B「・・いえ、最近は動画を投稿することがありましたので、これらはノーカンとして私は考えております。
やはり私としては自分の文章あるいは少なくとも読んだ書籍の抜粋引用でないと、どうも一記事としてはカウントする気にはなれません。
とはいえ、投稿した動画は私の書いた記事以上の説得力があるように思いますので、これらの閲覧者数が伸びても、それはそれでうれしいのですが・・。」
A「はあ、そうですか・・。
私は投稿された動画の方はあまり観ないので、それらの内容はわかりませんが、Bさん御自身の文章でも閲覧者数が伸びやすいのとそうでないものはあるのですか?
あるいは、それらの閲覧者数の伸びは大体同じですか?」
B「ええ、そうですね、やはり閲覧者数が短時間、期間で伸びるのもあれば、そうでないものがあります。
しかし実際のところ、そうした現象とは、内容によるものであるのかイマイチよくわかりません。
それよりもむしろ記事を投稿した日時などによるのではないかとも思えます。」
A「・・なるほど、閲覧者数の伸びの理由はイマイチよくわからないのですか・・。
まあ、私としては記事に出てくる言葉にウィキペディアなどによる参照が多いものの方が面白いと感じるものが多い気がしますね・・。
やはり特に自分の専門分野以外ではBさんのブログ記事内容などから新たな知見や、そのヒントを得ることが時折ありますからね・・(笑)。」
B「はあ、そういっていただけますと励みになります(笑)。
また、記事を投稿した直後に知人から記事内容と関連するようなメールが届くことがありますので、やはり少なくとも時折は私の記事を読んでくださっている方がいるのではないかと思います・・。」
A「まあ、そういったことは普通直接本人にはいわないですからね(笑)。
しかしそれにしてもBさんのブログもよくネタが続きますね・・実際カウントする投稿が200回あたりを越えたら何かあるのではないでしょうか?」
B「・・いえ、投稿記事数は置いておいて、ブログのネタに関しては実際のところあまり意識、考えてはいないのです。
しかし全く考えていないというわけでもなく、ただ、そうした意識にとらわれますと益々ネタが浮ばなくなる傾向があるのではないかと感じるのです。
また、ネタを比較的浮びやすくするためには、前にブログにて書いた、それに適する精神状態の維持に加え、少なくとも私の場合、書籍を読むことが大事なのではないかと思います・・。
まあ、書籍を読まないでも、おそらくしばらくの間は記事を書き続けることは可能であるとは思うのですが、こうした文章を書くというような能動性とは、本質的に書籍を読んだ反応、リアクションとしてはじめて実効性らしきものが生じるのではないかと思います。
このことをたとえると、コップなどの容器内に一滴ずつ水が滴下することにより容器が満ち、その結果、縁から少しずつ水がこぼれていくような感じではないでしょうか?
そしてこの場合、滴下する水とは読書などのインプットであり、容器が自身の精神であり、こぼれる水がブログの記事などのアウトプットです。
また、こういった様相としてイメージすることにより、はじめて以前ブログに書きましたインプット、アウトプット双方要素の重要性が理解できたようにも思えます・・(苦笑)。
ですから、私の場合、自身が興味関心を持つ内容の書籍を読むことは、特に苦痛ではないことから、その種のインプットは自然な形で行っているのではないかと思います。
そして問題となるのは、アウトプットをどのように、どの程度行うかということになるのではないかと思うのです。
そうした意味において、ブログという形式を用いて自然な形でアウトプットが出来るということは、現代とはなかなか良い時代ではないかと思います。
まあ、しかしそこで問題となるのは、どの程度それを読んでいる人々がいるかということになるのですが、それを考えすぎますと、先ほどいったように囚われてしまうのではないかと思います・・(苦笑)。
また、それこそが一つの正しい意味における自縄自縛といったところではないでしょうか(笑)。
とはいえ、こうしたブログが一般的になった現代の状況により、かつての紙媒体のあまり知られていない良い書籍が時間、技術の進化に伴い閑却、忘却されてしまうのは不味いことではないかとも思いますが・・。
それ故、書籍の抜粋引用なども併行して継続した方が良いのではないかとも考えています。」
A「なるほどねえ・・私も仕事柄必要に応じて、あるいは楽しみとして割合書籍を読んでいるとは思うけれども、たしかにそうしたインプット、アウトプット要素の均衡と電子化の普及による紙媒体の書籍の忘却に対する危惧は時折感じますね・・。
しかし実際問題として、あらゆる書籍が電子化されれば、圧縮されて、かつてそれらが占有していた面、体積がかなり低減、節約されるといった良い面もあるように思えるのだけれどもね・・。」
B「・・ええ、たしかにその御意見には一理あると思います。
しかし、これはたしか中井久夫がどこかで書いていたことなのですが、書籍が実体として存在することにより、それが持っている要素である表紙、背表紙およびそのデザインにより、それが実際に読んだ書籍である場合、その存在によって書籍の内容あるいは読書の際に得た経験が想起されるとのことでした。
つまり紙媒体で存在する書籍とは、読むことにより、その存在自体が索引としての意味をも持つということではないかと思います。
そのように考えますと、書籍の電子化とは、かつてとは違う意味による「選択して読む」といった堅苦しい、遊びの部分を残さないものとなり「それは果たして良いことであるのだろうか?」と考えてしまうのです・・。
加えて、読んだことのない多量の書籍が存在する書店、図書館とは、人を緊張させトイレに行きたくなるという意見を多く聞きますが、そうした圧倒的な未知の要素を示唆されることにより生じる緊張を低減するためにも書籍を電子化するというのは、本末転倒であり、その緊張とは慣れ親しむことにより克服、陶冶されるものではないかと思います・・。
そして、こうした表層的に感じる緊張を低減するための装置とは、近代以降数多く出現しており、そうした意味においては家電、自動車などとあまり違いはないのかもしれません。
しかし、書籍とは、本質的により人間の精神、記憶に圧倒的に強く関与するものであるからこそ電子化による圧縮に対して疑問を感じざるを得ないのです。」
A「・・そうすると少なくとも書籍の電子化とは占有面、体積の低減、節約以外あまり良い効果はなく、むしろ実際の書籍が多く存在する環境に慣れた方が良いということなのですか・・?
何だかニーチェの超人の概念を彷彿とさせますね(笑)。
しかし、そう考えますと、たしかに現代の社会とはニーチェあるいはマックス・ヴェーバーが各々その著作で述べたような末人の世であるのかもしれませんね・・(苦笑)。
あれはたしか「ツァラトストラかく語りき」の綱渡り芸人の場面での説教でしたか?
またマックス・ヴェーバーはそれをベースにして「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで「文化発展の最後にあらわれる末人たち、すなわち精神なき専門人、心情なき享楽人、この無のものは人間性のかつて達したことのない段階まで登りつめたと自惚れるだろう。」といったことを記していたことは、もしかしたら、この書籍の電子化などの底流に流れる何かと通じるものがあるのかもしれませんね・・。」
B「ええ、それでしたらカミュの「転落」とハビエル・ガラルダという方が書かれた「自己愛とエゴイズム」あたりを読んでみると何となくもう少しつながるのではないかとも思います・・。
しかし、そう考えてみますと、このブログも結局のところ自己愛、エゴイズムの所産でなくもないですね・・(苦笑)。」
A「まあ、基本的にアウトプットには大体そういった要素はありますからね・・。
それはあまり気にしなくてもいいのではないかな?」
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。