2026年6月7日日曜日

20260607 法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』 pp.400‐405より抜粋

法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』
pp.400‐405より抜粋
ISBN-10:4588920022
ISBN-13:978-4588920028.

第六章 雨乞儀礼の諸相第一節 雨乞と動物供犠

(一)箕面の滝の祈雨
 大阪府立図書館に『名杖探葦』(曉隣蟻士著、安永七年序)と題する一部の写本がある。著者については知るところがないが、大坂内外に杖を索いて名勝を探った紀行文集である。その中に北摂箕面の滝(大阪府箕面市)について次のような記事がある。
 滝の肩に竜穴あり。その深きこと人是を計るに知れず、土民雨を祈るに白馬の首を切て竜穴を穢すに忽大雨すといへり。
 今から十数年前、箕面市粟生の古老から、昔雨乞に白馬の首を切って箕面の滝に入れたという話を聞いたことがある。しかし、実際にこのような雨乞行事があったものかどうか。これについてなお疑問なきを得なかったが、先年世に出た『箕面全史』の「史料篇六」に載せられた「嘉永六年旱魃記録」を見るに及んで、この雨乞法が実際に行われていたことが明らかになった。その記事を次に紹介してみよう。
 嘉永六年(一八五三)の大旱にこの地方は水不足に苦しみ、六月に十七日には箕面川の瀬掘りをして、わずかに川に残る水を田に入れたが、七月一日には終いに雨乞の相談となった。氏神で神籤を引き妙見山(大阪府豊能郡能勢町)か都の東寺の弘法さまか、どちらに効があるかを伺ったところ、大師と出たので東寺へお火を受けに行き、七月三日より七日の間祈祷に務めたが効がなかった。結願の九日の会合に萱野郷から内々、この節幸いに近辺に葦毛の馬が見つかったという話があり、急ぎ相談の上、牧之庄と萱野郷より入用銀を二つ割で出すこととし、十日には早速この馬を買いに行った。その晩に双方より人足を一人ずつ出し、初夜頃この馬を箕面山上に曳いて上り、高い丘の上で馬を刎ね、胴体ばかり萱野郷の山谷に蹴落として隠しておき、首を雄滝に漬けた。この費用には馬代六両、人足代二両のほか雑費三貫七百文を要した。これほどまでにしたのに何の感応もなく、翌日少し曇っただけであったとある。
 箕面の滝は今でこそ市民の遊楽地であるが、貝原益軒の『有馬温泉之記』に、滝道が危険なので見物を見合せたとあるように、以前は容易に近づきがたい山中の神秘な滝であった。その下にある竜安寺は役行者開基と伝える修験の霊場であったが、『元亨釈書』(卷一五)には行者が夢中にこの滝口より入って竜樹大師に渇したという話を伝え、また『古今著聞集』(巻二)には平等院の僧正行尊が箕面山に三箇月籠っていた時、夢に竜宮に到り如意宝珠を得たという話のあるのも、やはりこの滝に竜宮の入口があると信ぜられていたからであろうか。『摂陽群談』に、箕面の滝に竜穴ありと記し、近世の「竜安寺秘密縁起」(『箕面市史』史料篇六所収)にも「滝頂上有御窟則竜穴也、其竜錦斑長三丈余、動吐黒雲俄隱於白日」とあり、またこの竜穴に雨乞すれば甘雨忽ちに降るともある。すなわちこの滝は竜神の棲む霊地であり、請雨の地であるとされていたのである。このことは『元亭釈書』(巻四)に応和二年(九六二)の旱りに、当時箕面に庵を結んでいた金竜寺の僧千観が、庵の北方の滝において、手に香炉を捧げて祈禱したら、その煙が上って雨となって降ったとあるところからみて、少なくとも中世以来の信仰であったことが明らかである。


(二)武庫川流域の雨乞
 箕面の滝がこのように祈雨の霊地とされていたことから、上述のような異常な雨乞法が伝承されていたものと考えられるが、北摂ではこの他にも同種の雨乞法の行われていた土地が少なくとも二箇所あった。
 そのうちの一つは、箕面の西、兵庫県宝塚市(旧川辺郡小浜村) 川面で最近まで行われていた雨乞である。昭和十四年八月三十一日の『大阪朝日新聞』に「牛の首で雨乞」と題して、次のような記事が掲げられている。この村では雨乞に武庫川の支流惣川の上流に牛の首を投げ入れる風があり、大正十二年にこれをやって雨を得たというが、八月三十日、豊中市の屠殺場より取り寄せた牛の生首と生血をブリキ缶に入れ「雨請 川面村」と書いた幟を立て、半鐘・太鼓を鳴らし、貝を吹く山伏も加わって約二百人が馬淵に行って雨乞をしたとあってその写真も出ている。川面の古老の話によれば、この雨乞は長尾山字檜王山の奥の谷の山の神を怒らせて雨を降らせるのだそうである。村人が檜王山麓の御坊に集り、寺の鐘、村の半鐘で出発、幟を押し立て、鐘・太鼓で武庫川上流の馬滝の谷(上記馬淵と同所か)に行き、そこの机岩の上に牛の首を祭ると牛の生血を一斗ばかり岩の上に流す。それがすむと一行はさらに谷を遡り馬滝に到り、滝壺の前の石に牛の首を据えて帰った。明治の初年頃までは牛三頭を現場まで連れて行ってそこで首を切ったという。またこの雨乞で降り出した雨が七日間も続く大雨となり、流れて来た牛の首を山中に埋めたらやっと止んだという話もある(昭和四八年調査)。
 同じ武庫川の上流の高座岩でも同種の雨乞の行われたことは『有馬郡誌』(上巻、五七三頁)にみえている。その場所は木ノ元村(現西宮市)の少し上で、巨岩が河中に突出し、上が平たくて座敷のような高座岩で「其儀式は動物の血を塗るにあり、然らばその汚れを厭ひ洗ひ去らんがために雨を降らすといふ。その血は名塩ならば純黒色の犬の血を塗り、武庫川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす」とある。名塩は旧有馬郡塩瀬村、現在は宝塚市に属するが、『西宮市』(巻二)には『塩渓風土略記』なる書を引いて、安永の頃名塩では生瀬川(武庫川上流)の高座岩で黒犬を殺し、その腹を割いて岩の上に血を流したとしている。
 旧川辺郡稲野村、現在の兵庫県伊丹市の昆陽・池尻・山田・野間・南部・堀池ではユゴウという水利組合を結成していたが、このユゴウが一体となって前記の高座岩で同種の雨乞を行っていたことについては『伊丹市史』(巻六、三二六頁以下)に詳細な記事がある。それによると、この雨乞の行われた最終は明治十六年である。この年の大旱に各村の庄屋が集って相談の結果、この雨乞をすることに決し、村の博労が伊勢から白馬を買って来た。はじめは殺すのがかわいそうだと血を少し採って使ったが、効がないので旧例通りにすることになった。すなわち白馬を殺し、血を一滴残さず桶に取り、首を挟箱に入れ、昆陽寺に詣って読経を頼み、読経の続く中で行列を組む。先頭は白裃姿で雨乞の巻物を持って馬で進む。若者仲間が槍を持ってこれを警固する。しかしこの巻物は本物ではなく、本物は商人姿の二人が一足先に持って出る。次いで若者仲間が馬の首の入った挾箱を担いで行く。この後には各村の代表が続く。
 途中で昆陽池を左廻りに廻ってから武庫川を遡る。生類(西宮市)のコーライ岩(前記の高座岩と同じか)に着くと、まず馬の首を取り出して岩の上に置き、白衣の者が経を読む。終ると首をミソ滝の淵に入れる。担いで来た桶の血は岩一面に塗りつける。本来はここまで白馬を曳いて来て白装束の者が首を切り落す式があったという。この行事がすむと、来た時と同じ行列を作って帰るが、途中昆陽池に寄って右廻りに廻った。この時待望の雨が降り出し、大雨となったそうである。この雨乞は今は絶えているが雨乞の巻物二巻は今も伝わっている。また村では毎年盆の十七日に殺された馬の施餓鬼を昆陽寺でしている。なおコーライ岩の下は竜宮に通じていると伝え、そのためこの岩を血で汚すと乙姫さんが怒って雨を降らせ襷がけで岩を洗うという。池田市の『伊居太神社日記』(『池田市史』史料篇三)の文政三年(一八二〇)七月二十三日の条に、この夜昆陽池の池掛り十二箇村の者十五歳以上が皆池の堤に出て雨乞し、その鐘・太鼓の音が夜明けまで聞えた。その上、馬の首を生瀬の奥の滝に漬けに行ったそうで、その験か大雨が降ったという。噂では馬の首代は七匁二分かかったそうだ、と記している。この記事から、この雨乞が少なくとも十九世紀の初頭以来行われて来たことが明らかである。
 武庫川流域では、さらにこの上流地域でも同種の雨乞が行われていたらしい。すなわち三田市(兵庫県) 下田中では大正十二年の雨乞に牛の首を屠殺場でもらって来て、これをヒトモシ山の上で柴とともに昼から夕方までかけて焼いた。灰は臭いがそのままにしておく。神を怒らせるためという(兵庫県立有馬高等学校歴史クラブ『ほくせつ』六号)。同市青野でも、牛を殺し、その首を山上の堂に持って行き、その血を堂に塗ると、神が汚いのを怒って雨を降らせるという(同上書)。
 兵庫県ではもう一箇所、 飾磨郡夢前町でも昔この雨乞が行われた。すなわち夢前川上流のカメガツボと称する甌穴に牛の生首を投げこむと水神の怒りを買って大雨になるという(『夢前町史』九三八頁)。


(三)近畿各地の例
 上記以外の近畿の例としては、まず大阪府で二箇所、箕面市の牧落・西小路・半町等では平尾(箕面市)の前池に牛の首を入れて雨に祈った話と、豊中市長興寺でも牛の首を切って、その血を神社の境内の岩に塗りつけたという話がある。ともに筆者の古老からの伝聞であるが、詳細は明らかではない。
 和歌山県西牟婁郡北富田村(現白浜町)の庄川に牛尾谷(一名牛鬼谷)という滝がある。滝壺は深く、奥に洞穴があり、主がすむという。昔この主の怒りを買って一万石の材木をこの洞穴に吸いとられた話もある。旱魃には「牛の首漬け」といって、牛の首を切って滝壺の棚の上に置き、藤葛で固く結んで背後を見ずに逃げ帰る。すると滝の主が汚れを流すために雨を降らすという。ただしこれはあらゆる手段を試みた後の最後の雨乞法であった(『郷土研究』一卷七号、吉田美穂『熊野雨乞行事』)。雑賀貞次郎『牟婁口碑集』(九四頁)にも同じ話があるが、牛の首は滝壺に投げ込むとある。
 奈良県では『大和志』の添上郡の条に「投牛山、在田村東、昔屠牛祈雨有応、因名」とある。これは単なる伝説とも考えられるが、以上に述べた事実を背景として考えると、やはり牛を殺して雨を祈る習俗が存したものと思われる。
 滋賀県伊香郡余吾町中之郷の池ノ谷に、雨乞に山伏を頼んで七夜の行をする洞穴がある。昔、下余吾の五平という者の母が牛とともにこの穴に入って人身御供となったら雨が降ったという伝えがある(渡辺守順ほか『近江の伝説』五四頁)。この話をも牛供儀の例証とするのは思い過しであろうか。