本日の首都圏は若干気温も上昇し日中は比較的過ごし易かったのではないかと思います。
また、帰宅途中に書店に立ち寄りましたら、面白そうな書籍をまた幾つか見つけました・・。
私の場合、季節によって好んで読む書籍の傾向があるようで、理由は分かりませんが、寒い季節になると思想、哲学分野といった観念的事象を扱った著作を好んで読む傾向があるのではないかと思われます・・。
また、かねてより好んで読んでいた歴史系の著作とは、記述内容の抽象度により思想、哲学にも分類されるものがあります。
そして当初はそれこそ、さまざまな戦記・伝記といった、どちらかというと抽象度の低い著作を好んで読んでおり、また、この時期はかなり長く続きましたが、何時の頃か基本的には同じ歴史を扱ってはいるものの、抽象度が高い思想、哲学にも分類される著作を読むことが出来るようになり、さらにその後、どちらかというと、そちらの方を好むようになっていきました。
しかしながら、こうした思想、哲学に分類されるような著作全般とは、私見として夏の暑い盛りに読むのは困難であると思われるのです・・(苦笑)。
歴史を題材とした思想、哲学といった抽象度の高い著作一般とは書かれている内容が指し示す歴史の流れ、出来事が多岐に渡り、あるいは重層的、多義的であることが多いと云い得ます。
そのような著作とは、読解において、自身の持つ様々な歴史の流れをその都度適用して考えなければならないため、少なくとも当初においては、それなりに面倒な思考作業であるといえます。
ともあれ、それも読み進むに伴い、著者の述べたい歴史の流れのモデルが概容として理解、把握出来てきますと、徐徐に読み進むスピードが速くなっていく傾向があります。
こうした一連の流れ、過程とは、様々な機器のチューニング作業あるいは顕微鏡観察のピントを合わせる作業などとも幾分類似しているのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?
そして、上記のような過程により歴史を抽象、観念的に理解できる(と考える)ようになりますと、今度はそればかりに偏り、歴史の流れを把握する基礎となる文献、遺物、遺跡といったものの把握、理解が疎かになることもまた少なからずあるようです・・(苦笑)。
そして、こうした現象を『観念的』あるいは竹山道雄が述べるところに従えば『歴史の演繹的な理解』と評されるのではないかと思われます。
また、こうした視座つまり、ある前提となる観念的な定立に基づく(演繹的な)事物の把握、理解とは、その多くが間違った結論に至るとのとですが、この意見は自身の経験にも基づき妥当であると判断されます。
それ故、ハナシをふりだしに戻して考えてみますと、現在未だ寒いといえる季節において観念的著作を読むことを好んでいるものの、今後季節が春になりますと、実際に存在する事物に対しての興味へとまた移行するのではないかと思われます・・。
また、その時こそ、冬季に読んだ観念的著作と実在する事物との間の関連性がひらめき、それを文章として著し指摘することが出来るようになるのではないかとも思われるのです・・。
そして、この考えが単に観念的なものであるかどうかは、訪れる季節およびその時の自身が教えてくれるものといえます・・(笑)。
また最後に自己弁護のために書いておきますと、記述内容の全てにおいて、全くの自己矛盾がないというのもあまり面白くないのではないでしょうか・・(笑)?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。