2015年10月22日木曜日

20150523に作製・20151012に加筆訂正・投稿

本日7:40頃起床。
よく寝たと思う。
その後車にて高井田横穴墓群(大阪府柏原市)に行く。
JR大和路線高井田駅から直ぐ近くであった。
横穴墓群近隣在の資料館駐車場に車を停め、見学、写真撮影を行う。
和歌山県和歌山市岩橋千塚と似ている感じもしたが、これをより洗練させた感じがした。
当横穴墓群は主に6世紀代に造営されたとのことであるが、これは岩橋千塚と時代的に被ると思う。
また丘の頂上には5世紀末頃造営された盟主的存在の初期型横穴式石室を有する古墳があった。
この古墳から火熨斗が出土している。
時、火熨斗(現在のアイロンの用途)とは、朝鮮半島において高位の女性の持ち物、象徴であったことから、埋葬者は半島に縁のある女性であると見られている。
そしてその古墳周囲の丘陵地に横穴墓群が造営されているのは興味深い現象であり、何やらローレンス・ヴァン・デル・ポスト日本人に関する考察を彷彿とさせる。
察するに当横穴墓群造営集団とは、全体的に半島に出自を持つか縁がある集団であり、また大阪府にて横穴墓群が存在するのはここのみである。
他に横穴墓群が多く見られる地域とは、茨城、千葉、埼玉、神奈川、静岡、福島、熊本といった当時の中心地域から離れた地域である。
当横穴墓群も含めこれら横穴墓群の造営集団とは多分、当時の在来集団とは背景文化的に異質なものであったのであろう。
しかし、これらの集団がそれらの土地に住み着いたのは如何なる理由によるものであったのであろうか?
5世紀後期~末期頃に半島からの移住が盛んであった時期があったのであろうか?
これはより精密な考察がのぞまれるところである。

また、突如それらの土地にこういった横穴墓群が造営されたことも岩橋千塚を髣髴とさせる。
岩橋千塚は主に5~6世紀頃(主に6世紀代)に造営されたものであり、確かその中にわずかではあるものの竪穴式石室構造を有する古墳が存在すると聞いている。
その点からすると若干、岩橋千塚が高井田横穴墓群に時代的に先行しているのではないかと思われる。

そういえば、ここ最近、ワードを用いた記述が以前に比べ楽になってきたと思われる。
また、中井久夫の「アリアドネからの糸」によると、この様にアルファベット変換にて記述の際と手書きとでは、やはり脳に与えるストレスは異なり、やはり手書きの方が持っている思考、観念を率直、素直に記述できるらしい。
れは読んでいて、大事なことであると思った。
そしてその伝で、文字での記録となると、口述筆記が最も楽であると思われるが、これは前述中井によると冗長さが伴うらしいが、これも自身の経験から納得できる。
また、口承記録がある種の観念、ストーリーの繰り返しが多いのはこういったことに因るらしい。
また、それに因り大量の暗記を可能にさせるという。
これも納得できる。
かし歴史における出来事、つまりその解釈による観念、ストーリーに反復、繰り返し生じるという意見に対し、鶏が先か卵が先かといった感じに見解が分かれるであろう。
こういったこと自体が自縄自縛なのであろうか?
そしてそうであるとすれば、未来における可変性およびその選択肢の種類とは、如何なることにより決定、具現化あるいは得ることが出来るのであろうか?
何れにしても文字とはおそろしいものである。

20151014

B「少しお聞きしますけれども、Aさんから見て私のブログで書籍の抜粋と自身の文章ではどちらの方が面白いものが多いですか?」

A「うーん、私個人の意見としてはBさんの自作の方が面白いと思いますけれども・・一方、書籍の抜粋でも時折面白いと思うのはありますね・・。」

B「はあ、なるほど、そうですか・・。
そういえば私もここ最近、閲覧者数が増え易い投稿とそうでないものがあることが何となく分かってきました。しかしそれがどの様な理由によって生じているのかはイマイチよくわかりません・・。また、たとえその理由が分かったとしても、それに合わせるように投稿内容の傾向を変えるのもまた変であると思いますので、まあ、あまり深く考えずにこのまま続けて行こうと思っています(笑)。」
A「はあ、やはりそういう傾向みたいなものがあるのですね・・。
それで閲覧者の増え易い投稿の特徴とは、一体どの様なものですか?」

B「ええ、現状では実際にそういった傾向があると分かるだけで、その背景に関しての想像やら考察までは出来る状態ではありません残念ながら・・。もしかしたら、まだ投稿のN数が少なすぎるのかもしません・・(笑)。ただ、書籍からの抜粋、自作の文章の何れであれ、自分で「面白い!」と思ったものが案外閲覧者数が伸びず、逆にそこまで面白いとは思わずに、何気なく投稿したものが閲覧者数が伸びたりすることは多々あります。また、時間、日数をかけてジワジワと閲覧者が伸びてくる投稿もありますので、それぞれの投稿は各々独自の性質、個性を持っているようです。さらに閲覧者の層も様々な意味で一定であるかどうかわかりませんので、ここからも先ほどの特徴を一概に決めることは不可能であると思います。しかし一方、こういった一連の状況を概括してみますと、各々の投稿から応力ひずみ曲線によって示される様々な材料の性質の違いを見ているような感じもしてきますね(笑)。」

A「はあ、最後のくだりはよくわかりませんが、そういうのがあるのですか・・。しかし傾向の存在が何となくとはいえ認識できるのでしたら、今度は、その閲覧者の層について想定できる何らかの特徴はあるのですか?」

B「ええ、実際には何かしら特徴はあるとは思います。しかし、先ほどの様に、そういったことを変に意識して、それが心に位置を占めますと、徐々に私がそれに縛られてしまい、自身の乏しい創造性が更に損なわれてしまうのではないかと思います。関係ないかもしれませんが、こういったことを思うと、どうも私は安珍・清姫の伝説を想起してしまうのです(笑)。ちなみにあれは「今昔物語」に収録されているのですが、その祖形、起源は多少に気になるところです・・。まあ、それはさておき、とにかく、あまりそういったことは努めて意識したり考えたりしないようにしています・・。それに根本的にこのブログ自体、閲覧者数を稼ぐためでなく、自身の精神衛生のために始めて続けているものですからね・・。」

A「はあ、そんなものですか・・。安珍・清姫の話は私にはよくわかりませんが、多分同じ様なことはシェイクスピアの「マクベス」にも書かれていたのではないかと思います。まあ、それはともかくとして、御承知とは思いますが、大体どのようなものでもそれを書く時は、読み手を想定するものだとも思いますけれども・・?」

B「ええ、それは一応想定しておりまして、その結果、この言文一致に近い対話形式を用いているのです。これでしたら硬質な文体よりも読み易く、また口語に近い為、様々な表現が可能になるのです。やはりオノマトペは偉大であると思いますよ(笑)。また、それに加えて、この形式に親しんでおくことにより、今後再び硬質な文体への変換の必要性が生じた場合においても比較的容易に移行できるのではないかと考えます。とはいえ、最近応募書類の作成などをしておりますと、どうも賽の河原の石積みを彷彿とさせてきます・・(苦笑)。」(溜息)

A「ああ、それはよくわかります・・。色々と辛いとは思いますが、ここを気力、体力を崩さずにどうにか乗り切ってください。多分、どういう形かはわかりませんが好い事があると思います・・。さて、そういえばBさんのブログ内での対話相手は何人かいるとは思うのですが、その中で割合キチンとした敬語を使っている相手がいると思いますが、これは誰かモデルがいるのですか?」

B「ええ、これにも何人かモデルがおりまして、まあ私から見る年上の研究者のイメージを対話形式の中で具現化したものです。もし、当人が読まれていたら多分お分かりになっていると思います。」
A「はあ、それでそれらの方々と話される時は、実際にブログの対話形式のような話し方で会話をされているのですか?」

B「そうですね・・年上の先生方に対しては私は大体その様な話し方をしていると思います。しかし、それでも普通の会話ですから、感情が入って調子が変わったりすることは、よくありますけれども・・。」

A「はあ、なるほどです。それでブログの対話形式はその会話の内容を思い出して作成しているのですか?」

B「ええ、そうですね。あと、ブログ作成を始めた時期からネタ帳、ノートを作っておりまして、何か思いつくと、これに書き込んでいます。今まで投稿した自作のブログは、大体このノートに元ネタが書いてあり、また書籍の抜粋においても何かあった時にふと思い出したものを書籍名とそのきっかけと共に書き留めています。そして、この思い出した会話とネタ帳の内容を複合してブログの作成を行っています。」

A「ああ、やはり、何かしらネタ帳、ノートがあったのですね・・。それでそのネタはもう既に大分溜まってきましたか?」

B「いやあ、どちらかというと自転車操業ですね(笑)。しかし表現を変えればネタが新鮮ということにもなりますから・・。それに特に大きな必要にも迫られていませんので、今のところ、これでいいのではないかと考えています。それに現在は本箱の底にありますが、昔書いた日記、ノートなどを見れば、またそこからネタは出てくるのではないかとも思います。しかし昔の日記に書かれた考え、意見とは現在読んでみると噴飯もののが高い割合で入っています・・。しかし、そう昔でない当時の私はそれを真剣に考えていたのでしょう・・(苦笑)。」

A「それでしたらBさんは昔から書籍に色々と書き込んだりしていましたが、あれも現在ではネタになるのではないでしょうか?」

B「ああ、そういえばそうですが、書籍への書き込みは現在見てみると、その意図、意味がまったくわからないものから、現在でもよくわかるものから実に多岐に渡ります。しかし、そういうことは研究者の皆さんは行っていることではないのでしょうか?」

A「それは確かにそうですね・・そういえばBさんはもう研究者ではないのですか?」

B「少なくとも現在は違うと思います。また今後も正統な意味でのそれにはならない、あるいはなれないのではないかと思います。そして私の場合、そちらの方が適しているのではないでしょうか・・?私はかなり特殊、キワモノの部類に入ると思いますから・・。この点はあまり悲観、自虐視はしておりませんが・・。ともあれ、それ故、こうしてブログなどを用いて何かしらのアピールを行いながら泥縄的な求職活動を続ける必要があるのではないかなと思っています。また、私にブログ作成を勧めてくれたのも、偶然ながら同時期に複数の方々からでしたが、これも何かしら意味があったのではないかと考えています。
また、こういったよく分からないブログを読んでくださる方々がいらっしゃること自体、現在の私にとって大変ありがたいのです。しかし同時に、このブログで食べて行けるとも行こうとも考えておりませんので、出来るだけ早期に納得できる職に就きたいと考えています・・。」

A「ええ、そうですね・・。早いところ良い職に就くことが出来るといいですね。
とにかく、とりあえず寒くなりますので、体調だけはこわさないようにしてください。」

B「ええ、どうもありがとうございます。そのように気をつけます。
本格的に寒くなる前に納得できる職に就きたいところですね・・。」








20151018 大学院での希望する専攻が変化した理由について【人生万事塞翁が馬?】

A「最近何か変わったことはありましたか?」

B「・・今のところ特にありませんが、タバコを喫うのを止めてから一ヶ月以上経ちました。これははじめの方はなかなか辛かったですが徐々に慣れてきましたね・・。それで思い出したのですが小林秀雄の講演で「タバコをやめた話」というのがありましたけれど、今考えますと確かにあれに通じることがあったように思いますね・・。


A「はあ、禁煙しているのですか・・それは今後も継続すると良いですよ・・。それにしても小林秀雄の講演と通じることとは具体的にどういったことですか?」

B「ええ、それはタバコを吸わないと文章が書けなくなるということです。これは何か関連があるのではないかと私は思います。ですから喫煙が現在よりも肯定されていた時代の作家、文士の写真などを見てみますと、タバコを持っていたり、喫っていたりしているのが圧倒的に多いですよね。そのことから多分タバコは少なくとも文章による創造に対しては何かしら影響するものがあるのではないかと思われるのです・・。」

A「うーん、それはタバコを喫わないもの書きから見れば、喫煙者の言い訳にしか聞こえないけれども、それでも、もしかしたら何かしらの影響があるのかもしれないですね・・・・。しかし、そう考えるとBさんのブログは一ヶ月以上前も自作の対話形式のものがありますが、これらは禁煙以前に書き溜めたものなのですか?」


B「いえ、禁煙を始めた九月初め頃の投稿でも題名が日付のものは基本的に書き溜めておいたものではなく、その時々に作成したものです。このブログは基本的に自転車操業ですから・・(笑)。」

A「・・それでしたら、喫煙と文章の創造性との関連性があるという小林秀雄の講演の内容も、その真偽の程を知りたくなってきますけれども・・?」

B「ええ、確かにそうなりますが、それは書く内容の緻密さ世間への影響、くわえてそれが職業ですから、状況が私とは大分異なるのです。また喫煙に至るまでのストレスの量も大きく違うのではないかと思われます・・。小林秀雄は講演のなかで禁煙をして半年くらいは本当に何も書けなかったと云っていましたので、これらを同列に扱うのは難しいのではないかと思いますが・・しかし、それでも傾向として類似したものが見出されたといった程度のことです・・。」

A「ふーん、もの書きが半年間何も書けないのは確かに辛いものがあるね・・。しかし、そうすると逆にそれだけ創造力に対して影響力を持っていた喫煙に対し興味が湧くし、禁煙をしてからどの様にして再び書ける様になっていったかの内面の推移に対して多少興味がわいてきますね・・。ああ、そうだ!内面の推移と云えば、最近用事があって**大学の近くに行きましたけれど、大分前に君が「**大学のヨーロッパ文化専攻の院に行きたい。」と真剣な顔で私のところに相談に来たことを思い出しましたよ・・(笑)。」

B「いやあ・・・よくそんな前のことを憶えていましたね・・。それは今となっては半分以上忘れかけていました(笑)。」

A「あの時は私もそれなりに真剣に色々と考えてみましたからね・・。」

B「・・ええ、その節は本当にどうもありがとうございました・・。そしてその時にAさんにも「とりあえず三年ぐらい社会で働いてみて、それでも院に行きたかったらまた考えればいいのではないか?」と云われまして「なるほど、そのようなものか・・。」と納得し、それで都合約五年**で働いたわけです。」

A「ああ、そうでしたね。しかし先ほどの内面の推移に関連して面白いと思うのは、当初ヨーロッパ文化専攻に行きたがっていた君が、五年後に地域学でしたか?まあ民俗学に近い様な分野へ、その関心が移ったのは、一体どういう理由からだったのですか?」

B「それは以前Aさんにお話したかもしれませんが・・端的に云いますと南紀での生活が原因ですね。初めて住んだ西日本、紀州の風土、環境に打ちのめされ、魅了されたのだと思います。それまで私は何の疑いもなく東京、首都圏のものが一番良いと思っていたのですが・・。前のブログでも書きましたが、多分、そういった風土、環境に含まれる何かしらの要素から影響を受けたのではないかと思います。また、そこまで話しますと思い出す出来事があるのでお話します。南紀に住み始めて間もない頃、紀伊半島に台風が接近して大雨が降っていたある晩、翌日が休みということもあり、また、はじめて接する南国の大雨に変にテンションが上がってしまい、大雨の中一人で夜のドライブに出かけることにしました。国道42号線から朝来のあたりで311号線に入り、富田川沿いに中辺路、本宮方面に走り、上富田町の鮎川を少し過ぎた辺りでヘッドライトが一匹の大きなカエルを正面から照らし出しました。種類はわかりませんが、当時の私にとってそれは見たこともないような大きなカエルでした・・。私は車を降りて、雨に打たれながら、時折ノドを動かし、やけに落ち着いているこのカエルとしばし対峙していますと、何故だか言い知れぬ畏怖らしきものを感じまして、そのカエルに御辞儀をして、再び車に乗り、来た道を直ぐに戻ることにしました・・。まあ、それだけの話なのですが、あの時は何故だかそうしなければならないと思ったのです・・。ああいう感覚は今では感じませんが、南紀に居た頃は何故だかわかりませんが、時折そういうのを感じました・・。一体ああいう感覚は何なのでしょうかね?しかし、それでも、今となっては特別に紀州に住みたいとは思いませんけれども・・。」

A「そのカエルの話は初めて聞きましたけれど、何だか土着の民話みたいで面白いですね。あるいはまんが日本むかしばなしを彷彿とさせます・・(笑)。それで、その話に何かオチみたいなものはあったのですか?」

B「いえ、オチという程のことでもありませんが、その後知ったのですが、丁度、車を降りた場所あたりから形の良い小さな山が見えまして、この出来事で、私は勝手にこの小さい山をこの地の神奈備山であると考えるようになりました・・(笑)。あとはその後に古代史をある程度勉強してみますと、この上富田町が紀伊半島西側の銅鐸出土地の最南端であることを知り、何だか不思議な偶然を感じました・・・。あとは同じく南紀在住時にサイクリングをしていて迷い込んだ場所が、古来より雨乞いをしていた場所であることをその後勉強をしていた時に知りました・・。この様なことはすべて偶然であり、また、南紀ではこういった伝承、伝説はよく調べれば至る所にありますので、特に不思議ではないのかもしれません。しかし、そういう場所に何回か引き寄せられたことは「もしかしたら何かあるのかしれない・・。」と考えさせるにも十分でしたね。そしてそういったことの意味、内容をその後に考えるための思考の枠組として、先ほどの以前より凝っていたヨーロッパの歴史、文化に関しての知識、考え方などはかなり役に立ったのではないかと思います。
しかしまた、現在では、そういった方法によってのみでしか母国日本の地域学、民俗学に対しても効果的なアプローチできないのかもしれません・・。そしてこれまた小林秀雄ですが、それと同じ様なことを書いていました・・。これは我々明治以降の日本人が持つ悲しい宿命であるのかもしれません・・。」

A「なるほど、それでどうにか話がつながりましたよ。それは人生万事塞翁が馬ということでしょうかね・・?」

B「ええ、そう願うところですが現状ではなかなか辛いものがありますね・・(苦笑)。」

A「まあ、それは分かりますがもう少しがんばってみてはどうですか?」

B「ええ、どうもありがとうございます。そうしてみます・・。」

20151021 自然環境と人間についてを基軸とした雑談

A「最近少し朝晩が寒くなってきましたが、お元気ですか?」

B「ええ、まあどうにかボチボチとやっております。
最近の良い出来事は一日のブログの閲覧者数が300人を越えたことぐらいでしょうかね?つい先日200人を越えたばかりでしたので、これは少し嬉しかったです。」

A「ああ、そうですか、それは良かったですね。そういえば、私も先日Bさんのブログを読ませてもらいましたけれど、それに書いてあった朝鮮人参、高麗人参の話とデンマークのとある地方の風習の話は以前Bさんから聞いたことがあったような気ががしましたけれども・・?」

B「・・・ええ、そうです。あの話はAさんが**に在住時、私が訪ねた際での会話に出たのではないかと思います。
あの時Aさんに日露戦争の時のロシア人捕虜の墓地や高名な**温泉のあの建物なども御案内して頂いて大変楽しかったです。しかし同時に、そこから鹿児島に帰るのに、えらく時間がかかったことも思い出しますね・・。フェリーで豊後水道を渡り九州に渡った後、日豊本線臼杵駅から指宿枕崎線宇宿駅まで行くのは本当に長く感じました(笑)。宮崎駅に着いた時に「こんなに時間が掛かるのか」と思ったくらいでした。確か駅構内のドーナツ店に入り、しばらくボーっとして電車待ちをしていた記憶があります(笑)。」

A「うん、私も宮崎はあまり行ったことがないけれど、あそこは南北に長いから、北と南では大分文化が違うんじゃないかな・・?」

B「ええ、多分そうではないかと思います。また、県南部と云いましても全てが旧薩摩藩文化圏というわけでもなく、日露戦争時の外相である小村寿太郎の出身である県南部に位置する飫肥藩などは、どちらかというと鎌倉時代以来ずっと薩摩の島津に抵抗してきた様なものですから・・っと、まあ、それを云いましたら薩摩と肥後の境にある人吉相良氏などもそうなのですが・・。とにかく、あのあたりの文化圏は現在でも結構複雑なのではないかと思います・・こういうのは、なんだかヨーロッパにおけるスイスみたいな国を想起させますね(笑)。」

A「ああ、小村寿太郎はたしかに飫肥でしたね。そういえば先日読んだ本に書いてあった小村寿太郎の「日本人はとりあえず石を投げればその方向に行くからいい。」というのと戦争直後にマッカーサーが「日本人は12歳の子供である。」と云った内容は案外同じようなことを云っているのではないかなと最近不図思いましたね・・。」

B「ええ、それは多分仰る通りではないかと思います・・。
それで、また話は飫肥に戻るのですが、面白いことにこの飫肥藩の藩主の伊東氏というのは、天正遣欧少年使節の一人、伊東マンショの実家であり、またその元々の出自は静岡の伊東あたりの豪族でして、多分、源平合戦以後の九州にある平家没官領に入植した東国御家人ではないかと思いますが、この地域に土着した経緯なども面白いことに薩摩の島津、人吉の相良氏などと共通しているのではないかと思います。
ですから、あのあたりの武家文化というのは在来土着の南方的色彩の強い隼人文化と、後に移住した鎌倉御家人的な文化が様々な次元で拮抗、混交して出来た、まあ、一種独特、合金的なものであり、さらに云いますと、こういったことは各地方、地域においても同様にいえることではないかと思います。それ故、現在テレビなどで「サムライ」と横文字の発音でかっこよくスマートに云える様なものでは決してないと思うのですけれどもねえ・・。そして現在の我々の社会に見られるそういった傾向こそが先程Aさんの仰った小村寿太郎、マッカーサーの発言につながるのではないかと思うのです・・・。さらにこういった意見、発言を鷹揚に許容できない社会とはトーマス・マンが亡命の地で嘆いたナチス政権下のドイツに近いのではないかと思います。しかしこれは単なる思い過ごし、杞憂であって現在の日本はそこまでひどくはないのかもしれませんが・・・。」

A「うん、なるほどね・・云いたいことはなんとなく分かります。しかし、多くの時代を通じ経済活動などはそういった深度からつき動かされている場合の方が多いのではないかと思いますから、まあ、それはそこまで観念的になり、そして悲観的になることもないと思います。しかし、同時にこの様に「大丈夫ではないかな?」と思っていたら、いつの間にかよくわからない体制になっていることも実際にありますので、君の様に気を付けなければいけないのもまた事実だと思います・・。それにしても飫肥藩の伊東氏は元々静岡の伊東の出身だったのですね・・。それは初耳でした。・・・それでもたしかによく考えてみると四国においても類似した例はありましたね・・。京都の公家が土着して豪族化したものや、先ほどの例と同じく東国の御家人でそうなったのもありました。・・そしてそういった地域における時代文化の層の積層の過程などを調べてみると地域の歴史や文化などもより明確になり、面白いものになってゆくのかもしれませんね・・。」

B「ええ、それはまったく仰るとおりであると思います。
それにしても伊東で思い出すのは以前Aさんとレンタカーで伊豆半島一周したことですね。あれはなかなか面白かったです(笑)。どこでしたか、途中の漁港にある食堂で食べた金目鯛の煮付けと鯵のタタキ(なめろう)はとても美味しかったですね・・。あと、最近知ったのですが、満州事変の時の総理大臣であった若槻禮次郎の別荘が伊東にあった様なのですが御存知でしたか?」

A「いやあ、それは知りませんでしたね。しかし、あの辺りは戦前からそういう人達の別荘が多かった様ですからね。多分、東京に程近く、気候が温暖で、温泉があるからじゃないでしょうかね?」

B「・・なるほどです。ええ、確かに温泉は大事であると思います。私もこれまで何の偶然かわかりませんが、温泉がある場所に多く住んできましたが、今考えてみますと温泉は周辺の自然環境とセットと云いますかパッケージなんですね。
ですから多分、その温泉の泉質が持つ独特の空気、雰囲気がそれぞれの温泉街、地域文化の重要な部分を形成しているのではないかと思います・・。」

A「ええ、そうですね。たしかに温泉の湯気が持つ独特の香りは、その温泉での記憶を想起させますね・・。」

B「ええ、そうです。これを現在の科学技術を用いてリアル、精巧に再現した入浴剤を作ってみたら国内外で結構売れるのではないかと思いますがどうでしょうか・・(笑)。」

A「うん、それは実際に出来るかどうか分からないけれども、面白いかもしれませんね(笑)。」

B「ええ、それでもよく考えてみますと、この温泉とは、火山列島である日本の正の要素であり、そこから日本人の風呂好き、ひいては清潔好きといった特性は、根源的にはここから生じたのではないかとも考えられます・・。そしてさらにそこから精密工業などの清浄性が要求される工業などの発展が促されたのではないかとも思います。その意味において現在の特に首都圏、東京におけるマスク好きの傾向などは、何だかこれまでの日本における自然の恵みに基づいた清浄性の観念とは異なった、あるいは行き過ぎたものに見えてしまうのです・・。自然からの影響の排除を徹底することは、ある意味、自然の一部としての人間性自体を知らず知らずに掘り崩す行為なのではないかとも思えます・・それは結果的に人間を惰弱にし、外来からの侵襲を容易にしてしまうのではないかと思いますが、なんだかH・Gウェルズの「宇宙戦争」のオチみたいですね(笑)。あ、そういえば同じようなことを何処かでバートランド・ラッセルも書いていましたっけ。」

A「うーん、そういったことは私の世代では概ね当たり前のこととして肯定できるけれども、今の都会に住む人々はそういうことをもっともっとシビアにあるいは「科学的に」考えているのではないかな・・?」

B「うーん、そのようなものでしょうかね・・?」