河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻
pp.79-81より抜粋
ISBN-10 : 4309227368
ISBN-13 : 978-4309227368
歴史が安定した規則に従わず、将来どのような道をたどるか予期できないとしたら、なぜ歴史を学ぶのか?科学の主たる目的は、未来を予測することであるように思える場合が多い。気象学者は明日雨が降るか晴れるか予想することを期待されているし、経済学者は通貨の平価を切り下げると経済危機を避けられる引き起こすかを知っていて当然だし、優れた医師は肺癌の治療には化学療法と放射線療法のどちらのほうが有効かを予見できる、という具合だ。同様に歴史学者は、私たちが祖先の賢明な決断に倣い、誤りを避けられるように、祖先の行動を詳しく調べることを求められる。だが、思いどおりにうまくいくことは、まずない。現在は過去と違い過ぎるからだ。第三次世界大戦が起こったた真似るために、第二次ポエニ戦争におけるハンニバルの戦術を学んでも時間の無駄だ。騎兵戦では成功した戦術も、サイバー戦争ではたいして役に立たないだろう。
もっとも、科学は未来を予測するだけのものではない。どの分野の学者も、私たちの視野を拡げようとすることが多い、それによって私たちの目前に新しい未知を切り拓いてくれる。これは歴史学にはなおさらよく当てはまる。歴史学者はときおり予言を試みるものの(ろくに成功しない)、歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究をするのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ。
私たちは一人残らず、特定の歴史的現実の中に生れ、特定の規範や価値観に支配され、特定の政治経済制度に管理されている。そして、この現実を当り前と考え、それが自然で必然で不変だと思い込んでいる。私たちの世界が偶然の出来事の連鎖で生み出されたことや、歴史が私たちのテクノロジーや政治や社会だけでなく、思考や恐れまでも形作ったことを忘れている。過去の冷たい手が祖先の墓から伸び出てきて、私たちの首根っこをつかみ、視線をたった一つの未来に向けさせる。私たちは生まれた瞬間からその手につかれてているので、それが自分というものの自然で逃れようのない部分であるとばかり思い込んでいる。したがって、身を振りほどき、それ以外の未来を思い描こうとはめったにしない。
歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。
世界を変えようとする運動は、歴史を書き換え、それによって人々が未来を想像し直せるようにすることから始まる場合が多い。労働者にゼネストを行わせることであれ、女性に自分の体の所有権を獲得させることであれ、迫害されている少数者集団に政治的権利を要求させることであれ、あなたが何を望んでいようと、第一歩は彼らの歴史を語り直すことだ。あなたの語る新しい歴史は、次のように説く。「私たちの現状は自然でも永続的でもない。かつて、状況は違っていた。今日、私たちが知っているような不当な世界が誕生したのは、一連の偶然の出来事が起こったからにすぎない。私たちが賢明な行動を取れば、その世界を変え、はるかに良い世界を生み出せる」。だからマルクス主義者は資本主義の歴史を詳述する。フェミニストは家父長制社会の形成について研究する。アフリカ系アメリカ人は奴隷貿易というおぞましい行為を振り返る。彼らは過去を永続させることではなく、過去から解放されることを目指しているのだ。