こうしたことは概ね私が考えるよりも上等のものであり、何となく遊ばれているような感じを受けることがあります・・(苦笑)。
また、これまで私はある程度の期間(明らかに)自身よりも優秀な方々に(多く)接してきたと思います・・。
そうした状況にて、かろうじて私が自信を維持できた主な理由とは、おそらく歴史、人文社会科学的な知識全般における、いくばくかの自信ではなかろうかと思います・・。
そして、それがなければ私はどこかで自信をなくし、挫折していたでしょう・・(苦笑)。
さらに、それは新たに研究を始めた学問分野における理解のための有用な道具あるいはマトリックスともなりました。
その意味において他の方がどう考えようとも、私は根っからの人文社会科学、文系の人間であると思っております・・(笑)。
また、私がそうなった主な理由、原因とは、様々な段階における周囲の環境に因るものが大きかったと考えております・・。
そして、こうしたものは、そのかなり大きな部分が「運」というものに依存しているのではないかとも最近思います。
また、一方において「これは必然であった。」と考える私もおりますので、この点においては未だに自身の中で確たる結論は出ていないようです・・(苦笑)。
それに加え、私にとって大変勉強になったのは、以前も当ブログに記した指導教授、教員といった方々によるものばかりでなく、私よりはるかに年下であり且つ私よりはるかに優秀な方々(男女問わず)によるものも少なからずあるのではないかとも思います・・。
一般的に特に我が国の男性の多くとは、自身よりも優秀な年下の方々(特に異性)に対して、どうにかして、それこそ卑怯な手段を用いても自身が優位に立たなければ気が済まないような傾向を有する方々が少なからずいらっしゃるのではないかと思いますが如何でしょうか?
(具体例としてSTAP細胞事件)
果たしてそれは自然なことなのでしょうか?
しかし、私はそのようには考えません・・むしろ、それは本当に醜いことではないかと考えます。
とはいえ、彼等、彼女等に対し、ただ理解を示すようなゼスチャーをとることもまた、同様に害悪であるとは考えますが・・。
実際に自身が感に堪えない、その才能を強く感じた時などは、それが若年・異性を問わず『正直な対応』をすることが良いのではないかと思います・・。
そして、そうであっても、そうしたことが続いたとしても、自身の内部に確たる自信を有する何かしらの分野があれば、それで良いのではないでしょうか?
私の場合、それはさきに述べたように歴史、人文社会科学的な知識あるいは見識ではないかと思います・・(笑)。
これもまた、様々な理系学問分野におけるそれと同様、なかなかその修練には時間、能動性を要するものであると思いますから・・。
しかし、私が危惧し反感を持つことは、こうしたものが簡単に自己のものとすることが出来るといった昨今流行の「心得違いな」考えであり、また、それを助長しているような現今我が国の社会です・・。
こうした現象とはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
あるいはホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を否応なく想起させ暗澹たる気分にさせてくれます・・。
とはいえ、先月の熊本での大地震によって被災された地域の諸生活インフラの早急な復旧そしてそれに続く力強い復興を祈念いたします。
また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。」