2024年7月15日月曜日

20240715 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.224‐227より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.224‐227より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

 1876年、コッホは自分の研究を多くの科学者に説明した。その中には、以前から炭疽菌Bacillus antbracisを研究していた植物学者で微生物学者のフェルディナンド・コーンもいた。「bacillus」はラテン語で小さな杖、棹、棒を表す単語で、この細菌の棹状の形を示している。

「anthracis」は石炭と無縁炭を指すラテン語からきており、ある種類の病気に特有の生気のない黒ずんだ肌を指す。

コッホは微生物の生活環と伝染に関する自分の発見と、抑制する方法を説明した。コーンは感銘を受け、絶賛して出版の手筈を整えた。病原菌説支持者にとっては新たな大進歩であったが、自然発生説と瘴気説(196頁)の支持者はさらなる決定的打撃に見舞われた。

 コッホは1880年に帝国保健局に移動した。80年代の後半に彼はコッホの原則として知られる一連の事件ーある微生物が病気を引き起こすと確定するために使われる基準ーを考案した。

時間をかけて、自分が発見した新しい細菌のそれぞれにその条件を当てはめるつもりであった。コッホの原則は4点にまとめることができる
ー感染した生物(植物、動物)ないし組織は当該の微生物を大量に持っているが、健康な個体はもっていない
;微生物は感染した生物ないし組織から分離され、純粋培養で育てられなければならない
;培養された微生物が健康な生物へ入れられると、その生物が病気を発症する
;最後に、その「第2世代」の微生物はふたたび抽出・分離され、もとの微生物と同じだと証明されること。

これらの原則によって、コッホは微生物と病気が不可分であるかどうか確かめようとした。しかし医学はつねにそれほど明快ではない。たとえば、人間や動物の中にはある病気の「保菌者」(キャリア)がいるーごくわずかの症状しか現れないか、何の症状もなく表面上は健康であるが、体に病原菌を保有しているため他の人にうつす可能性がある。したがってコッホの原則は、絶対的な法則ではなく、理想的な基準として今日まで残っている。

 ベルリンでようやく助手付きの、彼にふさわしい実験室をかまえたコッホは、そこで研究の第2段階、すなわち結核についての研究を開始した。彼のチームは新たな方法と技術を開発し続けた。1881年頃の重要な技術革新は、海藻から抽出した寒天を用いたゼリー状の栄養物質での微生物の生育であった。微生物が小さな斑点状に生育するのが目に見えるため、便利で利用しやすかったー栄養液の中に入れてぐるぐるまわしたり、試験管の中深くに埋め込むよりも断然楽だった。この方法はコッホの助手ヴァルター・ヘッセによって開発されたが、それは彼の妻のアンジェリーナがゼリーとジャムを作った後で、ゲル化させるには寒天を入れるといいと言ったのがきっかけであった。

コッホのもう一人の助手ユリウス・リヒャルト・ペトリは発明品に自分の名を与えたーペトリ皿である。この蓋付きの、底が浅く丸いガラス製の平皿だと、寒天が広がるため、その中の微生物が簡単に観察できた。寒天とペトリ皿のどちらも今なお世界中で実験に使われている。

 その時コッホは世界でもっともありふれた、長期にわたる、死に至ることの多い病気ー結核を引き起こす病原菌の試験に臨んでいた。この病原菌は炭疽菌よりも小さく、そのうえ着色した染料にさまざまに反応した。研究は細目にわたり、苦心を要した。1882年3月24日、意気揚々としたコッホが、自分のチームがその病原菌、結核菌を発見し同定したと発表した。「人のかかる病気の重要性が、病気による死病者数で測られるのであれば、結核はペストやコレラなどのもっとも恐ろしい感染症よりもはるかに重大な病気とみなされなければならない」。続けてコッホは彼の開発した新たな染色法などの技術を記し、デンジクネズミを実験動物として用いた方法を、ヒト、サル、家畜の組織の研究とともに説明した。一匹の動物から採取された病原菌を培養液の中で育て、別の動物の体内に入れたところ、どれも結核を発症した。さらなる証拠のためにコッホは顕微鏡、染色された微生物の培養液のガラススライド、組織サンプルの入った壺、その他の器具を作り、観客が自分の目で見ることができるようになった。1カ月以内にその知らせはヨーロッパ全域と、続けて北アメリカ、アフリカ、アジアに広まった。当初コッホのバチルスと呼ばれたその微生物は今では「結核菌(Mycobacterium tuberculosis」と呼ばれる。

 次にコッホが関心を向けたのはコレラ菌であった。1883年、コッホは政府に任命され、エジプトのアレキサンドリアでの流行を調査するドイツコレラ委員会の委員長として派遣された。そこで彼は疑わしげなコンマ形の細菌を同定した。別の機会にインドへ行った彼は、そこでも調査を続けた。ついに原因となる病原菌を特定した。汚染された飲み水と食べ物を通して伝染すること(180~87頁参照)を説明し、予防策と鎮圧方法を助言した。これらの業績によってコッホは10万マルクという巨額の報酬を得て、世界的な名声がさらに高まった。実際のところ、コレラ菌―その後ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeと命名されたーは、約30年前の1854年にイタリアの解剖学者フィリッポ・パチーニによって発見されていた。しかし病原菌説が当時はまだ見向きもされなかったため、パチーニの業績は認められなかった。

 炭疽病、結核、コレラに関する画期的な研究の後、ついにコッホはへまをした。1890年、大喝采を浴びながら、彼はツベルクリンー結核の治療薬ーを紹介した。彼はその出所を明らかにすることを拒み、動物で試験されたと述べた。当初は人間への実験で効果が確かめられたと報告されたが、ツベルクリンは重い副作用を引き起こすことがあり、時には死に至ることもあった。この治療薬と呼ばれた薬は治療をもたらすどころではなかった。コッホはツベルクリンが細菌の特別な抽出物であることを認めたが、その中身が何であるか正確に説明できなかった。世論は一転して彼を批判した。彼の研究は政府による後援であったとはいえ、彼がツベルクリンの製造者と財政面で関わりのあったことが明らかになると、事態は悪化した。妻と別れ、10代のヘドウィク・フライベルクとの新しい関係も助けにはならなかった。コッホは国を去り、ふたたび旅に出た。イタリア、アフリカ、インド、ニューギニアを訪れ、腺ペスト、らい病、マラリア、狂犬病、人間と家畜におこる珍しい熱病を研究した。1897年、新型のツベルクリンを発表した。これも失敗作だったが、その後、結核の診断に有効な試薬となった。ヒトの結核予防に有効なワクチンはようやく1920年代にー皮肉なことに、パストゥールが創設したパストゥール研究所でー開発された。

 後年の失敗にもかかわらず、コッホによって細菌と感染に関する新たな医学研究が高まりを見せた。彼の弟子には次の研究者たちが含まれる。1884年にジフテリア菌を特定し培養したフリードリヒ・レフラー、同じくジフテリアの研究に携わり、1894年に腺ペスト菌を発見した北里柴三郎、1901年に最初のノーベル生理学医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、1906年に梅毒の初期感染の診断薬を調剤したアウグスト・フォン・ヴァッサーマン、1909年に梅毒治療薬アルスフェナミン(サルヴァルサン)を発見したパウル・エーリッヒなど。1905年、ロベルト・コッホは「結核に関する調査と発見」によってノーベル生理学医学賞を受賞した。ノーベル賞は、彼の不断の研究倫理によって刺激づけられた、数々の革新的な発見のあかしであった。彼が医学校での受賞エッセーに添えた題辞はラテン語で書いてある。「Nunquam Otiosus」、決して怠るなかれと。



20240714 夏になると思うこと、地域の食文化について【2222記事到達】

 今月ははじめから、夏本番とも云えるような酷暑の日が続き、さきの盛夏が思いやられるような夏の始まりであったと云えますが、個人的には、気温が上がり、湿度も高くなり、蒸し暑くなってきますと、南紀、和歌山での記憶が多く想起されます。これまでにも何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、私は首都圏で育ち、そこから、寒い北海道を経て、転勤により南紀白浜に住むことになりました。当初、この転勤は(とても)嬉しくないものでしたが、いまだ雪景色であった北海道を経ての清明の頃の南紀には、何といいますか、生命力の溢れた自然の精気によるものであるのか、いささか陶然とした心持ちが常態化するようなところがあり、そうした環境の中で、さまざまな地の食文化に接していますと、それぞれの食材や、それらを統合した料理の味を、より鮮烈に、そして重層的に、味覚を通じて理解出来るようになると思われるのです。あるいは他の要因も少なからずあるのかもしれませんが、私は、南紀白浜での生活により、それまであまり考えることのなかった地域の食文化に興味を持つようになりました。南紀は辺縁とはいえ和歌山県つまり関西・近畿文化圏に含まれますので、街中や隣の紀伊田辺の市街地には、古くからあると思しき「粉もの」のお店があり、また、それよりもう少しメニューが多く主に定食を提供する「食堂」と云えるようなお店もあり、古来からの地域の外食文化の様相が感じられましたが、他方で丁度その当時は、市街地郊外のショッピングセンターにファーストフードの店舗が出店して数年経った頃でもあり、その後「今度は**が(田辺)市内の**にできた。」といった外食チェーン店進出の情報が度々聞かれるようになりました。これは端的に「中央もしくはさらにその背後にある国際的な食文化の進出」であると云えますが、この高度に情報化された社会において、今さら「中央文化の地方への侵出・・」と思われる方々もおられるかもしれませんが、当時も含めて一定期間、南紀白浜の社会にいた私としては、こうした地元の感覚はたしかにあったと云えます。しかし同時に、そうした外来の食文化などを当初からむやみに排撃しないのも地域性であるのか、興味深いものがあると云えます。ともあれ、そうした経緯により、私は関西・近畿文化圏の辺縁とも云える南紀において、それまで即自的なものであった食材、料理などの食事全般を、対自的なものとして捉えなおす契機を得たのだと云えます。さて、食文化を対自的なものとするためには、おそらく、これまで著された古今東西の関連する文献資料をあたり、その述べるところを整理、検討して自らの言語体系を構築する、いわば演繹的な方法と、個別の事例を出来るだけ数多く文献資料や自らのフィールドワークを通じて取得、蓄積して、そこからある程度蓋然性の高い見解を体系的に述べるといった帰納的な方法があると思われますが、私の場合は、専ら後者をそれと知らず、単に「へえ、そんな料理・食材があるのか・・。」といった態で自分なりに経験を蓄積させていったのだと云えます。そしてまた、そうした経験を通じて、それまで知っていた食文化についての情報が更新され、そしてまた、わずかに興味も亢進されて、徐々に自分の中の食にまつわる要素が対自的なものになっていったのだと思われます。その意味において、我が国の食文化の要石とも云える「醤油」および「鰹節」発祥の地が、この県にあることには、大変興味深い偶然性(あるいは必然か)があるのではないかと思われるのです。

 我が国の伝統的な食文化を検討しますと、やはり全般として、より洗練されているのは、首都圏よりも関西・近畿文化圏であると云えますが、その関西・近畿の料理文化の中心・最先端とは、やはり多くの場合、京都であると言い得ます。しかしながら、その京都の洗練された食文化について、それを構成するさまざまな料理を検討してみますと、それらの多くは古の畿内全域では共通してあった料理(調理法)であったり、さらに、その料理の起源については、また諸説あるといった複雑な様相が多く、そして、そうした系譜づいた様相とは、文化の先端や中心である京都あるいは場合によっては大阪、神戸といった大都市よりも、いまだ一次産品が多く、古来からの食文化が自然に息づいている和歌山のようないわば辺縁地域の方が、より明瞭且つ複雑でない、理解し易い様相として認識出来るのではないかと思われるのです。そして、そうした理解を感覚を通じて得るためには、その地域にしばらくの期間、埋没して暮らす必要があると思われるのです。つまり、ある文化を、より深く、対自的なものとして捉えるためには、予めそれを即自的なものとしておく必要があるのではないかと思われますが、この「予め即自的なものにする」ことは、当記事冒頭にて述べた転勤時の私のように当初は受容し難いものであったとしても、その先に、ある程度の普遍性を持った優れた何らかの事物を見出し、そこでの感覚を自分なりに興味を持って探求し続けていますと、往々にして受容云々はどうでもよくなり、そして、いつしか見えてくるより大きな構造のようなものがあるのではないかと思われるのです。その意味で南紀を含めた紀州・和歌山のゆたかな食文化には、より多くの人々に「ほんまもん」の我が国古来からの食文化を経験する契機になるものが少なからずあるのではないかと考えます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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