2024年8月28日水曜日

20240827 1848年のヨーロッパについて①

 1848年はヨーロッパにおける大きな変革の年でした。それまで続いたウィーン体制は、ナポレオン戦争後の1815年に始まったものであり、これによりヨーロッパ各国の勢力均衡が維持されてきたものの、この年にヨーロッパ各地にて反体制運動や革命、さらには国際間の紛争も勃発して、このウィーン体制は終焉を迎えました。

 この社会激動の波は、まず、フランスの二月革命で生じ、それまでの復古した七月王政が打倒されて、第二共和政が樹立されました。そしてその影響は、ヨーロッパ各国に波及し、プロイセンやオーストリアにおいて自由主義やナショナリズムを掲げた運動が活発化して、また同時に、プロイセンとデンマークの間では、シュレスヴィッヒ=ホルシュタインの領有をめぐる争いが激化し、さらにサルディニア王国はイタリア統一を目指してオーストリア・ハプスブルグ帝国に宣戦布告するなど、国際間の緊張もまた高まりを見せました。

 さらにその後、1854年から1856年にかけてのクリミア戦争は、ナポレオン戦争以降最大規模の戦争となり、これによりヨーロッパの地政学的バランスが一変しました。オーストリア・ハプスブルグ帝国は、クリミア戦争の際に武力は用いず中立の立場ではありましたが英仏側に立ち、ロシア勢力のバルカン半島からの駆逐をはかりました。これに対してロシアは強く抵抗し、そして、このバルカン半島での影響力をめぐり、オーストリア・ハプスブルグ帝国とロシア帝国は対立を深め、やがて、それが1914年の第一次世界大戦発端の遠因となりました。

 また同時に、クリミア戦争によってプロイセンとオーストリア・ハプスブルグ帝国との関係も深刻に悪化しました。先述のように同戦争時、オーストリア・ハプスブルグ帝国は、英仏寄りの中立でしたが、プロイセンはロシア側での中立の立場であり、この立場の違いにより両国間の関係が悪化して、それまでの同盟関係が崩壊して、後年の普墺戦争勃発にまで至ります。

 やがてクリミア戦争が終結し、パリ平和会議が開催され、ヨーロッパに一時的な平和が戻りましたが、すぐに内乱や革命や紛争が生じ、とりわけ、イタリアおよびドイツでの民族的統一を目指した戦争によってヨーロッパの国境や国家間の力関係は、また大きく変わることとなりました。1848年のフランスでの二月革命の後、クーデターによって自ら帝政を敷いたナポレオン三世は、その治世において、イタリアやポーランドのナショナリズムを利用してヨーロッパでの政治的影響力の拡大をはかりましたが、最終的にはプロイセンによって統一されたドイツとの対立を深め、普仏戦争の開戦を招き、敗北して自らの第二帝政の崩壊、そしてフランスの没落を招く結果となりました。

 これら一連の1848年からの革命や戦争によって、ヨーロッパでの古くからの秩序が崩壊して、新たな国家の形成を促しました。当時のプロイセンやイタリアの統一はその象徴であり、また、これらの動きは、さきに少し述べましたが、後の第一次世界大戦の伏線となったのです。19世紀後半のヨーロッパでは、こうした動乱期を経て、新たな民族国家の形成と国際秩序の構築へと進展し、これによって、ヨーロッパ全体が変革と再編の時代を迎えて、現代の国際政治の基盤が形成されたのだとも云えます。

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