における雨乞い祭祀』においては、その各々祭祀の背景に何らかのこうしたモノガタリが存在し、(地域にて)共有されていた(る)と云い得ます。
もちろん、各々モノガタリが共有され得る地域規模、ひいてはそれらモノガタリを背景として為される祭祀はさまざまですが、こうしたモノガタリを文献書籍・現地でのヒアリングを通じ調べていきますと、今度はさまざまな昔話・説話といったものに至り『日本霊異記』・『今昔物語』などを読むことになります・・。
なかでも『日本霊異記』に収録されている説話とは、古いもので古墳時代(5世紀頃)とされておりますので、地域におけるモノガタリの基層・起源を考える上において参考になり、そして示唆に富む著作であると云えます。
また、こうしたことを書いておりますと、自然と考えさせられるのは、古代における祭政一致の起源もまた、冒頭に書いた『言語を介して、ある種の虚構(モノガタリ)を互いに信じることが出来るようになったから』ではないだろうかということです。
そしておそらくそうした虚構(モノガタリ)が具現化・象徴化されたものが、弥生時代の銅矛・銅剣・銅戈・銅鐸などの青銅製祭器であり、また古墳時代のさまざまな古墳であるともいえます・・。
現在の視座から眺めてみますと、これらのものが、ある社会集団において極めて重要なものであったことは(その費やされたであろう労力を考えると)理解出来るのですが、しかし、それが当然とされていた具体的な社会の有り様、雰囲気を想像、具現化することが困難であると思われるのです。
(我々日本人とは、良くも悪くも、この部分をかなり安易に考えている、あるいはこうした可視化が困難な『時代精神』といったものを対自的存在と為し得ない何らかの傾向があるように思われます。)
丁度、ミサイル発射にて国内が沸き返っている某国の内情およびその系譜を実感として理解出来ないように・・。
しかし、どのような規模においても『歴史を知る』こととは、遺跡・出土物の観察、文献書籍の読解などを通して(客観的な)知見を蓄える『のみ』では、おそらく到底達し難く、如何なるものであれ、対象との同一化が為されることによって、はじめて到達することが出来るのではないかと思われますのです・・。
そして、そのような複眼的な視野の獲得・確立(知見の蓄積による客観的な視野・同一化によって得られる意識的ともいえる即自的な視野)によって『その歴史を立体的なもの』として見る・扱うことが出来るようになるのではないかと思うのですが、それは果たして無駄なことなのでしょうか・・?
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」