pp.202-205より抜粋
ISBN-10 : 4121025539
ISBN-13 : 978-4121025531
本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか?それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。1919年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、国権党・・・。ひところは30にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。
当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。
当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴り合う山高帽や鳥打帽のむれを伝えている。
おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。
1921年7月、ナチスの臨時大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二か月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エルンスト・れーむが突撃隊指揮官についた。
レームは1887年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより2歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という3万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。
ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、1925年4月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。
やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。
1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッペルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。
11月、レーム、帰国。ナチスの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。
以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。