中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」
pp.154-159より抜粋
ISBN-10 : 412101300X
ISBN-13 : 978-4121013002
いじめ・不登校と父性
弱い者いじめの心理
現在の日本で問題になっているいじめは、残虐で執拗だという特徴を持っている。となるとその背後にはサディスト的な心理があるのではないかと疑ってみたくなる。サドマゾ的な性格は、両親が厳しすぎて、しかも愛情が不足して育った場合に出てきやすい性格である。フランクフルト学派の研究によれば、それは権威主義的な性格と近い関係にある。しかし現代の日本のいじめは、父親が厳しすぎるために出てきたサド的な心理である可能性は少ない。むしろそれは正反対の心理を示しているように思われる。
現在の日本社会のいじめは、いじめる子のフラストレーションの解消に使われているという性質を否定できない。つまりいじめっ子の心の中にはある種の不満が鬱積しており、その不満の解消として、いじめがなされているのである。
不満があると言っても、その不満を子どもたちが自覚しているわけでは決してない。むしろ逆に、その不満は無意識の中に深く抑圧されており、子どもたちはその不満を表現することを許されないのである。その抑圧が直接的でなく、巧妙で心理的であればあるほど、子どもたちはそれに対して反抗することができないで、鬱屈した形で表現せざるをえない。子どもたちは、自分の不満や欠陥といったマイナスのものを表現することを許されていないのである。
「不満のない」子どもたち
今の子どもたちを対象にしたある調査によると、両親に対する満足度を調べたところ、子どもたちの九割が親に満足していると答えた。それを額面どおりに受けると、今の子どもたちはほとんど親に不満を持っていないということになる。
しかし調査の結果を表面的に理解してはならない。子どもたちが両親に不満を持っていないとは、とうてい考えられないからである。私の心理療法の経験から言っても、問題を持つ子どもは誰でも、必ず親に対する不満を持っており、また面接していくと不満を意識化するようになる。子どもたちは決して不満を持っていないのではなく、自覚していないだけなのだ。
ということは、「親に満足している」と答えた子どもたちのかなりの部分が、自分の不満を抑圧しているということになる。あるいは、言い換えれば、巧妙なマインドコントロールのもとにあって、満足だと思いこまされているということになる。それだけ親の心理的な支配が強いのだとも言えるだろう。親と言ったが、じつは支配している親はこの場合母親である。日本の家庭では父が不在で。子どもの教育や面倒は母親が見ている場合が多いからである。つまり子どもたちは母親の強いマインドコントロールのもとにあると言うことができる。「親に満足」だとの答えは、じつは母親に管理されてしまっている子どもの姿を浮かびあがらせているとも見ることができよう。
少し古いが、一九八七年に武蔵野市が行った「子どもの生活実態調査」によると、「お父さんとの間はうまくいっていますか」との質問に、中学生の場合「とてもうまくいっている」が二六・七パーセント、「かなりうまくいっている」が二四・九パーセント、「ややうまくいっている」が二九・一パーセントであった。なんと八割がともかくも「うまくいっている」と感じており、三分の一が「とてもうまくいっている」と思っているのである。これは父親がよほど子どもに「理解のある態度」を示していないと出てこない結果である。父親がきちんとしたしつけをしようとか、なんらかの価値観を教えようとするならば、こういう結果は絶対に出てこない。親子の間の衝突や子どもの反抗という現象がもっと多く起きるはずである。父と子が見かけ上「うまくいっている」というのはどこか薄気味悪い。よほど現代の父親が「もの分かりがよい」「優しい」「甘い」ということの現れだからである。つまりこの調査結果は、この子どもたちの父親がしつけに参加していないことを表しているのである。
「親に満足している」とか「親とうまくいっている」と思わせているもう一つの理由は、親に対する評価が物質的な面に偏っていることにある。いまの日本では、たいていの家庭は、子どもに世間並みの物質的必要を満たしてやることができる。生活面で子どもに不自由させている親はそう多くない。物質的な条件に関するかぎり、不満がないのは当然である。問題なのは、満足かどうかと質問されたときに、心理面や愛情面について聞かれているとは思わないで、ましてや親の生き方や信念について聞かれているとは思いもしないで、物質的なことを考えて答える者が多いかもしれないことである。もしそうだとしたら、そのこと自体が、母親主導の価値観を示しており、抽象的な理念からの発想がないという意味で父性の欠如を示していると言うことができる。
母性一辺倒のしつけ
父性が関わらないで、母性だけによってしつけがなされると、子どもは細かい日常的な事柄に関しては関心が強くなるが、原理的なことについては関心をなくしていく傾向にある。母性によるしつけは、往々にして自主性や判断力を養わないで、大人の基準から見て得だと思われる目標(受験勉強)に向けて細かく管理して邁進させるという性質を持っている。すでにかなり以前になるが、祖母を刺し殺してしまった高校生の場合にも、祖母が一挙手一投足について干渉することに耐えられなくなって、殺すという極端な反応を示したと考えられる。太母の支配と管理が強すぎると、それから逃れるためには殺人という極端な手段を取るしかないと思い込んでしまうのである。
母親によるしつけは往々にして、原理原則によるよりは、目の前の具体的なことについて細かく管理するという形を取りがちである。我が子の得や安全ばかり考えて、勉強や技術の習得を第一として、正義や勇気や誠実といった抽象的な徳への関心は排除されてしまう。ましてや衝動をコントロールするなどということは、しつけの中に入ってこない。コンプレックスやフラストレーションをコントロールするどころか、それらに左右されやすい人格になっていく傾向にある。
母性支配による正義感の欠如
不満も表せないし、反抗もできないという「満足しているいい子」たちは、じつは自我の弱い、発達の未熟な、フラストレーションを持った子どもたちなのである。だからその子どもたちが、いったんそのフラストレーションを発散させようとすると、自我による抑制もなければ、超自我(父の道徳的規範)による歯止めもない、まったくの無制限で無秩序ないじめ方をすることになる。それはまさに父性不在の母性一辺倒による発達の歪みを示しているのである。
いじめっ子たちがとくにこだわるのが、チクるという行動である。チクるとは、大人に言いつけることである。子どもたちの間では、チクるという行為は最大の罪悪と考えられている。この罪悪感にほとんどの子どもたちが囚われているのは、いじめる子どもたちの支配のイデオロギーにすべての子どもたちが絡め取られていることを意味している。それは逆に言えば、いじめる子どもたちがいかに大人の介入を恐れているかを示している。いや、大人というより、父の論理の介入を恐れているのである。社会規範の基準が持ち込まれ、それによって裁かれることは、彼らにとっては致命的である。彼らの無法を正当化する幼稚な理由づけ(「汚いから」「臭いから」「のろまだから」「ブスだから」等々)が通用しなくなり、まったく別の基準によって裁かれて、悪として断罪されるからである。ということは、彼らは自分たちが父親的な大人の観点からは断罪されるということを承知しているということになる。知ってはいるがやめられない、というところに、無意識の動機の強さと恐ろしさが示されているのである。
直接いじめに加わる子ども以外の子どもたちが、まわりにいて傍観したり、無関心を装ったりするという傾向もまた、父性の不足を示している。そこには我が身の安全のみを願い、正義や勇気という徳目にはまったく無関心な、母性のマイナス面が支配している。