2024年6月30日日曜日

20240630 株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」 pp.73‐77より抜粋

株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」pp.73‐77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003262026
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003262023

 ブラスクーヒンは、ミハイロフと肩を並べて進みながら、カルーギンと別れていくらか危険の少ない場所へ近づき、やっとやや元気を恢復しかけた時、背後に明るく輝く雷光を見、「臼砲!」と叫ぶ哨兵の声を聞き、うしろからくる兵の一人のー「まっすぐ稜堡へ飛んでくる!」という言葉を耳にした。

 ミハイロフは振返った。爆弾の光る點は、さながらその頂點に、どうにもその方向を見定めることのできないような位置に静止しているように思われた。しかし、それはほんの一瞬間のことであったー爆弾はますます早く、ますます近く飛来して、忽ちのうちに導火線の火元が見え、運命的なうなりが聞えて、まともに大隊の中心へ落ちてきた。

「伏せッ!」と誰かの声が叫んだ。

 ミハイロフとブラスクーヒンは地面へひれ伏した。ブラスクーヒンは眼を閉じながら、ただ爆弾がどこか非常に近いところで音高く堅い地面に打突かるのを聞いただけであった。一時間にも思われた一秒が過ぎた、-爆弾は破裂しなかった。ブラスクーヒンははっと思ったー自分は徒に臆病な態度を見せたのではなかったろうか?ひょっとすると、爆弾は遠くの方へ落ちたので、ただ彼にだけ、導火線がすくそこでしゅうしゅういっているように思われたのかも知れない。彼は眼をあけ、ミハイロフが自分の足もとに身動きもせず地面にへばりついているのを見て、満足を覚えた。けれどもその瞬間に彼の眼は、わが身から三尺とはなれないところでくるくる廻っている爆弾の光る導火線とばったり出会った。

 恐怖、他の一切の思想・感情を押退けてしまうような冷たい恐怖が、彼の全存在をひっつかんだ。彼は両手で顔を蔽った。

 また一秒が経過した、-一秒ではあるがそのあいだに、感情・思想・希望・回想の一大世界が、彼の脳裡をひらめき通った。

 《誰がやられるだろうーおれかミハイロフか、それとも二人一しょか?もしおれだとしたら、どこをやられるだろう?もし頭だったら、万事休すだ。が、もし足だったら、切断される、その時は、ぜひ、クロロホルムをかけてもらおう、そうすれば、おれはまだ生きていられる。が、ひょっとすると、ミハイロフだけがやられるかも知れん-その時はおれが話してやるんだ、二人並んで歩いていたこと、彼がやられて、その血がおれにはねかかったこと。いや、おれの方が近い・・・おれだ!》

 そこで彼は、ミハイロフから借りている二十ルーブリのことを思い出し、さらにまた、もう疾くに拂っていなければならなかった。ペテルブルグでの或る借金のことを思い出した。昨夜自分がうたったジプシイの唄が頭に浮んだ。嘗て愛していた女が、藤色リボンの室内帽をかぶった姿で、彼の想像に現れた。五年前に侮辱を受けたまま、まだその復讐をすましていない男のことが思い出された。尤も同時に、この回想及びその他数十の回想と不可分に、現在の感情ー死の期待ーは、一瞬の間も彼を見棄てないのだった。《だが、ひょっとすると、破裂しないかもしれんぞ。》彼はこう考えて、絶望的決心をもって眼を開こうとした。が、その瞬間早くも、閉じた瞼を通して、真紅な火が彼の眼を打った。そして凄まじい爆音とともに、何かが彼の胸のまんなかをどしんと突いた。彼はいきなり駈け出したが、足にからまる佩剣につまづいて、横倒しに倒れてしまった。

 《ああ有難い!打撲傷だけだ。》これが彼の最初の考えであった。彼は両手で胸にさわってみようとした。が、その手はしばりつけられているようだし、頭は搾木にでもかけられているようであった。頭の中では兵士達がちらちらしたので、彼は無意識にそれを数えたー《一人、二人、三人の兵、それから外套の裾をまいた将校が一人。》と彼は考えるのだった。やがてまた電光が眼に光ったので、彼は、一たい何を射ったのだろうと考えたー臼砲か大砲か?きっと大砲に違いない。ほ、また射ったぞ。ほらまた兵隊がやって来たー五人、六人、七人だ、みんなそばを通っていく。彼は急に。兵士達が自分を踏み潰しはしまいかと、恐ろしくなってきた。彼は自分が打撲傷を受けていることを叫ぼうと思ったが、口がかさかさに乾いて、舌が上顎にねばりついてしまった、そして恐ろしい渇きが彼を苦しめるのであった。彼は胸の辺がいやにじめじめしているのを感じていたがーこの湿った感じが水を思い出させたので、彼はその湿っているものでもいいから飲みたいと思った。《きっと、倒れた時に傷をして出血したんだ。》と彼は考えた。そしていくらかでも続いてそばをかすめ通る兵隊たちが自分を踏み潰しはしまいかという恐怖をますます強く感じ出したので、彼はありたけの力を絞って「連れてってくれ!」と叫ぼうとした。が、叫ぶ代りに、自分で聞くさえ恐ろしくなるような声を出して、うなり出してしまった。やがて、何やら赤い火が眼の中でおどり出して、兵隊どもが自分の上へ石を積み上げているような気がし出した。火のおどりは次第にまばらになったが、からだの上に積まれる石は、ますます強く彼を壓迫した。彼は石をはらいのけるために懸命に身をのばした。途端にもう何ひとつ、見えず、聞こえず、考えず、感じなくなってしまった。彼は弾片を胸のただ中に受けて、その場で即死したのであった。