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2024年6月9日日曜日

20240609 和歌山県での銅鐸出土傾向からの仮説

銅鐸は中国大陸、朝鮮半島での鐘(鐸)や鈴、あるいはそれらの系譜を引く、我が国の弥生時代中期から末期(紀元前5世紀頃~紀元2世紀末)まで主に西日本で用いられた青銅製の祭器である。

これまでに銅鐸は我が国全土で500点(口)ほど出土しており、それらの出土地域や状況などから、銅鐸は主として農耕に関連する祭祀に用いられていたと考えられており、出土状況の傾向としては、集落に近い里山の山頂近くの比較的平坦な斜面での出土例が相対的に多いと云える。

銅鐸は鐘身を吊り下げるための通し穴がある部位の「紐」、そして鐘本体である「身」、そして鐘身に装飾として洗練された鋳バリとも云える「鰭」により構成される。また、前述「紐」部位の矢状断での形状によって様式分類がされることもあり、様式の古い順から述べると、断面の形状が菱形に近い「菱環紐式」、その次に、この「菱環紐式」の外縁が平坦に延長された紐断面の「外縁紐式」、次いで、通し穴を用いて吊るし、鳴らす用途が乏しくなったためであるのか、「紐」部の強度を考慮せずに「紐」が大型化して、その断面が平坦になった「扁平紐式」、そして次に大型化した「紐」や「鰭」部に、立体の区分け線がある「突線紐式」へ、といった様式の変化が看取される。

また「紐」部でなく「身」についても時代毎での様式の変化があり、ごく当初は、装飾が乏しく祖型である大陸や半島での鐘や鈴に近いものであったのが、経時的に大型化して、そして鐸身面積も広くなり、そこに縄文時代以来の流水文や蕨手文などの装飾が施され、さらに鐸身全体には縦横の線が走り、それにより区分けされた区画に、人や動物などを題材とした装飾も描かることもあり、概して銅鐸は、その祖型から時代を経る毎に、大型化、高装飾化していったと云える。ともあれ、こうした装飾や線による文様の様式からも、さきの「紐」同様に様式分類される。さらに、そうした分類から、銅鐸祭祀集団や、それら銅鐸の作製集団の時代毎での変化の様相なども看取され得る。

さて、上記のような銅鐸の様式分類を視座として和歌山県での出土銅鐸の様相を検討すると、先ず第一に和歌山県は全国的に銅鐸の出土数が多く、前述の全国で500点のうち、伝聞を含めると40点以上が和歌山県での出土である。そして県内での銅鐸出土の様相は、県北部には最古段階ではないものの、比較的簡素で、大型とは云えない「外縁紐式」や「扁平紐式」の様式を持つ銅鐸の出土が相対的に多く、対して県南部では、そこから時代が下り大型化・高装飾化した「突線紐式」銅鐸の出土が相対的に多いと云える。こうした県内での銅鐸出土状況から、県南部では、新式とも云える「突線紐式」銅鐸が作製される時代になってから銅鐸祭祀が受容されたと考えられているが、そのほかには和歌山県を含む西日本で、弥生時代中・後期を通じて多く見受けられる高地性集落の動向と銅鐸出土の分布が関連するといった見解もある。それは、先述の県北部では、比較的古段階と云える「外縁紐式」や「扁平紐式」の銅鐸の出土が主であるが、それらの多くは丘陵部からの出土であり、対して県北部での新式の「突線紐式」は、河川の近くなどの平野部からの出土が多い。そして、この傾向は中紀の日高川流域にまで共通する。

そして、さらに銅鐸出土地を求めて南下すると、南高梅で有名なみなべに至り、ここでは、さきの傾向から一変して、新式の「突線紐式」を主とする銅鐸全てが丘陵地からの出土となり、そして、この傾向は、南紀の富田川流域にまで共通する。そこから、さらに南下すると紀伊半島最南端を経て半島東側の新宮市の経塚遺跡にて破砕された新式「突線紐式」様式銅鐸の破片20点ほどが出土しているが、これは名前(経塚)が示すとおり、後代の遺跡と混交しており、その埋納の来歴は、他の県内出土銅鐸のそれとは異なるものと考える。

ともあれ、そこから、紀ノ川流域の紀北から日高川流域の中紀までの地域と、南下した南部川流域のみなべ町から富田川流域の南紀までの地域では、新式である「突線紐式」銅鐸の出土地の傾向が異なり、前の県北部地域では、河川近くなどの平野部からの出土であり、後の南部地域では、丘陵地での出土となる。そして、この県南北での「突線紐式」銅鐸の出土傾向の相違は、弥生時代中・後期に出現する高地性集落が営まれた時期と関連し、端的に県北部では、高地性集落を営む必要性が比較的早くに失われ、住民は水稲耕作に適した平地に戻り、そして、それに伴い銅鐸も平地に戻され、その後、何らかの理由により銅鐸祭祀自体が廃されて、そして埋納されたといった推移の様相が考えられる。それに対して県南部では、銅鐸祭祀が廃されるまでのより長い期間、高地性集落が営まれ、そのため、その埋納も集落に近い丘陵地や山頂付近の山腹といった立地になったと考えられる。

しかし、これらもまた現時点ではあくまでも仮説であり、今後、何らかの新たな発見、出土などにより、当仮説もまた変化する可能性がある。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!





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2021年9月13日月曜日

20210912 しばらく古い時代のことを書いて思ったこと・・(内と外?)

おかげさまで、昨日投稿分の「昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について」は、投稿翌日としては、比較的多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、ここ最近断続的に投稿している我が国の古代を題材として作成した一連の記事もまた、私の記事としては比較的多くの方々に読んで頂いていました。

そうしたことから、またこれを題材として記事を作成しようと思いましたが、書き続けるためには、ここで今しばらくの休憩が必要であるように思い、本日からしばらくは、さきの題材での記事作成はしないで、とりあえず書く事が出来る身近な題材で書いてみようと思うに至りました。ともあれ、そうした次第にて、この程度まで書き進めることが出来るのであれば、それはそれで、今回の企図については成功であると云えます・・。

さて、以前の1600記事到達の際に「1週間ほど休みたい」と述べていましたが、それも果たされることはなく、その後、長いときは5日程度の休みを挟みつつ投稿を続け、意外にも早く、1620記事へ近づきつつあります。これは1600記事からさらに20記事、あるいは次なる目標(1700)への5分の1の路程を既に進んだということになります。

先日(8月初頭)に1600記事に到達した記憶が未だ判然と残るなか、こうした感覚を覚えることはなかなか面白いものであり、あるいは、こうした、よく分からない未知の新しい感覚を知覚、認識するために最近は記事作成を続けてきたのではないかとも思われることがありますが、こうした感覚に適切に言語を付与して、何かしらの意味がある見解を提示することが出来れば、それはそれで面白く、やりがいがあるように思われます。

ともあれ、今回の記事は、あまり自分の外に視点を置かず、主に内面に視点を置いて作成しましたが、外界での面白い事象を見出すためにも、内面への関心を持っている方が、感覚やそれに付与する言語を練ることが出来ると思われ、そして、視野を内から外に移した時にも状況や感じたことを言語化して整理することが可能になる(「影送り」のように)と思われますので、端的に内外双方の視野を持つ文章を難なく作成することが出来るようになれば、何か面白いことが起きるのではないかと思われるのです・・。とはいえ、文章を作成している現在の私は相変わらず疲れが残り、また「今年一杯は記事作成をしないでおこう・・」と思うことも度々ありますが、とりあえずは「あまり無理をしないでも作成出来るのであれば作成しておこう」といった妥協点に落着き現在に至っています・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年9月12日日曜日

20210911 昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について

昨日投稿の記事に書いた「銅鐸」について、和歌山県は、その出土数が全国的に多いのですが、くわえて興味深いことは、そこから数百年後(古墳時代)、列島に根付いた大陸由来の墓制である横穴式石室を近畿圏にていち早く取り入れたのもまた、和歌山県であることです。

おそらく、その背景には、大陸へと続く朝鮮半島に度々派兵を行っていた4、5世紀代のヤマト朝廷にて派遣軍司令官的役割を担っていた当地の豪族である紀氏の存在があると云えます。他方で時代はそこから遡り、ヤマト朝廷始祖とされる神武天皇の東征のくだりにて、紀州での描写に登場することはなく、また、それによると当地では当時、女酋長を戴くクニグニ(村邑国家群)によって治められていたようです。

そして、この習俗(統治体制)に関しては、以前に当ブログにて引用したいくつかの記事にありますが、この場合は南方に、その起源があると思われます。ともあれ、東征後、当地がヤマト朝廷の支配下になると、この地に朝廷側の股肱を差し向けたのか、あるいはそれを在来土着豪族との婚姻などにより、支配の強化を図ったのか分かりませんが、ともあれ、このあたりの事情については、当地のいくつかの古社に参拝し、それら来歴の概要を知ったのちに検討してみますと、何となくではあれ、その背景にあった事情が理解出来るのではないかと思われます。

そういえば、1974年(昭和49年)にフィリピンのルバング島より帰還した最後の日本兵O氏のご実家は、和歌山市南隣の海南市にあり、その本家は、当地の古社にて代々神職を勤められています。古社とはいえ、どのくらい古くからであるのか、その由緒についてお聞きしたところ「鎌倉時代には既にこの地に存在したという記録があり、また、それ以前にもあったと思うが、その部分の記録が焼失して分からなくなってしまった。」とのことでしたが、何故、ここで「鎌倉時代以前から存在していたと思う」と云えるのかは、ここで話はさきほどの女酋長に戻り、当社は神武東征時の当地の女酋長である名草戸畔を祀っているとされるからです。

この女酋長たる名草戸畔は、上陸してきた神武軍との戦闘にて亡くなります。そして、その亡骸の特に頭部を祀ったのが当社であるとされ、そこから、ふるくより「おこべさん」(こうべ)という愛称にて親しまれてきました。

つまり、東京における平将門のような存在が、古来より朝廷側と戦った記録や口承が遺る地域においては、より身近なものとして未だに存在し、また、そうした地域においては、おそらく、それ以降の施政者達とは、あくまでも余所者であり、地元住民との妥協や協力関係によって、どうにか統治を続けることが出来たのではないかと思われます。

とはいえ、そうしたことは、時代時代のさまざまな要因によってブレが生じることがあり、時には地元住民側が強くなり、施政者側を圧倒することもあれば、あるいはまた、その逆もあり、そうした現象自体は現在もなお、続いていると思われます。

そこから、神武軍との戦いによって死んだ女酋長の頭部を祀っているという謂れ・由緒を持つ当地の古社を包摂するこの地域社会には、一体どのような性質があるのかと考えてみますと、それは少なくとも、歴代中央官衙の考えとは相容れないものであっても、特に不思議ではないように思われるのですが、さて如何でしょうか?

また、当和歌山県においては、そうした事例がほかにも少なからずありますので、こうした事情も相まってか、目上の方に対しての「敬語」があまり発達しなかったのかもしれません・・(笑)。

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2021年9月11日土曜日

20210910 紀伊半島西部と四国東部での銅鐸出土傾向から思ったこと・・

 これまで当ブログにて銅鐸に関する記事をいくつか作成してきましたが、私は2001年に北海道から南紀白浜へ転勤になるまでは、そもそも銅鐸についての知識や関心は皆無でした。その後、南紀での生活を通じて、徐々に興味関心を持つに至ったわけですが、そこで「何故、銅鐸に興味を持つようになったのか?」と問われますと、明晰に回答することは難しいと云えます。

かなり粗いところからですと、当時、蔵書に古書で購入した和歌山県の古代遺跡についての概説書があり、これを退勤後や休日に読んでいますと、比較的近所の自動車、自転車で少し走ったところに遺跡や遺物出土地などがあることを知り、あるいは休日のサイクリングで偶然にそうした場所に行き着き、あとになり書籍で調べなおすといったこともありました。

ちなみに私が2001年から2003年までの期間に住んだ和歌山県西牟婁郡白浜町では、伝白浜町出土とされる銅鐸は、いくつかの資料に記載があったと記憶していますが、間違いなく同町出土とされるものはなく、南紀での銅鐸出土状況は、隣の田辺市や上富田町からのものであり、そこから南では紀伊半島を東側に回った新宮市にて破砕状態のもの(近畿式とされる)が熊野速玉大社の摂社である神倉神社の境内から出土しており、これは後世(平安時代)の仏教遺跡の遺物と交ざり、実際に弥生時代末期(2世紀末、3世紀初頭頃)のものであるかは不明とされ、また、新宮市から北に続く紀伊半島東部については、その後、濃尾平野を主体とする伊勢湾文化圏に含まれる津市の雲出川流域まで銅鐸の出土例はないことから、さきの新宮での破砕状態での銅鐸の出土は、紀伊半島西部の上富田町から同半島を東に回り、かなり北上した津市までの領域での、ただ一つの出土例とされることから、尚更、その来歴の精査は必要でありながらも、同時に困難であるように思われます。

さて、以前に何度か述べましたが、紀伊半島西部では、粗く分析すると、北部に初期・小型・低装飾の銅鐸が多く、南下に伴い、徐々に後期・大型・高装飾のものが占める割合が大きくなる傾向があると云えます。

これはおそらく、その北隣の大阪府での出土傾向と比較しますと、興味深いと思われますが、他方で、これを紀伊水道を挟んだ四国東部と比較してみますと、その北端である香川県での銅鐸出土傾向は、総数20個ほどであり、それらは全て50㎝未満の比較的小型・初期のものであり、大型・後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土例はありません。次いで、その南に位置する徳島県での出土傾向は、総数が40個ほどであり、吉野川流域に集中する傾向を示し、県内出土の南端は阿南市であり、また、それらは総じて、さきの香川県同様、50㎝未満の比較的小型のものが多いものの、香川県での出土傾向と異なる点は、その中にいくつかの1mに達する、後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土があることです。つまり、総じて初期・小型の銅鐸が多いなか、いくつかの後期・大型のものが混在し、出土していることであり、こうした傾向は、紀伊水道対岸の北紀・中紀での出土傾向と幾分か類似しているようにも思われます。続いて、さらに南に位置する高知県においては、以前に述べましたが、物部川東岸までが同県内での(これまでの)出土領域とされており、その傾向は、総数は10個ほどであり、また、その殆どが50㎝以上の後期・大型の近畿式銅鐸であることです。そして、この高知県での銅鐸出土傾向は、対岸である和歌山県の特に南紀での同出土傾向と類似しているように思われます。

さて、如上の各地域での銅鐸出土傾向を眺めてみますと、香川・徳島・高知を包括した地域と、和歌山を主とする紀伊半島西部地域においては、辺縁領域に近接するにしたがって、出土する銅鐸が、後期作成の高装飾・大型のものが多くなるという、共通する傾向があるように思われます。とはいえ、これについては、それぞれに隣接する岡山県、淡路島そして兵庫県での出土傾向をさらに精査する必要があると思われますが、また同時に、一つの検討のための視座にはなるのではないかとも思われました。

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2021年9月9日木曜日

20210909 既投稿記事をいくつかまとめたもの③

直近の投稿記事にて銅鐸を扱いましたが、その後、気になり書籍を取り出し、インターネットにて検索したところ、後期(1世紀末以降)作成の大型、高装飾といった特徴を持つ、近畿式・三遠式双方銅鐸のなかで、近畿式銅鐸の鰭飾りの円型部位を、おそらくは銅鐸祭祀終焉後の時代に銅鐸本体から削り取り、ペンダント様に加工していた出土例が静岡県東部(沼津市・伊豆の国市)にあったことは以前から知っていましたが、それと同様の事例が、静岡県東部から遠く離れた四国は徳島市の庄・蔵本遺跡にて2013年に出土していることを知りました。

これは私にとっては驚愕すべきことであり、また徳島県は、さきの静岡県東部と異なり、元々が近畿式銅鐸の出土圏内であることから、如何なる経緯にて、銅鐸鰭飾りの円型部位をペンダント様に加工したのかとは大変興味深く、具体的には、削られる前の円型部位が飾っていた(近畿式)銅鐸は、元来、同地にて祀られていたものであるのか、あるいは、他の近畿式銅鐸の祭祀圏から齎されたものであるのかとは、さきの静岡県東部での事例と比較してみますと、当時の社会の一面を知る材料になるのではないかとも思われるのです。

そして、ここまで書いていて思い出されたのが、以前に記事として投稿した以下の引用記述です。

谷川健一著 古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」

上掲引用文から、さきの近畿式銅鐸の鰭飾り円型部位を加工した静岡・徳島での出土例とを加味検討してみますと「物部」氏が大きな意味を持っているのではないかと考えさせられます。

近畿圏主体にて祀られていた(近畿式)銅鐸の欠片を加工したものが静岡県東部(東海地方)から出土していることと、引用文中の「「外物部」は(ヤマト朝廷誕生による)物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。」には、何らかの関連があるように思われます。

徳島市の庄・蔵本遺跡での事例に関しては、その南隣にある高知県東部が近畿式銅鐸出土の一つの西限であり、具体的には、高知県を流れる「物部川」の東岸が現時点では限界となっています。そして、この「物部川」の名の由来もまた、ヤマト朝廷誕生による「外物部」の当地への流入であるように思われるのです。

他方で、ヤマト朝廷のもとに留まった方の物部氏は、王権に対し主に軍事方面にて奉仕し、その氏社とも云える奈良県天理市の石上神宮は、古くはヤマト朝廷の武器庫でもあり、またそれは、物部氏がかつて銅鐸と同様に銅矛、銅剣をも鋳造にて作成していた頃の名残りであると思われるのです。さらにまた、そうした経緯の可能性を検討してみますと、以前に作成・投稿した以下のブログ記述が思い出されました。

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力についてより抜粋

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」

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2021年9月8日水曜日

20210907 既投稿記事をいくつかまとめたもの②

我が国の銅鐸の直接的な起源とされているものは、朝鮮式銅鐸と云われる装飾性が乏しく、寸法10~20㎝程度の小型のものである。これら小型の朝鮮式銅鐸は、これまでに、朝鮮半島中西部の忠清道より4個、同北西部の平壌より6個、そして、同南東部の慶尚道より4個が出土している。

一方、朝鮮半島の対岸に位置する九州北部地域から出土した銅鐸、およびその鋳型は、前述の朝鮮式銅鐸と比べ、いくらか大型化はしたものの、何れも寸法は約20~50㎝程度であり、装飾性も朝鮮式銅鐸と同様に乏しい。その後、当九州北部地域での銅鐸は、更なる大型化、高装飾化することはなく、銅鐸を用いた祭祀自体が、おそらくは1世紀末頃迄には廃れ、それに代わり、銅矛や銅剣を祭器として祀る文化が主流となっていたことが出土遺物によって示される。

九州北部地域をはじめ西日本各地にて出土している、ごく初期の小型で装飾性の乏しい銅鐸は、本来の用途である「鐸」からあまり逸脱せず「鳴らす」機能を重視していると推察されることから、さきの特徴(小型・低装飾)を持つ銅鐸は、「聞く銅鐸」として分類される。

これら「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)は、西日本各地にて出土しているものの、古くから大陸文化の受け入れ口であった九州北部地域においては、特に「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)のみの出土であることは興味深いと云える。これが示唆することは、さきにも少し触れたが、当初、当地域では、銅鐸を祭器とした祭祀文化が存在したものの、その文化はやがて廃れ、他の青銅製祭器である銅剣や銅矛を祀る文化へと変化していったということである。

他方、同時期の九州北部以外の西日本においては、銅鐸を用いる祭祀文化はさらに広がり、1世紀末頃になると、鋳造技術の発展により、大型にて装飾性の高い銅鐸の作成が可能となり、盛んに作られるようになった。そして、この時期以降に作成された大型で高装飾の銅鐸は、より視覚的な効果に重点を置いたと思しきことから、さきの「聞く銅鐸」に対して「見る銅鐸」として分類される。

そして、この「見る銅鐸」(後期・大型・高装飾)は、それらを特徴付ける意匠・デザインから、「近畿式」と「三遠式」に大きく分類される。

「近畿式」銅鐸は、おそらく大和・河内・摂津地域にて作成され、もう一つの「三遠式」は濃尾平野にて作成されたと考えられている。

さて、「近畿式」「三遠式」銅鐸それぞれの出土分布について「近畿式」は、文字通り近畿圏一帯を中心として、東限は静岡県西部、またその西限は、四国東半地域、山陰地域での出土例がある。
「三遠式」の方は、濃尾平野を中心として、東限は長野県、静岡県西部、また西限については伊勢湾東部、琵琶湖の東岸、そして京都府北部にて出土例がある。

1世紀末頃より作成がはじまったと見られる「近畿式」「三遠式」の双方銅鐸であるが、その後3世紀に入ると、突如として作成されなくなり、また、それを伴う祭祀自体も終焉を迎えたと見られる。その際、銅鐸は集落から少し離れた山(里山)の頂上から少しおりたあたりの山肌の土を掘り埋納されたと思しき出土例が多い。

これは和歌山県を主とする紀伊半島西部での銅鐸の出土例においても同様であり、特に、中紀以南での銅鐸出土例は、概ね、これに類するものであると云える。

そして、銅鐸を用いた祭祀文化が終焉を迎えてから少し後の3世紀半ば頃に、古墳時代を特徴付ける最初の古墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)が造営されることになるが、この一連の様相の変化は大変に示唆的であると云える。

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2021年8月27日金曜日

20210827 既投稿記事をいくつかまとめたもの①

野上彌生子著「迷路」上巻 P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」

上掲引用文に登場する多津枝から、同年代と思われる鹿児島に出自を持つ随筆家の白洲正子を想起された方々もいらっしゃるのではないかとも思われます。ともあれ、現代においては死語になりつつある「熊襲」や「隼人」といった古代の語感を持つコトバから連想されるものは「野生的な強さを持つ辺境部族」と評して良いと思われます。そしてまた同時に、そこからは同部族の女性(蕃女)にまでは想像が至ることは少ないと思われます。むしろ、それとは反対に、熊襲・隼人の地、すなわち、九州の女性全般についての古来からのイメージとは、温和で、男性を立てる、芯の強い女性像といったものになるのではないかと思われます。

こうした読書の際に感じる疑問およびその視点は、その地域を知るための大切なヒントになることが多いと思われます。また、こうした経験から思うことは、地域の文化風土といったものは、実際、その土地にある程度の期間住んでみないと分からないのではないかということです。

そして、それを念頭に置いて頂き、以下の文章に続きます・・。

鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて、鴨がすむ大きな池があったとのことですが、現在、そうした池はありません。私の知る限り、鴨池には、かつては動物園(現在はさらに南に移転した)があり、現在のこの場所には、大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などがあります。

この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばし北上しますと、鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。

かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく、流鏑馬神事が行われていましたが、おそらく、その名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)近隣にある「騎射場」という地名になっているのではないかと思われます。

しかしながら、他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が行われる場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。

他方で「騎射場」(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前に聞いたことがありました。

それは琉球、沖縄での地名、苗字の「喜舎場」(きしゃば)です。

この「喜舎場」の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。この「喜捨」は「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたると云えます。そして、この「功徳」という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に行われる魚や鳥を野に放つ「放生会」神事と共通する要素があるものと考えます。

また、この八幡宮における「放生会」神事の起源は、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦で倒れた隼人の鎮魂の意味で、はじめられたとされています。

これらのことを考えてみますと、鴨池(放生会神事を行うための池)、騎射場≒喜舎(捨)場(功徳を施す場所)、荒田八幡
(放生会神事)が、ごく近隣に存在すること、そして、さらには現代においても、この鴨池に、かつて動物園が存在していたことは大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいは、それらの持つコトバの多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)といったものを示しているのではないかと考えさせられるのです。

そしてまた、この「騎射場」と「喜舎場」との関係に類似した事例として、かつて山口県山口市に存在した鋳銭司(すせんじ)村と、福岡県福岡市西区に存在する周船寺(すせんじ)が挙げられます。

鋳銭司とは、文字通りとも云えますが、7世紀末から10世紀末までの間、朝廷が貨幣製造を行っていた役所の名称であり、双方の「すせんじ」に、かつて、貨幣製造を行っていた役所が存在していたことから、これら地名の名称は同一起源であると思われます。

また、以前、周船寺の方の「すせんじ」付近に在住していた頃、この地名(周船寺)の由来を複数の方々に訊ねてみたところ、その中で多かったのは「周船寺の地名の由来は、当地が糸島半島の東側の付け根にあたり、そこを基点として船で糸島半島を周り、西側の唐津方面に抜けるか、あるいはその地峡に近いという立地から、運河あるいは陸路を用いて西側に抜けるかを選択する、いわば交通の要衝であったことによる。」というものであり、当地域、九州においては、島々の民俗文化にて類似した事例を読んだ記憶があり、また、それは世界的に見ても、バイキングが船を陸路でコロを用いて近くの海あるいは河川へ移動している情景を描いた絵を以前、見た記憶があることから納得できます。

しかしながら最後の「寺」となりますと、豪徳寺、祐天寺などの地名(駅名)の様に同名の寺がそれらの地に存在しなかったことから、やはり、さきに述べましたように、鋳銭司・周船寺(すせんじ)は「かつての貨幣製造所」という解釈にて問題はないと思われます。

さらにまた、もう一つの類似例として、大分県の臼杵(うすき)市、宮崎県北部にかつて存在した臼杵(うすき)郡、鹿児島県鹿児島市の宇宿(うすき)、鹿児島県奄美市(奄美大島)の宇宿(うしゅく)が挙げられます。かつて、鹿児島県鹿児島市の宇宿周辺に在住時、親戚が仕事のため愛媛県松山市に在住しており、所用にて北部九州、山陽方面に行く機会がありますと、立ち寄らせて頂きました。そして、松山からの帰路は、JR予讃線にて松山から八幡浜に行き、そこからフェリーに乗り、右手に発電用の大きな風車の立ち並ぶ佐田岬半島を眺め豊後水道、豊予海峡を渡り、臼杵(うすき)港に着き、そこからJR臼杵(うすき)駅まで歩き、日豊本線に乗り南下し、そして指宿枕崎線の宇宿駅に帰着下車して帰宅するといった具合でした。

フェリーを下りて着いたJR日豊本線の臼杵駅にて切符を購入する際、はじめ「宇宿(うすき)まで一枚ください」と駅員さんに伝えたところ、怪訝な顔をされてしまったことから「・・すいません、指宿枕崎線の宇宿まで一枚ください」と云い直したことが、ここで思い出されます・・。

ここ大分県の臼杵は、かつて大友氏のもとで繁栄し、戦国末期には宣教師のフランシスコ・ザビエルも訪れ、布教活動を行っていたと伝えられています。そのまた一方で、臼杵は仏教遺跡である磨崖仏にて全国的に知られています。ちなみに磨崖仏は、鹿児島においても南九州市の川辺や鹿児島市の慈眼寺などでその存在が知られています。鹿児島での磨崖仏の起源を考えてみますと、古来より薩摩・大隅地域では豊の国(現在の大分)からの移民が多かったことから、これら磨崖仏も、その多くは豊の国(現在の大分県)から移民してきた方々、あるいは、その子孫の方々によって製作されたものではないかと思われます。

そして、鹿児島(薩摩・大隅)に移住前の大分(豊後国)よりもさらに以前の、これら磨崖仏の起源を考えてみますと、我が国にて磨崖仏を含む、比較的初期の仏像彫刻などが製作された地域の多くは、古くは渡来人が移住してきた場所であり、そうした事情を加味して鹿児島(薩摩・大隅)そして、それ以前の大分(豊後国)での磨崖仏に限定して考えてみますと、それらの作風などから、朝鮮半島南東部の旧「新羅」地域に起源があるように思われますが、これは実際に見聞したわけではなく仮説です。

ともあれ、そうした「きしゃば」にはじまり「すせんじ」そして「うすき」にまで話題が飛び、そこから更にもう少し話題を展開させるため「うすき」の地名の最後につく「き」の意味について考えてみたところ、以下の書籍記述が思い出されました・・。

谷川健一編「地名の話」平凡社刊pp.195‐198より抜粋
「谷川 中野さんは「八幡信仰史の研究」のなかで、宇佐氏とか大神氏とか辛島氏など宇佐八幡の神職の家のことを書いておられますね。その中の大神という名前は大和三輪山の祭祀氏族である大神氏から出たといわれていますが、宇佐八幡の「託宣集」を見ますと、まず辛国の宇豆高島に降臨した八幡神が、次に大和国の膽吹嶺に移ったと書かれています。この膽吹嶺は大和にみつからないのですが、「和名抄」にある大和宇陀郡の伊福郷のことだろうと先生はお考えのようですね。

中野 私は宇陀郡をつぶさに歩いてまいりました。

谷川 私は前から伊福という地名に関心をもっているのですが、「和名抄」にのっている六ケ所の伊福という地名のうち、四カ所が銅鐸出土地なんです。そこで、古代の伊福部という氏族はおそらく鋳銅に関係をもったのじゃないか、と推測をたてましてね。伊福の福は真金吹くとか銅を吹くとかの吹くに相当して、金属を精錬する時に使用するふいごに関係のある語だと思うのです。
それで大和国の膽吹嶺を宇陀郡の伊福郷(現在の大宇陀町)に比定され、またそのとなりの菟田野町の大神という部落を、宇佐に関係のある大神氏の出身地と考えられる中野先生の御説にたいそう関心をもったわけです。じつは大神部落と目と鼻のところにある大沢とか松井という部落には水銀鉱山があり、戦後も採掘していたのですね。現在は採集をやめているようですが、そこで宇佐の八幡神がいったん大和の膽吹嶺に飛んで、また最後は宇佐に帰っていったという伝承も意味深長で、銅とか水銀とかに関係のある技術集団を、大神氏が伴って宇佐にやってきたのか、あるいは大神氏自身がそうした技術をもっていたのか、いろいろと想像してみたくなるのですね。
ところで「託宣集」にもどりますが、いったん大和の膽吹嶺に移った神は、こんどは紀伊国の名草浜に移る、とあります。紀の川下流一体が名草ですね。日前宮のある付近。

中野 そうです。紀伊国と国東・宇佐との往復は極めてはげしかったようです。

谷川 ところで私は昨年国東半島を一周してふしぎに思ったのは、キという言葉のつく地名の多いことです。ざっと見ても堅来・櫛木・岐部・富来・来浦・安岐・杵築など。

中野 ここは古い豪族の育った所で、その姓は紀伊国の紀氏が非常に多いのです。

谷川 それはどういうわけでしょう。

中野 まだはっきりわかりませんが、石清水八幡宮別当紀氏の関係かと考えましたが、もっと前からだと思われる点もあります。とにかく紀氏は紀伊国がもっとも多く、大和・和泉・河内を主とし、山城・美濃などに広がり、紀部になると中国・四国に広がっている。こういうようにみると、海上交通の関係から宇佐・国東にも入ったと思われます。

谷川 「神功紀」に紀直の祖豊耳というのも出てまいりますね。紀氏とトヨが出てくるものでへんな感じがしたことがあります。

中野 国東の古い豪族はほとんど紀氏で、後の八幡宮に所属しているのが多いのです。

谷川 その紀氏は紀州に起源をもっている?

中野 分布からみてもそうだと思います。

谷川 数年前に徳島県南部の海岸を高知県境までたどってみたことがありますが、あそこもキのつく部落が多い。牟岐・木岐・志和岐・由岐というふうに点在しています。今の阿南市の富岡もまえは牛岐といったそうです。この岐の字のつく地名は、海士のばあいも海女のばあいもありますが、例外なく海人部落なんですね。高知県に入りましても、佐喜浜という海女部落だったところがあります。ところで阿波徳島の吉野川の南は昔は長の国と呼ばれて、瀬戸内海における安曇の海人の根拠地だったところですので、この岐の字のつく海人部落も安曇氏と関係があるかな、と考えたことがあるのです。そこで最初おっしゃった豊前・豊後の安曇氏と海部の関係のことが気になるのですが・・・。」

そしてもう一つ、地名の最後につく「き」についての書籍記述が思い出されました。記述の対象となる時代は、さきの「地名の話」内記述の方が新しく、以下記述の方は、おそらくは朝廷以前の時代も含み、そしてまた、我が国の歴史の起源についても触れるものであり、その冷静な書きぶりからはうって変わって躍動する知性が感じられます。

金関丈夫著 大林太良編 岩波書店刊「木馬と石牛」pp.59‐61より抜粋
「日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。」

上掲記述の最後に、詳細な再検討は必要としながらも「それら地名と、その背後にある文化の起源は南方にあるのではないか」と結んでいましたが、ここで民俗学者・言語学者として知られている琉球に出自を持つ伊波普猷による以下の地名、およびその意味についての記述が思い出されました。

岩波書店刊 伊波普猷著 外間守善校訂 『古琉球』pp.58-59より抜粋引用
「琉球語では城のことをグスクというが、八重山では石垣で囲うた所をグスクといっている。金沢(庄三郎)博士がかつて沖縄教育会で述べられた演説の一節に、このグスクということばは、沖縄人が大和民族であることを証する好材料となるのであります。朝鮮の古語では村のことをスキ村主のことをスクリ(宿禰と同意義)と申します。この言葉は日本語にも這入って日本の位の名にもなっていたのでありますが、それと同意義の言葉が日本語では城と書いてシキと読んでおります。大和の地名にシキという所がありますが、またシキシマ(敷島)という日本国の名にもなっています。シキは城ということになります。シキという言葉を研究して見ると先ず二つに分けることが出来ます。シは住むという意味で、キは囲の中という意味であります。即ち囲の中に住むという意になります。(中略)然らば日本語でシキ朝鮮語でスキという事は一体どういう所を指してそういうたのであるかというと、高い所にあって石の壁で取囲まれている所という意味であります。(中略)それで日本語のシキも朝鮮語のスキも琉球語のスクも皆城壁という意味であります。是らの名詞で、正鵠を得た判断が出来るので、沖縄は敷島即ち日本の一部分であるという事は争うべからざる事実であります。歴史がなくとも、伝説がなくとも、記録がなくとも、神話がなくとも、沖縄人の祖先は日本人のそれと同じくシキの中に住んでいた事が証明されます。という事であったが、アマミキヨ種族は沖縄島に上陸して後もグスクを築いてその中にいたのである。(グスクのグは敬語である。)佐敷はもと「狭いスキ」または「小さいスキ」ということで、これはその地勢から考えてもなるほどと思われる。(佐敷という地名は熊本辺にもあるのである。)これらは皆沖縄人の祖先が北方の同胞と共同なる根源地に住していた事を証明する好材料である。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
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2021年8月17日火曜日

20210817 「20170419 具象よりも抽象の方が時としてより写実的・・観念的?【600記事到達】」の加筆修正

以前、当ブログに述べました通り、本格的に暖かくなる前に600記事に到達することができました。本日からしばらくの間、記事作成を休もうと考えていましたが、PCの前に座り、閲覧者数や読まれた記事などを眺めますと、不思議なことに、また何か書いてみたいと思い始めるのです・・(苦笑)。

さて、以前に何度かブログ記事の題材とした「銅鐸」に関してですが、和歌山県を主とする紀伊半島での銅鐸の出土傾向は、比較的大きな河川があり、水稲耕作の可耕面積が広く、人口が多かったと考えられる半島北部(紀北地域)に数が少なく、また、その様式は比較的古い、小・中型(~50㎝程度)のものが多いと云えます。それが半島を南下するに伴い、紀伊半島の地形からも想像出来るように、河川流域の可耕面積は狭小化し、人口も紀北地域ほどに多いとは考えにくい中・南紀地域においては、新様式の大型(100㎝前後)のものが数多く出土しています。

銅鐸をはじめ青銅器が我が国に齎された紀元前2~3世紀の弥生時代中期頃は、鋳造技術も発展途上にあり、初期に作成された銅鐸の鋳型は石を彫り、削ったものであり、そのため、大型のものは作成が困難でしたが、その後、鋳型材に砂を用いて作成するようになってからは随意に大型のものも鋳造することが可能になり、また、その作成数も多くなっていきました。

こうした技術発展の様相と、さきに述べた紀伊半島における地域毎の銅鐸出土傾向とを勘案してみますと、当地における銅鐸を祀る文化を持つ水稲耕作民集団の伝播(開拓・入植)様相の概要を理解出来るのではないかと思われます。また、さきにも述べましたが、初期の銅鐸は石製の鋳型を用いていたことから、同一の鋳型にて複数の銅鐸が作成されることが多々あり、そうした同一鋳型にて作成された銅鐸が出土した紀伊半島とは異なった地域にて出土していることなども加味して検討してみますと、その当時、いわば統一に向かう過程にある我が国様相の一面をも理解することが出来るのではないかとも思われます。

そして、これまでに述べたことを博物館や書籍掲載での写真がある、出土銅鐸全てについて、ある程度行って見慣れてきますと、大体は、あるいは間違っていても、その理由を説明できる程度には、個々銅鐸の出土地域および作成年代などに見当を付けることが出来るようにはなると思われます。

さらに、こうしたことは銅鐸のみならず石器、土器、墳墓、他の青銅製祭器(銅鏡、銅矛、銅剣、銅戈など)、古墳造営様式、あるいはその他の生活道具などにも同様に応用することが可能であると思われます。

そうした見方にある程度慣れてきますと、更なる興味対象へと意識の変化が生じ、具体的に存在する遺物から、その地域、国などの性質、特徴などといった観念的な要素への興味に至ることが少なからずあるのではないかと思われます。

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2021年5月24日月曜日

20210524 センサーの劣化と諺「転石苔むさず」について・・

 おかげさまで一昨日投稿の「特徴的な地域の歴史背景について」は、投稿後二日目にしては比較的多くの方々(50人以上)に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

地域の古くからの伝統には、それぞれ固有の価値があると考えていますが、鹿児島と同様、和歌山のそれも首都圏出身の私からしますと、大変興味を惹くものであり、また、そうしたことを在住期間の中で強く感じたことから、それまでの興味の方向性から変化していったのだと云えます。

あるいは異言しますと、当時の生活の中で感じ得る和歌山の文化全般とは、驚きに満ち、興味を惹くに足るものであり、さらに、それらの歴史的背景を書籍などを通じて、どうにか知るうちに、徐々にそれら(実体験と書籍からの知識)が化合し、新たな、その地域、さらには我が国に対する価値観・感覚のようなものが形成されていったということになります。

それまでの私の自国の歴史に対する興味は、概ね16・17そして19・20世紀に集中していましたが、和歌山での生活によって、紀元前後あたりの弥生時代から古墳そして飛鳥時代の7世紀末頃までについても、地域の歴史を基軸として興味を持つに至りました。

そして、その端緒を明らかにすべく、記憶を辿りますと、それは一つではなく、たとえば、勤務していた白良荘グランドホテル近くの熊野三所神社境内にある火雨塚古墳、あるいは、休日の一人サイクリングにて迷い込んだ場所にあった古くからの祭祀遺構、そして、その付近にて銅鐸が出土していることを書籍から知ったこと、などであったと云えます。

当時は、そうしたことに対して自然に好奇心が刺激され、驚異の念を抱くことが出来ていましたが、現在の私は、以前にも書きました通り、そうした感性のセンサーはいくらか有意に劣化しているように感じられます・・(苦笑)。

つまり、ある程度大きな感動や驚きを惹起させるような出来事に遭遇することが少なくなったと云えるのですが、これは自分次第で再度、センサーの感度を高めることは出来るものなのでしょうか・・。

おそらく、これが現在の私にくすぶっている問題であると云えますが、これをどうにか解決するためには、能動的に遮二無二動く必要性があるように思われますが、この「能動的に遮二無二動く」こそが「若さ」が為し得る特権であり、これをある種の諦念のようなもので止めてしまうと「落着き」は得られるのかもしれませんが、他方で、若さに因る感性の瑞々しさは、減衰していってしまうのではないかと思われます。諺に云う「転石苔むさず」といったところです。

そういえば、この「転石苔むさず」は「A rolling stone gathers no moss.」の和訳ですが、それが意味するところは、同じ英語圏でも英国と米国にて異なるようであり、そこから、それぞれのお国柄のようなものが察せられます。私としては、活発に動くことを佳しとする意味の方に共感を覚えるところですが、同時に、さきに述べた事情から、そうも云い辛くなってきているのが現状と云えるのかもしれません・・(苦笑)。

また、そうしたことを考えてみますと、現在の我が国においても、この「転石苔むさず」の諺は、何やら感慨深いものであり、あるいは、1945年から現在に至るまでの戦後社会において解釈される、その意味合いの変遷を、さまざまな出版物等を通して検討してみるのも、なかなか面白いのではないかとも思われます・・。くわえて、現在の我が国においては、さきに述べたような「活発さ」そして「感性の瑞々しさ」が求められている状況であると思われますが、しかしながら同時に、国全体が収縮しているとも云える現状においては、それもまたキビしく、さらにそこから、全体的に安心や安全を求める方向性にて諸事進むようになりますと、負のスパイラルのようなものが発動してしまうのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか。

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2021年2月20日土曜日

20210220 食べ物のハナシから始まり、感覚的な才能の仕組みの認識、そして時代精神について

これまでにも何度か書いてきましたが、ここ最近になり、また記事作成が難しく感じられるようになってきました。こうした時は、あまり深く考えずに、とりあえず何かしら書き始めてみるのが良いのではないかと思われ、そして、今回もまた、その伝にて書き始めた次第です。

また、どうしたわけか、一昨日投稿の記事は思いのほか多くの方々に読んで頂き、ボクとしても驚いています。あるいは、何かしら「食べ物」に関しての記事であると閲覧者数が伸びるといった傾向があるのかもしれません。さて、一昨日の記事にてとりあげました「ラーメン二郎」目黒店さまは、以前ボクがほぼ週一にて通っていた10年以上前と変わらずに続いていました。また、店主の方も少しだけ年齢を感じさせはしましたが、ほぼそのままであり、またラーメンの味の方も変わらずに「悪魔的なうまさ」でした・・。こうした継続的な事業が出来ることは、それだけでやはり「気骨」のあらわれであると云え、正直なところ、その「気骨」の1000分の1程度でも、このブログ記事作成に頂きたいと願うところです・・。

そして、実際それを多少なりとも頂くことが出来たのか、今回の記事作成は思いのほかスムーズに進んでいます。また、前回の投稿記事にて学んだことは「何かしら話題となっている食べ物」についての記事は、比較的作成し易く、さらにさきに述べました閲覧者数が伸びる傾向があると思われることです。これは現在スランプ気味のボクにとっては一つの有効な手立てであると云えますが、同時にあまり多用しない方が良いとも思われます。その理由は「食べ物のことを書けることは重要であるかもしれないが、そればかりに頼るようになると、今度は他の抽象的な思索を促すような文章を作成することが困難になる」といった恐れがあるためです。

そういえば、食べ物と云えば「どこに行っても何故だか美味しいお店を見つけてしまう」というある種の才能を持たれている方がいましたが、私はおそらく、その真似は出来ないとは思いますが、同時に、こうした食べ物に関しての記事を書き続けることにより、その才能の「仕組み」については感覚的ではあれ、何となく理解出来るようになるのではと思われるのです。こうした(感覚的な)理解の仕方は科学的でなく、再現可能性がないことから邪道であるとされがちですが、しかし、こうした複数の理解の仕方が真摯な議論を重ねることにより、より普遍性が高まり、科学的と再現可能性を備えた認識・知見に近づいていくのではないでしょうか?

また、そのように考えてみますと、我が国が他国からの文化を取り入れ、それを忠実に真似している段階から、次に、それを自国文化の一つとして認識される段階に入りますと、それは国風化・日本化というのでしょうか、一種独特の変遷を遂げると云えます。それは、その当時の時代背景そして時代精神といったものが作用しているのだと云えますが、まさしくそこに、その時代での「複数の理解の仕方が真摯な議論を重ねる過程」といったものが見えてくるのではないかと思われるのです。

そして、そうやって抽象化・言語化された複数の歴史上事物の変遷過程を調べて行きますと
時々は「あっ!」と驚くような発見もあるのではないかと思われます。そして、こうした
分野横断的な知見の集積そして、さらなる抽象化・言語化が課題先進国とされる我が国の今後において重要ではないかと思われる次第です。

そういえば、先日、臼田篤伸先生より自著であり彩流社刊「銅鐸民族の悲劇」をお送り頂きました。当著作にて描かれている「銅鐸」は、一般的に時代がくだるにつれ大型化・高装飾化していくとされていますが、こうした変遷過程とは、近代に我が国に齎された西洋式軍艦のそれとも類似しており、また結果として銅鐸民族、大日本帝国、双方共に滅びました。そして臼田先生の著書によると、銅鐸民族は滅亡後、天孫族への隷従を余儀なくされ、それは極めて過酷なものであったとのことでした。他方、帝国臣民はその滅亡後、一体、何に対しての隷従を余儀なくされたのでしょうか・・。

より精確な知見を拾い研究を行いますと、少なからぬ相違も見出されると思しきこれら変遷過程ではありますが、こうした文化的事物の変遷過程概要を国内外にて、数多くサンプリングしてみますと、さきに述べた程度の類似性そして、その背景にある共通する歴史の流れ、あるいは時代精神のあり方も見つけることが出来るのではないかと思われてきますが、さて、如何でしょうか?

臼田篤伸先生どうもありがとうございます!
ボクは先生の著作から、お馴染みの江上波夫氏による「騎馬民族征服説」また松本清張氏による、ほぼ同様の御意見、さらに岡正雄氏による「日本民族の古層」などに描かれている歴史像をより具体・明瞭化したものを認識しました。これは昨今も含め、ある種、性善説的描写がされがちな傾向のある我が国の歴史像の対極にあるものとも云え、さらについ先日、当ブログにて引用しました株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」内にある「家畜人ヤプー」をも想起させました・・。

史実をディストピアに近いものとする史観・認識は忌諱されがちですが、他方で、昨今の我が国を鑑みますと、それも「むべなるかな・・」といった思いも残念ながら生じてきます・・。

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2020年12月21日月曜日

20201220 年内作成記事目標の更新から思ったこと

 おかげさまで、前回の記事投稿により総投稿記事数が1440に到達しました。また、以前に、年内での目標記事投稿数を1440と述べましたが、その目標には到達し、次はその目標を1445に更新しようと思います。

年内残り10日あまりにて5記事を追加投稿することは、そこまで困難とは感じられず、また、これまで書き続けている【架空の話】の続きも作成したいと考えています。

この【架空の話】ですが、直近投稿の「其の55」は、投稿後4日にしては、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

他方で、専門職大学の編入試験からKでのアパート探しまでを概ね時系列的に書いた、其の1~其の52から少し時間が進み、GW後、学科にて開催の「飲み方」について書いた「其の53」も、さきと同様、自身の作成記事としては多くの方々に読んで頂いていたことから、次回投稿の【架空の話】は、この「飲み方」(「其の53」)の先を書いてみようと考えています。

しかし同時に、いずれであれ、これらを更に今後、書き進めていくためには、実際に現地を訪れ自身の記憶を励起させるか、あるいは取材的に現地での見聞を更新する必要があるのではないかと思われましたが、現今状況下では、それは叶いませんので、今しばらくは現在の環境下にて書き続けてみようと思います・・。

また、その際に多少役立つと思われたものは、自身の歯科技工学校時代のノートであり、これは先日、本箱の中から探し出しました。

当時、2007年頃の私は、文系院の修士を修了した直後のためか、変に理屈っぽくなっており、一方で、自らの手があまり器用に動かないことに、苛立ちのようなものを覚え、焦燥感のようなものを抱いていました。しかし、そうであっても初めて見聞する歯科医療分野の知識は大変新鮮であり、特に歯科材料学(歯科理工学)は、それまで文系院にて取組んだ、主に紀南地域の地域性検討のための一要素として定めた弥生時代の青銅製祭器「銅鐸」の作成手法が、原理的には、歯科医療分野での合金製歯冠修復物(メタルクラウン)と同じであったことから興味を持ち、自分なりに色々と取組んだ結果、その分野での大学院に歯科技工士として進むことになりました・・。

現在では、こうした歯科技工士の方々がいらっしゃることは知っていますが、当時(2009年)はかなり珍しかったのではないかと思われます・・。あるいは巨視的に見ると、これは一つの社会実験であったのかもしれませんが、その意味においては、私は「失敗した試作機」と云えなくもないです・・(苦笑)。

しかし他方で、そうした背景を持つ人間(そこでは私が歯科技工士であるということは背景の一要素となる。)が、これまたヘンテコにもブログ記事の作成をどうにか5年以上続け、そしてまた、書籍からの抜粋記事が少なからずあるものの、どうにか1400記事程度まで作成出来ていることは、直接的な社会有用性にはあまり寄与していないのかもしれませんが、それでも、何らかの新たな可能性を社会に示唆しているのではないかと、自惚れではありましょうが提示し、主張してみたくもなるのです・・(笑)。

ともあれ、年内に1445記事まで到達出来ればと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



ISBN978-4-263-46420-5

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