中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋
ISBN-10 : 4122021030
ISBN-13 : 978-4122021037
中国・朝鮮式の儒教的専制国家ならば、皇帝の専制の手足になる大官はことごとく皇帝親裁の試験で採用されるのだが、日本では藤原氏を中心とする血族団体ー公卿ーがそれを担当する。この点で、致命的な失格である。だから日本史上、中国やヨーロッパの皇帝に相当する強大な権力ー朕ハ国家ナリという式ーをもった天皇はついに出現せず、原理的に出現できないしくみになっている。
さらには土地公有も、すぐ失敗した。
荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがって、ついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。
平安中期ごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。
要するに、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけたということであり、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである。
ひらたい例でいえば、山田である。明治期に日本にきた中国の有力者が、瀬戸内海を東航する船のなかから島々のてっぺんまで耕された山田をみて、
「耕シテ天ニ至ル、貧ナルカナ」
といったという。この中国人の日本認識がいかに浅薄なものであったかといえば、山田を競争の原理の象徴としてとらえなかったことである。村々の百姓たちは弥生時代から明治以来にいたるまで、他家より一段でも多く田畑をもちたいがために、地理的に耕作しがたい土地まで開墾してわずかでも生産の収穫を得た。この競争の原理が武士を発生せしめ、さらにはくだって競争をすべて悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開墾と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三十六万九千石の石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓をつづけてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。その収入をもって換金性の高い殖産事業をおこし、幕末ではほとんどあたかもヨーロッパの産業国家のような観を呈した。いまの山口県の一つの収入で、洋式陸海軍をもち、さらに京都における革命工作のためにばく大な費用をつかい、つづいて戊辰戦争(一八六八)の戦費をまかない、それでもなお戊辰戦争終了後に古金(慶長小判など)八万両を持っていたという。この藩はその半分を新政府に献金している。要するに日本に競争の原理があったからだろう。
中国・朝鮮式の専制体制は、競争の原理を封殺するところにその権力の安定をもとめた。その体制の模範生だった朝鮮の農村には、競争の原理というものが伝統としてない。そのために朝鮮の老農夫はだれをみても太古の民のようにいい顔をしており、日本人の顔に共通した特徴とされるけわしたがない。
明治期の中国や朝鮮の農村からみれば、江戸期の競争による蓄積をへてきた日本の農村はーとくに西日本にあってはーたしかに富裕であった。五十戸の字には三戸の富農があるといわれたのは、「耕シテ天ニ至ル」という式の競争のおかげであった。
山を田畑にするというのは百年の単位でのしごとで、大変な手間が要る。たとえばその山鹿が禿山である場合、下草をうえて土をやわらかくし、次いで竹木を植えて雨が浸みこむようにし、やがてそれが流れになって段畑でうけとめる。という手間を経なければならない。土地を公田にすることによって人民に競争心をうしなわせ、そのうえに立って儒教的秩序による皇帝専制の官僚体制をつくりあげた中国や朝鮮では、そういうことまでして田畑をひろげようとする衝動が農民の側にない。ひろがればそれが公田になるだけなのである。
江戸期いっぱいの日本の農村はまずしいというのは、ヨーロッパとの比較においてのことで、東アジア的なレベルでの比較では富裕であったというべきだろう。維新成立後、農業国家でしかなかったこの国が、わずかに生糸を外国に売る程度の収入で、すぐさま東京大学をつくり、同時に陸海軍をつくることができたのは、東アジアの他の国からみれば魔法のようにしかみえなかったにちがいない。雄藩の基盤になった西日本における農村の比較的な意味での富裕を見おとしているからであろう。
さらに競争の原理を内部的にもたない当時の中国・朝鮮式体制にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。外国の侵略という不幸な外圧によってようやく倒れるわけであり、言葉をかえていえば、体制内における薩長的存在というものをみとめないために、他から倒されるほかない。