戦争の大きな背景には、衰退するオスマン帝国と、それを利用して南下を狙うロシアの野心がある。また、バルカン半島での民族主義運動は、ロシアにとって、同胞スラヴ民族を保護・支援する名目でオスマン帝国領土に介入する好機と考えた。そして、こうした一連のロシアの動向の先には地中海への進出という大きな戦略的野望があった。しかし、それは西欧列強であるフランスや英国からの強い警戒を招くものであり、特に第二帝政時代のフランスのナポレオン3世は、国内での支持を集めるためロシアとの対立を選び、英国はインドへの航路の安全確保のため地中海の安定を最優先とした。こうした背景からフランス・英国共にロシアの更なる南下を阻止するためオスマン帝国側で参戦した。
1853年7月にロシアがオスマン帝国領内に軍を派遣し、バルカン半島への進攻を開始したことで戦争は始まった。当時の西欧列強は、1815年のナポレオン戦争以来のウィーン体制を維持しようと試みたが、この戦争の勃発により、この体制は崩壊した。ロシアの行動は欧州全体の平和を脅かすものとされ、列強間との対立が一気に表面化した。そこで、外交交渉が試みられましたが、ロシアはこれを拒否して戦争へと突き進んだ。
戦場の中心はクリミア半島であった。特にセヴァストポリ攻防戦は、近代的な兵器や塹壕戦が初めて大規模に使用されたことで、新たな戦争の様相を示した。そして、この戦争では70万人以上が命を落とし、また、戦場の不衛生な環境による感染症での戦病死者数も多く、そうした様子は、写真を掲載した新聞によって速やかに本国に知らされ、近代的な戦争の残酷さが浮き彫りになった。フローレンス・ナイチンゲールは、この戦争を通じて看護活動の重要性を世界に示し、後の近代的な医療制度の基礎を築いた。
1856年、パリ条約によって戦争は終結した。この条約によりロシアは黒海での軍事力を制限され、領土の割譲を強いられた。結果とし欧州諸国の勢力均衡は再編されて、ロシアの影響力は一時的に後退した。一方で、英国とフランスが中心となる、新たなパワーバランスが形成された。
クリミア戦争は近代化された戦争を象徴する出来事であり、同時に国際社会のパワー・バランスを変えた。この戦争からの教訓は、工業化を経た近代の戦争がいかに破壊的であり、また、医療体制がいかに重要かを示している。さらに、国際関係では、列強諸国が新たな勢力均衡を模索するきっかけにもなった。そして、この戦争による影響は、現在なおも続いている第二次宇露戦争の経緯や帰趨を考えるする上においても重要であると云える。
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