中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.85‐88より抜粋
ISBN-10 : 4122024889
ISBN-13 : 978-4122024885
私は戯曲の文章を論ずるに先だって、小説中の会話の文章と、戯曲の文章とが、いかにちがうか申し上げなければなりません。小説のなかでは会話の沢山のあるもののあります。たとえば谷崎氏の『細雪』は、アメリカで翻訳されて、会話小説(カンヴァセイション・ノヴェル)というふうに言われました。戯曲と小説との中間形態はいろいろあって、たとえばゲーテの「ファウスト」は戯曲jと言うには、あまりにも奔放な会話の羅列であり、第二部のごときは上演も不可能なものでありますし、また会話体で書かれた戯曲でないものも沢山あるので、ゴビノオ伯爵の「ルネッサンス」のごときは、その一例であり、またフランスの18世紀の小説にも会話体の小説があり、戯曲と小説との間には多くの中間形態があります。
われわれは会話の出てこない小説はよく退屈だと申します。地の文ばかり続いていうと、いかにも固い、窮屈な感じがして、一般読者は会話を要求します。それならば会話が好きかというと、会話ばかり続いた戯曲を、一般読者はほとんど読みづらいと言って敬遠します。この矛盾はなんでありましょうか。私はあるアメリカの作家から、これに関するある評論家の言葉というものを聞いたことを覚えています。その評論家の名は忘れてしまいましたが、それは小説の会話に関するこうした説でありました。
「小説の会話というものは、大きな波が崩れるときに白いしぶきが泡立つ、そのしぶきのようなものでなければならない。地の文はつまり波であって、沖からゆるやかにうねってきて、その波が岸で崩れるときに、もうもちこたえられなくなるまで高くもち上げられ、それからさっと崩れるときのように会話が入れられるべきだ」
私はこの比喩を大変美しい比喩だと思っています。小説の中での会話はそうあるべきであって、そういう風に挿入された会話は美しい。
しかし小説作法は絶対的ではないので、それぞれの国の伝統があって、ドイツの小説は長々とした議論を会話に乱用する傾きがあり、また過去の物語もドイツの小説では、多く会話の物語ですまされています。これはドイツの小説に特殊な味わいを与えているものですが、ロシアの小説でもドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のように、むずかしい神学的議論にまで及ぶ長い長い会話がつづられて、それが小説の主要なテーマを劇的に盛り上げております。事実、ドストエフスキーの小説中の会話は、会話としては特殊なものであって、それ自身が独立した劇的な効果をもっており、以前、パリで「カラマーゾフの兄弟」の中の会話の部分だけ抜萃して、一切手を加えずに上演したことがあります。これは相当な成功をみたようですが、それだけでもドストエフスキーの会話が、弁証法的構成をもち、一般の小説の会話とちがって劇的な緊張と対立の上に成り立った、奇聳な、小説におけるドラマ的効果を形造った会話であるということが言えるのであります。その意味では「カラマーゾフの兄弟」は小説的であると同時に、非常に劇的な作品であります。日本の読者には後半の法廷シーンにおける、長い裁判の弁論ごときは小説のなかでの会話的部分として、もっとも耳慣れないものでありましょう。
日本の小説にはこのような会話の伝統はありません。多くは写実的会話で、小説の中における会話は小説の重要な筋に肉迫するような、劇的会話は避けられて、ちょうど地の文の辛さに、会話という甘味を一滴二滴落すような具合に挿入されて来ました。新聞小説の会話のごときはその代表的なものでありまして、新聞小説の読者は長い地の文や叙述の描写に耐えられないので、「あら、ほんと」とか「まあ、そんなことおっしゃっちゃいやだわ」という無意味な会話を挿入することによって、読者の日常平凡な現実的感覚を刺激しなければならないのであります。なぜならば地の文の描写は、いちおう知的な理解を経なければ、現実感覚としてせまってこないが、そこらで普段聞かれる日常会話は、小説の世界を、急に手先に引き寄せるように感じさせるからであります。ですから日本の小説に関するかぎり、会話は文学の重要な部分を受持っているとは言えません。