株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 : 4907188552
ISBN-13 : 978-4907188559
ユーゴスラヴィアの戦争は一九九一年から二〇〇一年まで、衝突勢力と地域を変えながら断続的に続いた。その展開はかなり複雑なので、詳しくは専門書を読んでほしい。それでも最低限の知識だけ確認するとすれば、紛争の軸はまずはセルビア民族と他民族の葛藤にあった。
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中心は、名実ともにセルビア社会主義きょうわこくだった。連邦の首都はセルビアの首都であるベオグラードにあったし、面積も人口も最大だった。歴史を遡っても、一九世紀にこの地域の統合で大きな役割を果たしたのはセルビア王国だった。
それゆえ連邦の解体にもっとも強く抵抗したのもセルビアだった。とくにクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二共和国、そしてセルビア共和国内の自治州だったコソヴォには多くのセルビア人が住んでおり、ミロシェヴィッチ政権はそれらの地域が支配から離れることを警戒した。むろんそれは他民族からすれば時代錯誤な「大セルビア主義」の押しつけにほかならない。しかしそれはセルビアからは民族の危機に見えたのだ。
というわけで、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィア人民軍は、彼らの独立を阻止すべく介入を始めた。スロヴェニアにはあまりセルビア人がいなかったので、戦闘は一〇日で終わった。けれどもクロアチアでの戦闘は、いま記した理由でたいへん長引くことになる。
翌年の一九九二年には隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言し、連邦はそちらにも介入し始めた。人民軍は両国でセルビア人が結成した民兵組織を支援し、大規模な戦闘を展開した。その過程でのちに紹介する「サラェヴォ包囲」も行われた。クロアチアでの戦争は一九九五年一一月まで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争は一九九五年一二月まで続き、多くの歴史ある町が廃墟になり、あちこちで「民族浄化」が行われた。
民族浄化は、虐殺や迫害や強姦などの手段を用い、特定の地域から特定の民族以外を排除して民族構成を純粋化すなわち「浄化」することを意味する言葉である。この言葉そのものがユーゴスラヴィア紛争のなかで生まれた。民族浄化の展開は当時の欧米メディアで積極的に報道され、二〇世紀も末になってヨーロッパでまだこんな残酷なことが行われているのかと驚きをもって受け止められた。それは、二〇二二年二月にロシアがウクライナに侵攻したとき、二一世紀にもなってヨーロッパでまだこんな大規模な戦争が起こるのかと驚かれたこととよく似ている。
クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争が終わったあと、一九九八年から九九年にかけては、こんどは南セルビアのコソヴォが紛争の舞台となった。コソヴォも一九九一年に独立を宣言していたが、ミロシェヴィッチ政権はそれを抑え込み続けていた。しかしアルバニア人の民兵組織が力をつけ、一九九八年についに政府軍と本格的に衝突し始めたのである。こちらでも凄惨な民族浄化が展開され、セルビア人とアルバニア人双方で多数の難民が発生した。NATOがその戦争を止めるために空爆に踏み切ったのは、さきほども記したとおりだ。
空爆の結果、ミロシェヴィッチ政権はコソヴォから軍を引き上げ、かわりにNATO主導の治安維持部隊が進駐した。とはいえ、紛争の余波はセルビアとコソヴォの境界付近や隣のマケドニアで続き、二〇〇一年になってようやく事態は安定することになる。
ユーゴスラヴィア紛争とはこのようなできごとだった。この一連の戦争は、当時、第二次大戦後のヨーロッパで展開されたもっとも大規模な紛争だった。死者と行方不明者は一〇万人にのぼり、難民と国内避難民をあわせて二〇〇万人を越えた[★3]。その傷跡はいまもあちこちに残っている。
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 : 4907188552
ISBN-13 : 978-4907188559
ユーゴスラヴィアの戦争は一九九一年から二〇〇一年まで、衝突勢力と地域を変えながら断続的に続いた。その展開はかなり複雑なので、詳しくは専門書を読んでほしい。それでも最低限の知識だけ確認するとすれば、紛争の軸はまずはセルビア民族と他民族の葛藤にあった。
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中心は、名実ともにセルビア社会主義きょうわこくだった。連邦の首都はセルビアの首都であるベオグラードにあったし、面積も人口も最大だった。歴史を遡っても、一九世紀にこの地域の統合で大きな役割を果たしたのはセルビア王国だった。
それゆえ連邦の解体にもっとも強く抵抗したのもセルビアだった。とくにクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二共和国、そしてセルビア共和国内の自治州だったコソヴォには多くのセルビア人が住んでおり、ミロシェヴィッチ政権はそれらの地域が支配から離れることを警戒した。むろんそれは他民族からすれば時代錯誤な「大セルビア主義」の押しつけにほかならない。しかしそれはセルビアからは民族の危機に見えたのだ。
というわけで、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィア人民軍は、彼らの独立を阻止すべく介入を始めた。スロヴェニアにはあまりセルビア人がいなかったので、戦闘は一〇日で終わった。けれどもクロアチアでの戦闘は、いま記した理由でたいへん長引くことになる。
翌年の一九九二年には隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言し、連邦はそちらにも介入し始めた。人民軍は両国でセルビア人が結成した民兵組織を支援し、大規模な戦闘を展開した。その過程でのちに紹介する「サラェヴォ包囲」も行われた。クロアチアでの戦争は一九九五年一一月まで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争は一九九五年一二月まで続き、多くの歴史ある町が廃墟になり、あちこちで「民族浄化」が行われた。
民族浄化は、虐殺や迫害や強姦などの手段を用い、特定の地域から特定の民族以外を排除して民族構成を純粋化すなわち「浄化」することを意味する言葉である。この言葉そのものがユーゴスラヴィア紛争のなかで生まれた。民族浄化の展開は当時の欧米メディアで積極的に報道され、二〇世紀も末になってヨーロッパでまだこんな残酷なことが行われているのかと驚きをもって受け止められた。それは、二〇二二年二月にロシアがウクライナに侵攻したとき、二一世紀にもなってヨーロッパでまだこんな大規模な戦争が起こるのかと驚かれたこととよく似ている。
クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争が終わったあと、一九九八年から九九年にかけては、こんどは南セルビアのコソヴォが紛争の舞台となった。コソヴォも一九九一年に独立を宣言していたが、ミロシェヴィッチ政権はそれを抑え込み続けていた。しかしアルバニア人の民兵組織が力をつけ、一九九八年についに政府軍と本格的に衝突し始めたのである。こちらでも凄惨な民族浄化が展開され、セルビア人とアルバニア人双方で多数の難民が発生した。NATOがその戦争を止めるために空爆に踏み切ったのは、さきほども記したとおりだ。
空爆の結果、ミロシェヴィッチ政権はコソヴォから軍を引き上げ、かわりにNATO主導の治安維持部隊が進駐した。とはいえ、紛争の余波はセルビアとコソヴォの境界付近や隣のマケドニアで続き、二〇〇一年になってようやく事態は安定することになる。
ユーゴスラヴィア紛争とはこのようなできごとだった。この一連の戦争は、当時、第二次大戦後のヨーロッパで展開されたもっとも大規模な紛争だった。死者と行方不明者は一〇万人にのぼり、難民と国内避難民をあわせて二〇〇万人を越えた[★3]。その傷跡はいまもあちこちに残っている。