株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋
ISBN-10 : 4163646205ISBN-13 : 978-4163646206
以下の話は、今では私自身、ちょっと気恥ずかしい気持もする。私は最後の引揚船でフィリピンをあとにしたが、昭和17年以来足掛け5年mまず内地軍隊食にはじまり、戦地軍隊食・フィリピン食・ジャングル食(?)・収容所食と、奇妙なものを食べつづけて来た。そしてタタミはもちろんのこと、普通の「日本食」の味も香りも形態も、茶碗も箸も忘れていた。否、内地の軍隊のあおのどんぶり型のアルミ食器と麦飯すら半ば忘れていた。
戦地ではずっと飯盒とその蓋と掛蓋が食器であり、収容所でははじめは缶詰のあき缶であった。後には食器(メスキット)も支給あれ給与もよくなったとはいうものの、毎日のように豆とブタの脂身のきんとんのようなごった煮ーいわば米軍の最低の兵隊食、彼らのいう、黒人のえさ(ニガー・フーズ)の連続で、しかもそれには缶のにおいがついており、しまいにはこの亜鉛か錫のにおいが鼻についてやりきれなかった。しかもそれを、日に三度、雨の日も風の日も、野天に一列に並んで、順番にバケツの中から、おしゃもじのような大きなスプーンで、フライパンを楕円にしたような食器にペタッぺタッと盛ってもらっては、幕舎にもって帰って食べるのが毎日だったわけである。
そういう日々も終って引揚船に乗り、甲板から港を眺めていたとき、輸送指揮官から、輸送本部の仕事を手伝ってくれといわれた。「最後の最後までブツキですかあ、もうまっぴらです」といったものの、結局口説き落とされ「ま、一応本部までは来て下さい」ということになって輸送本部に行った。
何しろ佐世保につくまでに半徹夜ぐらいで処理しなければならない復員事務から、所持軍票の整理やらがあり、また常夏の国から一週間足らずで厳冬の日本に帰るこの人びとのたmr、積み込んできた冬服冬外套の支給も早急にはじめなければならず、相当大変な仕事がまっていた。
もっとも重労働だからということで幾分か優遇され、上甲板に近い復員官の個室の隣の、20畳ぐらいのタタミ部屋が提供されていた。船倉ではとても半徹夜で事務を処理することなどできないからだろう。しかし私は、そういう優遇で仕事をさせられるよりも、船倉で一向かまわないから、ただただ静かに休んでいたかった。しかし、それもならず、最後の最後まで「ブツキ」をやらされることになってしまった。
夕食になった、なるほど特別待遇で、タタミの上に、四角いアルミ盆にのった食事が、船のボーイの手で並べられた。一椀の麦飯、味噌汁、野菜と肉の煮つけであった。全部で十数人だったと思う。何年かぶりのタタミの上での「人間らしい」食事であった。
正座して、まず味噌汁をとった。かすかな湯気とともに、味噌と煮干のにおいが鼻孔に入って来た。その瞬間涙が出て、鼻孔を流れ、湯気といりまじった。味噌汁のにおいで涙を流すなどということは何となく恥ずかしく、照れくさかった。私は歯をくいしばって涙を抑えようとした。しかしそうすればするほど涙はあふれ、目にたまり、手がふるえてきた。味噌汁をこぼさないように、うつむいたまま、湧きあがってくる涙を必死で抑えた。
私はうつむいていたので、ほかの人に気づかなかったから、こういう状態になったのは自分だけかと思っていた。だが、全員が同じだったのである。鼻をすする音がした。やがて一人が耐え切れなくなったように「ムムッ」といってこぶしで涙を拭った。それが合図のようになって、あとは全員、堰を切ったように同時に声をあげて泣きだした。
以上が典型的な「感覚的里心」の発作的激発であろうが、考えてみればこれは異常である。もちろん、こういう感情の激発は一瞬にすぎない。不平不満はすぐに出てきた。三日もしれば、人びとは、「給与だけは収容所の方がよかったな」などと言い出すのである。しかし、そのことと、こういった感覚的な感情の激発が絶えず内在していることとは別である。