2017年7月26日水曜日

20170726 戦車を題材にした映画が少ない理由・少女が戦うアニメが制作される理由について・・。

A「先日、以前(ほぼ2年前)に作成、投稿し『20150727 戦車について・・』を記事内容にて取り上げた米国映画『Fury』の動画と共に再投稿してみたところ、かなり閲覧者数が伸びました・・。

また、この映画とは、たしかに、私がこれまでに観た映画にて最も戦車の戦いを忠実に再現しているのではないかと思われました。

そして、この映画を観ることにより、はじめて司馬遼太郎が御自身の経験に基づいて、さまざまな著作に書いた戦車で戦うことのおぞましさ、またそれを想像することによって生じてしまう憂鬱さといったものを、ほんの少しは分かるようにも思えました・・。

とはいえ、そうした事情によるものか、我が国の太平洋戦争を題材とした数々の映画の中において、戦車を題材とした映画とは、かなり少ないのではないかと思われます・・。

その理由について考えてみますと、太平洋戦争での主たる戦場とは、戦車同士が叩き合うのに適した見通しのきく平原は少なく、また、当時の我が国における戦車の位置づけとは、発祥の地、欧州での開発当初の目的であった前進する歩兵の援護を主としたままであり、さらには軍艦、飛行機を題材とした映画のように模型を以って撮影部分をあてることが困難であったことから、華々しい戦場での活躍あるいはそこから派生する悲劇を描写するには『地味』過ぎる且つ予算が掛かりすぎる題材であったのではないかと思われます。

以上のような理由から、少なくとも我々日本人は、第二次世界大戦・太平洋戦争における戦車による戦いとは、書籍・文献を通してのみで知る他はなく、そのことから、当時の戦車同士の叩き合い、戦車を用いた戦闘をあまりリアルに想像することが出来なかったのではないかと考えられます。


その意味において冒頭に書いた映画『Fury』とは、かなりその実情・実相を伝えていると思われることから、あらためて太平洋戦争時に戦車隊に属していた司馬遼太郎が戦車を題材として書いた内容の意味を(ある程度深く)理解することが出来るのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、その一方で、昨今戦車での戦いを題材としたアニメが広く認知されているようですが、そのアニメでの戦車の戦いと、さきの『Fury』を観比べてみますと、そこからもまた日米双方の文化の違いらしきものを感じ取ることが出来るのではないかと思われます。

しかしながら、毎度不思議に思うことは、何故昨今の我が国の多くのアニメ・マンガとは、少女を主人公として武器を持って戦うといった設定を好むのでしょうか・・?

いや、それはアニメ・マンガに限らずドラマ・映画においても同様であるのかもしれません・・。

おそらく、そうした傾向とは、戦前においては現在ほど顕著ではなかったと漠然と思うのですが、それが戦後の如何なる時代精神と感応し、こうした傾向が生まれたのかとは、今後もう少し機を見て考え続けていこうと思います・・。

あるいは、仮説として、こうした傾向とは、男性側が保持する文化・伝統が大戦争により敗れ、その敗れた文化・伝統が強い側・勝った側(欧米)に不断に靡こうとする女性側の文化・伝統を必死に押し留めるための努力であるのかもしれないとも考えられますが、さて如何でしょうか・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。』















20170725 其の2 この時期になると思い出すこと 大隅半島東側の古墳から・・

A「本日分の記事投稿はさきの書籍からの抜粋引用にて充てようと考えておりましたが、現在700記事到達目前という事情もあり、本日もまた何かしら自分で書いてみようと思い立ちつい先ほど新たに記事作成を始めた次第です・・(笑)。

さて、この夏は未だどこかへ遠出するということもなく、蒸し暑い都会の雑踏を性懲りもなく動き回っている次第ですが、こうした状態が常態となりますと、私の場合、南方的とも云える横溢な植生の自然環境への憧れが強くなり、また同時に、かつてのそうした記憶がほぼ自動的に想起され易くなるようです・・(笑)。

さて、何年か前の鹿児島在住時のこの時期、大隅半島東側に古墳が多いということを書籍にて知り、一人原付にてフェリーに乗り大隅半島に渡り、志布志大崎東串良肝付周辺の古墳巡りをしたことがあります。

面白いことに鹿児島県では薩摩半島側には、あまり主だった古墳は見受けられず、それに対し大隅半島側では、国内でも名高い宮崎・日向の西都原古墳群あるいは畿内王権の大動脈とも云える瀬戸内海の延長線とも云える地域ということもあり、その東海岸沿いには大型の前方後円墳をも含む古墳群といったものが散見されるのです。

さて、実際にそうした古墳・古墳群に行ってみますと、それらは特に整備されているといった様子ではなく、概ねごく自然のままで、あるいは墳丘に社が設けられていることもあり、見方によれば、それらのうちのいくつかは、未だ地域にて祀られている存在であるとも見て取れました

とはいえ、こうした古墳のあり方とは、ここのみにおいて特徴的であるというわけでもなく、少なくとも、これまでに私が見た和歌山、福岡など西日本の古墳においても類似・同様と評しても良いものが複数見受けることが出来ました。

そして、そうした中においても、これら大隅半島東海岸近くの古墳・古墳群を特徴付ける要素とは、大型の古墳が草生した丘状となり、また付近に多く点在するとされる南九州東側特有の墓制にて造営された地下式横穴墓とは、地上に古墳の存在を知らせる要素がほぼ皆無であることから、事前の情報あるいは現地での標識・案内板がなければ、そこが古墳・古墳群であることすら判別が困難であったということです。

当時の私は、こうした状況に対し、いささか不満をおぼえたのではありますが、現在、冒頭に書いたような状況にある私としては『あるいはこれもまたこれで良いのではないだろうか?』とも考えるようになりました・・。

それを言い換えますと『そこに古墳の存在を知らせる要素がなくとも、実際そこに古墳があるのであれば、何かしら考えることが出来るのではないだろうか?そして、そちらの方がより想像力を働かせることが出来、そこからまた更なる考えを生むことが出来るのではないだろうか?』といった感じになります。

そして、こうしたことから貴重な史跡・遺跡の取り扱いとは、遺跡・地域毎に無作為の無意識に基づくものではあれ、さまざまな方法・様式があっても良いのではないかと考えに至るのですが、さて如何でしょうか・・?


ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』