よく寝たと思う。
その後車にて高井田横穴墓群(大阪府柏原市)に行く。
JR大和路線の高井田駅から直ぐ近くであった。
横穴墓群近隣在の資料館駐車場に車を停め、見学、写真撮影を行う。
和歌山県和歌山市の岩橋千塚と似ている感じもしたが、これをより洗練させた感じがした。
当横穴墓群は主に6世紀代に造営されたとのことであるが、これは岩橋千塚と時代的に被ると思う。
また丘の頂上には5世紀末頃造営された盟主的存在の初期型横穴式石室を有する古墳があった。
この古墳から火熨斗が出土している。
当時、火熨斗(現在のアイロンの用途)とは、朝鮮半島において高位の女性の持ち物、象徴であったことから、埋葬者は半島に縁のある女性であると見られている。
そしてその古墳周囲の丘陵地に横穴墓群が造営されているのは興味深い現象であり、何やらローレンス・ヴァン・デル・ポストの日本人に関する考察を彷彿とさせる。
察するに当横穴墓群造営集団とは、全体的に半島に出自を持つか縁がある集団であり、また大阪府にて横穴墓群が存在するのはここのみである。
他に横穴墓群が多く見られる地域とは、茨城、千葉、埼玉、神奈川、静岡、福島、熊本といった当時の中心地域から離れた地域である。
当横穴墓群も含めこれら横穴墓群の造営集団とは多分、当時の在来集団とは背景文化的に異質なものであったのであろう。
しかし、これらの集団がそれらの土地に住み着いたのは如何なる理由によるものであったのであろうか?
5世紀後期~末期頃に半島からの移住が盛んであった時期があったのであろうか?
これはより精密な考察がのぞまれるところである。
また、突如それらの土地にこういった横穴墓群が造営されたことも岩橋千塚を髣髴とさせる。
岩橋千塚は主に5~6世紀頃(主に6世紀代)に造営されたものであり、確かその中にわずかではあるものの竪穴式石室構造を有する古墳が存在すると聞いている。
その点からすると若干、岩橋千塚が高井田横穴墓群に時代的に先行しているのではないかと思われる。
そういえば、ここ最近、ワードを用いた記述が以前に比べ楽になってきたと思われる。
また、中井久夫の「アリアドネからの糸」によると、この様にアルファベット変換にて記述の際と手書きとでは、やはり脳に与えるストレスは異なり、やはり手書きの方が持っている思考、観念を率直、素直に記述できるらしい。
これは読んでいて、大事なことであると思った。
そしてその伝で、文字での記録となると、口述筆記が最も楽であると思われるが、これは前述中井によると冗長さが伴うらしいが、これも自身の経験から納得できる。
また、口承記録がある種の観念、ストーリーの繰り返しが多いのはこういったことに因るらしい。また、それに因り大量の暗記を可能にさせるという。
これも納得できる。
しかし歴史における出来事、つまりその解釈による観念、ストーリーに反復、繰り返し生じるという意見に対し、鶏が先か卵が先かといった感じに見解が分かれるであろう。
こういったこと自体が自縄自縛なのであろうか?
そしてそうであるとすれば、未来における可変性およびその選択肢の種類とは、如何なることにより決定、具現化あるいは得ることが出来るのであろうか?
何れにしても文字とはおそろしいものである。