2024年11月3日日曜日

20241103 有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」 pp.57-60より抜粋

有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」
pp.57-60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861109604
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861109607

 シュンペーターによれば、「変動機構についてのわれわれの理論は、非連続性を強調している。われわれの理論は、いうなれば、発展(evolution)は継続的な革命によって進行する。またはこの過程中には、その特徴の多くを説明する躍動ないし飛躍がある、という見解を採っている」(ibid.:[Ⅰ]236,訳[Ⅱ]337)という。すなわち、シュンペーターは、不可逆的な時間の下で、非連続的で質的な変化が生み出されるという。このような理由からシュンペーターは、「森の輪郭を、ある目的のためには非連続的と呼ぶことと、他の目的のためには連続的と呼ぶことの間に、何の矛盾もないように、それら〔連続性と非連続性〕の間にはなんらの矛盾もない」(ibid.:[Ⅰ]227,訳[Ⅱ]338)と指摘する。

 さらに、シュンペーターは、このように飛躍に基礎付けられた「「発展」とは、経済が自分自身の中から生み出す経済生活の循環のことであり、外部からの衝撃によって動かされた経済の変化ではなく、「自分自身に委ねられた」経済に起こる変化とのみ理解すべきである(Schumpeter[1911]2006:103)という。すなわち、経済の外部からの衝撃によって惹き起こされた変化ではなく、内生的な変化だけを発展として捉えるというのである。

 シュンペーターは、これらの性質のために、「それ〔創造的反応〕はすべての関連した事実を完全に知った観察者の立場から、事後的に理解できるに過ぎない。事前には、実際上、決して理解できない。すなわち、推論の普通のルールでもって、以前から存在する事実から創造的反応を予測することはできない。…創造的反応は、それがないときに出現したであろうような状況とは断絶した状況を創り出す。これがなぜ創造的反応が歴史的過程のなかで本質的要素なのかということの説明である。いかなる決定論的信条(deterministic credo)もこれに対して抗することはできない」(Schumpeter 1991a:411-412,訳336-337:傍点は引用者)と述べる。創造的破壊は、不可逆的な変化であり、事前に予見することができない、内生的で非連続的な質的変化を本質とするのであり、創造的破壊によって生み出される現象は、常に予測することができず、新しいものとなる。

 次に、前述した性質を有するために創造的破壊と創造的進化とは、数学的・微分的方法では捉えることができない。まずベルクソンは、次のように説明している。

 無機の物体の現在の状態は、それに先立つ瞬間の事情にもっぱら左右される。科学が限定し孤立させたシステム内の質的な位置は、それらの質点が直前に占めた位置から決まる。言葉を換えて言えば、有機化されていない物質を支配する法則は、原理的には、(数学者の解する語義での)時間が独立変数の役目をつとめる微分方程式でもってあわらされる。生命に関する法則もそうであろうか。…生命の領域には何ひとつこれに類するものがない。(Bergson[1907]2001:19-20,訳42:傍点は引用者)

 このように、創造性としての生命を微分方程式によっては、説明することができないと述べる。というのも、ベルクソンによれば、微分方程式とは、量的な変動を取り扱うことができるだけであって、質的な変動を取り扱うことができないからである。同様に、シュンペーターも、このような方法によっては、創造的な変化としての発展を捉えることはできないと述べている。

 時間的に無数の小さな歩みを通じて行われる連続的適応によって、小規模の小売店から大規模な、例えば百貨店が形成されるというような連続的変化は生態的考察の対象となる。しかし、最も広い意味での生産の領域における急激な、あるいは一つの計画にしたがって生まれた根本的な変化についてはそうはいかない。なぜなら、静態的考察方法はその微分的方法に基づく手段によって、このような変化の結果を正確に予測することができないばかりでなく、そのような生産革命の発生やそれにともなって現われる現象を明らかにすることができないからである。(Schumpeter 1926b:94-95,訳[上]173:傍点は引用者)

 このように、経済発展の現象は、不可逆的な連続性の相ー不可逆的な時間ーの下における内生的で質的な変化としての飛躍を本質とするために、微分的方法によっては捉えることができない。創造的進化と創造的破壊とは、微分的方法では捉えられない本質を有するという点でも共通しているということができよう。

 最後に、創造的進化においては、「生物は何はともあれ通過点」(Bergson[1907]2001:129,訳160:傍点は引用者)にすぎない。すなわち、それぞれの生物種が「生命のはずみ」を連繋して役割を果たしているのである。進化の主体と考えられるべきものは、無数の個体を生み出しつつも、それらを超えて進む連続的全体としての生命(創造性)ということになる。ベルクソンは、「生命のはずみ」とは、言い換えれば、創造せんとする要求であると述べている。創造的破壊においても、「そのような人間〔企業者〕たちは、ほかになすべきことを知らないために、創造する(schaffen)」(Schumpeter 〔1911〕2006:138)のであり、企業者というものは、「変動機構の担当者」(Schumpeter 1926b:93fn,訳[上]170fn)にすぎない。そして、このような企業者に、次のような症状が現れたならば、それは企業者機能の死ではなく。それを担う人間の死にすぎないとシュンペーターは述べる。

 典型的な企業者というものは、…獲得したものを享楽して喜ぶために生活しているのではない。もしこのような願望が現われたとすれば、それは従来の活動線上の停滞ではなく衰滅であり、〔自己の使命の〕履行ではなく身体的死滅の徴候である。(idid.:137,訳[上]244)

 こうしたことから、経済発展論における企業者とは、創造的進化における生物種と同じように、いわば「創造性」の乗り物としての機能を果たしていると考えることができるかもしれない。すなわち、企業者も単なる通過点の役割を果たしているということができるのではないだろうか。もし、このように考えることができるとするならば、企業者機能であるところの「創造性」は死すべきものとしての個々人を超えるものであるという結構が、「創造性」としての「生命のはずみ」が死すべきものとしての諸生物種を超えたものであるという結構と同じであり、この点においても、共通しているということが言えるであろう。