ISBN-10 : 4022605170
ISBN-13 : 978-4022605177
歴史の中の紀州人たち
このあいだ、ひさしぶりで司馬遼太郎氏にお目にかかった。和歌山城の見えるレストランで一時間ほどお話を伺う機会があった。そのとき、ヘミングウェイの話が出た。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
と、特記されるほどであった。
関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
と、特記されるほどであった。
関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。