株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.38-43より抜粋
ISBN-10 : 4480434828
ISBN-13 : 978-4480434821
慶長(一六〇〇)年九月十五日午前四時、島津義弘率いる島津隊が関ケ原に到着した。第十六代島津宗家当主・義久は彼の兄、その後継者で次期島津家当主・忠恒(のちの家久)は彼の息子にあたる。
すでに六十六歳となっていた義弘は、当時としては相当な老人であるが、戦場を駆けまわることで鍛え上げた足腰はいまだに衰えを感じさせなかった。
小西行長、宇喜多秀家隊も相次いで顔を揃え、西軍(豊臣方)の陣容はほぼ整った。夜が明けるにつれ昨日から降り続いた雨はほぼ上がったが足下はぬかるみ、霧のために見通しがきわめて悪かった。
午前七時過ぎ、東軍(徳川方)の徳川家康四男・松平忠吉隊と井伊直正隊が宇喜多秀家隊に向い攻撃を仕掛け、いよいよ合戦の火ぶたが落とされた。濃い霧の中、鬨の声や銃声が響き渡り、敵か味方がの区別がつかないまま無数の足音が地面を揺らした。
やがて霧が晴れ、周囲の状況がはっきりとしてきた。
この時、空から関ケ原を見下ろせば、色とりどりの軍旗、指物、馬印が風になびき、華やかな祭りの会場さながらの光景が広がっていたはずだ。
明治初期に陸軍大学校教官として来日したドイツ人のヤーコプ・メッケル少佐が、関ケ原の陣営配置図を見せられると即座に「西軍勝利」の判定を下したという逸話はあまりにも有名である。それほど西軍の布陣は有利であったし、武力においても勝っていた。が、多くの武将の裏切りにより、西軍は敗北を喫した。死闘の裏でひそかに取り交わされるさまざまな駆け引き、関ケ原の戦いは武力と武力の衝突というよりも、知力と謀略に彩られた人間ドラマそのものであった。その多くの登場人物の中でも、最も知力に溢れていたのは、勝者・徳川家康であったことは今さらいうまでもあるまい。
さて、この戦いにおいて、西軍島津義弘隊はまるで傍観者のように孤立していた。史料によりばらつきはあるが、この日義弘に従った兵員は、千人から千五百人の間。薩摩から日向一帯を治め厖大な数の家臣団を抱えていた島津家にしてはいささか寂しい陣容であるが、一騎当千の彼らはこの大混戦の中、一歩も前へ出ることなく、ひたすら何事か待っているかのようであった。そして、陣容に近づく者は西軍であれ東軍であれ、構わず撃退していた。
いったいなぜ、彼らはこのような不思議な戦い方をしていたのだろうか。
そもそも島津隊の政治方針は中央政権とは一線を画し、自分たちだけの楽園・薩摩のみを守り抜くという独特なものである。織田や豊臣などのような、天下統一といった途方もない夢などは彼らには興味がない。この戦乱を利用して自領を増やしたいという企画はあったが、それも九州内の話であり、それ以上の領土欲はない。
なのに、こうして天下分け目の戦いに参加する仕儀に相成ったのは、たまたま義弘が伏見に滞在中であったためである。そして、行きがかり上、西軍に引き込まれることになったが、本音をいえばこの合戦自体に参加したくなかった。島津は豊臣家再興だのといった御大層な大義にはとんと興味がない。大事なのはわが所領のみ。
とはいえ戦場でこのような振る舞い方はまことに紛らわしい。
島津隊を味方だと信じて逃げてきた宇喜多秀家、小西隊までもが斬り払われ、宇喜多隊の多くは池寺池に落ちて溺死した。
慶長五年九月十五日午後三時ー開戦からおよそ八時間経過した今も、島津隊は関ケ原にいた。すでに西軍は総崩れしつつあり、戦場にはぽつんと彼らのみ取り残される結果となった。東軍はジリジリと迫り来て、ついに彼らは敵方に取り囲まれてしまう。
いかにもやる気のない戦いぶりから想像がつくように、彼らは西軍に殉じて全員討ち死にするつもりなどなかったが、さりとて、おめおめと白旗をあげて東軍に投降するつもりもなかった。
そこで彼らは「名誉ある撤退」を決意する。西軍への義理はすでに果たした。ここにとどまる理由はない。よって撤退するというわけである。
だが、それを見越した東軍は予想される二つの退路にすでに兵を終結している。このまま進めば袋の鼠となることは確実だった。義弘は目をつぶり耳をすませ、自らの進むべき方向を考えた。
そこで彼の得た結論はー敵中突破。
雲霞のごとく満ちている敵の真っ只中に突っ込んで、戦場を離脱するなど通常の感覚ではありえない選択肢だった。だが百戦錬磨の義弘の直感は「どの退路をとっても敵が待ち構えているのならば、いっそ相手の意表を突いて、戦場の中央を突破せよ」と告げていた。
義弘は周囲の者たちを一団にまとめると、
「突き進め!」
と叫ぶや否や馬を走らせ、たちまち一団は立ち上る砂の塊となり猛然と敵陣中へと前進したのである。
何が起きたのだろうー東軍の誰もが呆然と島津隊の動きを見つめていた。それは島津隊に相対していた福島正則も同じである。
「敵ならば斬り通れ、さもなくば自らの腹を切れ!」
義弘の言葉に応じて島津隊は一斉に刀を抜き、福島隊の方向へと殺到した。島津隊は福島隊との斬り合いを覚悟していた。
だが、福島隊は思わず身を引き、島津隊の前に自然と道が開かれた。それはまさに海が割れ、道が現われたという「出エジプト記」モーゼの話を地でゆく光景だった。
ちなみにこの時、福島正則の息子で、十七歳の正之が島津隊に立ち向おうとして、家臣から諫められたという逸話が遺されている。
すでに勝敗は決している。死を覚悟し、目を血走らせて猛進する島津隊と戦っても何の意味もない。福島隊の家臣は若様に「犬死してはなりませぬ」と教えたのだ。これは現在に生きる私たちにもうなずける、合理的な判断である。
しかし薩摩武士の考え方はまったく違っていた。彼らの内部には、合理的な思考では説明のできない、野生の血がたぎっていた。自分の死が有益なのか無益なのか、どう生きるのが得なのか、そのような小ざかしい線引きは彼らにとってはどうでもよい。
「薩摩の男はここぞと決めた時、ここぞと決めた場所で、自らの意志に従い死んでゆくのみ」
猛獣の群れと化した島津隊。気を呑まれて彼らを通過させた東軍は、ふと我に立ちかえり追撃を開始するが、後の祭り。義弘は主要な武将を次々と失いながらも、大垣から伊勢路を越え大阪へ落ち延びた。途中、大阪に留め置かれていた人質の妻子らを連れ戻し、九月の末に薩摩へと帰還した。