中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.117-120より抜粋
ヒトラーの原体験は、志願して出征した第一次世界大戦です。英軍と戦い、敗走します。大戦末期には米軍とも遭遇します。敗戦でヒトラーが心に刻んだのは、米英両軍の圧倒的な強さでした。ヒトラーは米英を妬み、憎みます。
心の底にあったのは、対照的に、ドイツの弱さについての悲嘆です。そこから妄想混じりの信念が作られます。
ドイツの最も良質な国民たちは祖国を見限って米国に移民し、米国を豊かにし、戦争になれば兵士となって祖国を負かしにやってくる。彼らが祖国から出て行くのは、領土の不足するドイツには自分たちを養う余地がないと判断するからだ。最良のドイツ人の流出をくい止める喫緊の対策は、東欧にドイツの「生存圏」を確保することだー。
この東方拡大はヒトラーの対ソ観も反映していました。ヒトラーの目には、ソ連は帝政ロシア崩壊の混乱を引きずり、共産主義という病に患っているように映じたのです。ソ連は軍事的脅威ではなく、ドイツの東方拡大の支障にはならないだろう、と。
ドイツには米英を負かす力はありません。そのことはヒトラーも承知していました。当初は英国に対し、帝国主義を認める代わりに、ドイツの東欧支配・生存圏確保を認めさせる腹積もりでした。結局、ドイツは英国と対立し、1939年、ポーランドに侵攻します。「手術しなければ死が必至となる場合、成功の確率が5%でも手術は受ける」という物言いをヒトラーはしています。その後は坂道を転がるように、北欧、フランス、バルカン半島、北アフリカ、ソ連などへ戦線を広げることになります。
話は前後しますが、ヒトラーは30年代後半、日本の戦略的重要性に気付きます。日本の存在によって米英の注意が極東にそれることを期待します。そうなれば、欧州戦線でドイツは有利になる。ヒトラーはドイツと日本、そしてイタリアを一つにまとめる理屈を見出します。世界は米英を中心とする「(富を)持つ国」と独日伊に代表される「持たない」国に分裂し、対立しているー。
ヒトラーの戦略的過ちはソ連の力を極めて過少に評価したことです。
日本の41年の対米英開戦を受けて、米国が参戦した結果、ヒトラーの憂慮は現実のものになりました。欧州の空と陸で米軍を指揮した二人の司令官はいずれもドイツ系移民の子孫でした。ヒトラーは45年4月、敗戦を覚悟して自殺します。
今日、「持つもの」と「持たないもの」を分断する、グローバル資本主義のあり方に批判があるまり、反ユダヤ主義が再び台頭しています。移民問題も深刻です、ポピュリストらの主張に耳を貸すと、ヒトラー流の言説が響いてきます。ヒトラーの影が現代まで伸びてきているとの印象を受けます。私たちはこれからも不断にヒトラーを打ち負かす必要があるのです。
45年以降、欧州の平和は三つの事業で保たれてきました。第一はナチスドイツの打倒です。これは米英とソ連が主体になりました。第二は東西冷戦下でのソ連の介入の阻止。これは米英、特に米国が北大西洋条約機構(NATO)を組織して実現しました。第三は欧州諸国間の戦争の否定です。これは仏独を核とした欧州統合という枠組みで実現しました。このうち平和の構築と維持に最も貢献したのはNATOです。2012年のノーベル平和賞はEUに与えられましたが、本来ならNATOです。ただ、米国はオバマ前政権以来、欧州関与を減じています。
私の見果てぬ夢はEUが真の平和事業へと進化することです。そのためには政治統合を果たし、軍事力を整えることが必須です。しかし、EUは既に政治統合を放棄しています。
確かにEUは対象国に経済制裁を発動し、罰を与えることはできますが、例えばロシアを抑止するような政治力・軍事力は持ち合わせていません。EUは威圧できません。私見では、単独の国家として威圧できるのは英国だけです。
ドイツは経済大国ですが、軍事小国です。89年の東西冷戦崩壊後、軍事力を更に落としている。軍事的な役割を担うことに極めて臆病です。ここにもヒトラーの影が差しています。ためらう気持ちは理解できますが、欧州の安全保障上、ドイツの振る舞いは問題です。
英国のEU離脱問題を巡り、英国と大陸欧州の関係がねじれています。
欧州側は「英国はEUの外に出れば、国際的な発言力を失う」と主張しますが、英国は歴史的に発言力を維持してきました。欧州側は英国がEUを離脱した場合、早晩、英国の力を必要とするはずです。英国の力を欧州に組み込む、新たな枠組みを見いだせるのか否か、それが欧州側の課題になると私は考えます。