A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000に到達しました。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さて、昨日は半分仕事も兼ねて東京、千代田区周辺を廻りましたが、その際、面白い書籍を(比較的安価にて)見つけ購入しました。
その書籍とは荒俣宏著の「理科系の文学誌」というものであり、偶然ながら、この著作内に取り上げられている人物の多くが、これまでに投稿した一連のブログ記事にて取りあげた人物と重なるため興味深く、面白いと感じた次第です。
しかし、そこで面白いと感じるのは「自身が面白いと感じることが出来る著作に出会うことが出来た」ということであり、具体的には「数多ある書店の書籍の中から、何故それを手に取り頁を開いたか」ということです・・。
そのように考えてみますと「こうしたことは一種の運によるものではないか?」とも考えられ、また、それ以外に如上のような現象を簡便、適当に説明する論法?とはないのではないかと思われます・・。
さらに若干、我田引水、牽強付会の観がありますが、そうした意識の流れ(の感知)が文系諸学問が持つ根源的な価値であり、またそれは一見あまり大きな意味を持つものではない(あまりにも主観的であり(他者が)感知することが困難であるが故に)とも見ることができるため、特に昨今の我が国社会においては(文系諸学問が)軽んじられているのではないかとも思われます・・。
また、こうしたことは、さきに示した著作の内容にも関連するのではないかと思われますが、前述の意識の流れ、およびその感知とは、何も文系諸学問のみに認められるものでなく、理系諸学問においても同様に存在するのではないかと思われます・・。
しかしながら、文系諸学問においては、この意識の流れの知覚、これをさらに別言すると、認識された形而上下の現象の言語化そしてその(継続的な)言い換え作業を通じて生じる現実(物質的)世界との(時折生じる)合致「こそ」が重要であるため、何と言いますか、その成果の認識あるいは可視化、具現化が困難であることから、どうしても、さきのような価値判断(文系学問の軽視)へと至るのではないかと思われます・・。
そして、ここまで記していて思うことは、我々は一般的に具体的な物質的存在の認識および、その積重ねによる思考作業の方が(徹頭徹尾形而上的な思考作業よりも)容易に為すことが出来ると考えられることから、先ず理系、文系の分岐以前の中等教育あるいは高等教育初期段階において、ある程度職業につながるような専門的な技術教育を行い、そこからさきの高等教育(専門課程)の段階においても、理系、文系何れの学問分野であれ、各々の専攻とは異なった学問分野(理系であれば文系の、文系であれば理系の)にて能動的に親しむことの出来る科目を見つけておくことが案外と重要なのではないでしょうか?
そしてまた、これは大学院(研究)レベルにおいても、そのようにしておく方が良いのかもしれません・・。
しかし、その意味、価値を疑問視する方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが「強く弦を張りすぎた弓は切れやすい」ともいいますので、少なくとも息抜き、あるいは(ユング)心理学でいうところのコンステレーション(布置、配置)の契機ともなるのではないでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。」