2016年2月14日日曜日

中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.46-51より抜粋20160214

維新における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう。ある意味において、明治元年の日本の維新は西郷の維新であったといいうると思う。」これはよく知られているように、内村鑑三がその西郷論(代表的日本人」所収)において記した文章の一節である。
内村はその西郷論のサブタイトルを「新日本の建設者」としているが、おそらく汗牛充棟もただならぬ西郷論のうち、もっとも熱烈純粋な賛美をささげたものが内村のこの文章だろう。そこに描かれている西郷は、あたかも「天」の啓示をうけた「聖人哲人」のごとき存在であり、ほとんど、「クロムウェル的の偉大」をそなえた霊感的な人物であった。そしてまた、「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」でさえあった。
すべてそのような頌示を、内村はその素朴雄渾な文章に綴っているのであるが、おそらくこのよに単純明快な熱烈さをもって西郷を語ること自体、あたかも西郷のような人物が現在では見られなくなったのと同じように、今では失われてしまった一時代の精神の姿を記念することがらかもしれない。(これが書かれたのは明治27年のことである。)
しかし、西郷に対するこのような無条件の賛美ということは、おそらく現代の良識にとって、多大の抵抗感なしには到底容認しがたいことがらであろう。なぜならば、たとえば以下のような脈絡において西郷の歴史的な位置づけを行うことは、ほとんど一種の通念となっているからである。
征韓論争は、日本歴史における一つの大きな山をなすものである。この論争による明治6年の政府の分裂、ひいては西郷、板垣副島江藤ら多数官吏の辞職にひきつづいて、士族の反乱は散発的ではあったが、またも激烈となった。
かくて主戦派の敗退の直接の帰結としてその直後の2年間には武装叛乱がいくたびか組織された。かように征韓論は結局内乱と西郷の死と膨張論者の一時的敗北に終ったが、しかし、この敗退にもかかわらず、外征の主張はその後永年のあいだ日本の極右反対派の採用するところとなった、西郷とその側近者の失敗から教訓を得た次代の膨張論者、たとえば福岡玄洋社の創立者らは反抗の新たな技術を完成し、侵略宣伝を高度化し、ついに西郷の死後20年にして膨張政策の目標を達成せしめることになった。」
このような見解-すなわち、西郷がもっぱらその後の日本の大陸侵略思想をインスパイアした最大の源流であり、同時にまた右翼的ファナチシズムの模範でもあったとする見方は、一般に西欧の日本研究者にとっては自明のことがらのようである。たとえば、オクスフォードのリチャード・ストーリイ氏もまた次のように書いている。
「西郷の武力によるプロテストは、もちろん彼自身の見地からすれば、決して反乱というべきものではなかった。
彼は天皇の意志に背こうとしたのではなかった。
なぜなら天皇は君側の奸によってその聖明を蔽われているのだから、西郷はかれらを権力の座から一掃しようとしたにすぎない。
こうした精神的態度は、日本古来の起源をもつものであるが、あらゆる極右国家主義者に共有のものであり、おびただしいテロ行為を自ら正当化する理由を提供したものである。・・西郷の反乱はある意味では日本の封建勢力の最後の抵抗であったが、しかしそれが極端なウルトラ・ナショナリズムの理念によってひきおこされたというかぎりでは、それは今なお黒い影をはるかな未来にまでなげているのである。」
すなわち、ここでは、おそらく国学者の一派によっていだかれた神国思想にもとづく膨張主義と、封建的ファナチシズムとのもっとも純粋な結合形態が西郷隆盛であるとされており、したがってその影響力は、先のノーマン氏の引用にあるようなプロセスをたどって、日本の超国家主義にもっとも純粋強力な作用を及ぼしえたと考えられているのである。
こういう解釈にしたがうかぎり、西郷に対する生理的嫌悪感のごときものさえいだかれるとしても不思議はないかもしれない。ノーマン氏のような純正な歴史家が、西郷の中にある忌まわしい原始的な要素-男色趣味をともなう未開性のごときものを感じとっていることも(幾分その後のファシストたちのイメージの遡及的投射という気味がなくもないが)それなりに理解しがたいことではないであろう。
ここでは、問題を浮き上がらせるために、西欧の歴史家の見解だけを引用したが、それが日本の近代史家たちの影響を多分にうけたものであることは、想像にかたくないはずである。日本の近代史家たちも、さすがにノーマン氏やストーリイ氏のように、西郷を直ちにファシスト的アウトローズの原型とみなすほど単純でないにせよ、西郷をもって近代日本のコースを反動的に逆転せしめようとした人物とする点においては、おおむね一致しているとみてよいであろう。
少なくとも、それ以外に、征韓論、西南戦争のシンボルとしての西郷を統一的に理解する視座はありえないとするのが一般かもしれない。
西郷に対する歴史家の冷淡さには、上述のようなファシスト的大陸侵略派の源流というイメージのほかに、もう一つの根拠がある。それはかんたんにいえば、彼が大久保利通木戸孝允伊藤博文山県有朋に比べて、近代日本の造成にほとんどなんらの貢献も果たしていないではないかという評価である。なるほど、倒幕の軍事行動において西郷はかなりの役割を果たした。しかし。それさえも大村益次郎の指導力に比べればいくらか曖昧であるし、とくにその政治的能力にいたっては、ほとんど問題にもならないという見解がそれである。
この場合には、西郷は反動と侵略のシンボルとしてではなく、まさに近代的な思考力と知識の欠乏という点から軽んじられるのである。そしてそのことは、その当時の同僚たちもまた、折りにふれて言及したところであった。
「・・今日、西郷、桐野篠原ら、官位剥奪の御沙汰あり、余人はともあれ、西郷は十二年前の知人にて、爾後同氏の国家に尽くせしもの少なからず。
忠実寡欲、ことにのぞみて果断あり、ただ短なるものは、当時の形勢に暗く、大体を見るに能わずして疑惑その間に生じ、一朝の憤怒を以ってその身を亡ぼし、その名を損う。実に歎惜にたえず、人世の大遺憾なり云々」
(「木戸孝允日記」)
「・・・余人らはここにいたりて頗る西郷を疑えり。彼はよし維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余らもまた尊敬しつつありといえども、その政治上の能力は果たして充分たりや否やという点につきては、頗るこれ疑えり。不幸にしてその疑念は一転して失望となれり。失望はさらに一転して苦心と変じたり。云々」
(大隈伯昔日譚」)
この後者の批評は、岩倉使節団の外遊中、留守内閣をあずかった西郷の政治的無能を述べたものだろう。後年になっても大隈は「西郷も骨を故山に埋めてすでに三十年、とうとう歴史上の大英雄、大豪傑となってしまった。あえて誹謗するのではないが、わが輩は決してそうは思わんのである」(「大隈伯百話」)
となかなか辛辣であるが、その大隈もまた、西郷の純情と忠誠心だけはこれを認めているのである。
要するに、木戸によれば西郷は大局の情勢を洞察するには余りに封建的な地方主義に偏局しており、大隈によれば近代的な政治・行政上の実務能力をまったく欠いていた。
そして保守的な旧武士と階級によって、わけもなく鑚仰されるだけの厄介な存在であった。
すなわち、内村鑑三ならばそこに天資の魂の素朴さと純真さとを見たであろうところに、当時の俊秀な政府官僚たちは、たんに無能さを見ただけであった。
いいかえれば西郷は、近代国家とは何か、その操縦法はいかなるものかについてなんらの理解をもたなかったし、一般に当時の政治指導の主流をなしていた「文明開化」の必要に対して音痴であるとみなされていたわけである。功績主義の見地からすれば、西郷は無意味・有害な西南戦争をしでかしただけであり、せいぜい維新変革の当然に予定しなければならない近代化のコースを阻止しようとした純情な夢想家だったということになる。
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572




20160214  昨今の社会における不祥事について

A「最近はどうも閣僚、国会議員の不祥事による辞任、かつての野球スター選手の逮捕など、どうも社会全体が慌しいですね・・。
そして、これらの事件は何故この時期に集中しているのでしょうか?」


B「・・さあ、それは何故かわかりません。
しかし、それらを扱った報道、情報番組での取り扱いを動画サイトで見ますと、出演されている方々にあまり変わった意見もなく、また、おためごかし的、あるいは「騙された!」といった発言が多く見られ、あまり良い気分はしませんでした・・。」


A「ああ、それは私も同感ですね、しかしテレビといった芸能業界とは昔からそのような不祥事がつきものですから、彼等がどんなに声高にそういった主張をしてみても、どうも観ている一般の我々からすると空々しく観えてしまうのではないでしょうかね?
それよりも私は一連の事件について見聞きしますと「魏志倭人伝」に記されている「持衰」あるいはフレーザーの「金枝篇」における「殺される王」の記述を想起してしまいますね・・(苦笑)
そしてそういった一連のマツリを催しているのがテレビなどのマスメディアなのでしょうが、現今のネット社会の進化、発展により相対的に彼等(マスメディア)は自らの影響力の衰えを感じ、それでこうした一連のマツリ、事件を催しているようにも見えるのですが。」


B「・・はあ、それはかなり穿った見方ですが、たしかに一理あるかもしれませんね。
果たして彼等は何をもってそれらの事件を大ニュース(であるかのよう)に仕立てるのでしょうか?
また、現今のテレビをはじめとするマスメディアがインターネット上の様々なコンテンツにより圧迫を受け、その反応として一連の事件が大々的に取上げられるというのは、読者、視聴者が、より強い刺激を求めているという彼等側の架空の命題に応じる姿勢によるものではないかとも考えさせられますね・・。」


A「ええ、以前の彼等以外の情報発信媒体が存在しない時代においては、彼等はまさに「向かうところ敵なし」の状態であったのでしょうが、現在は海外メディアのサイト、あるいは国内メディアとは異なるものの、たしかな情報源となり得るような存在が独自で広く情報を発信することが出来る仕組みが存在しますからね・・。
そういった意味において現在の国内メディアとはある意味ジリ貧の状態なのではないでしょうか?
加えてテレビの報道、情報番組に出演されている多くの芸能人の方々の発言を聞いていても、インターネットなどで情報を得ている我々一般の人間とあまり変わりないような感じを強く受けますので、こうしたことからも、やはり何といいますか現在のテレビ業界をはじめとするマスメディア全般とは困難な状態に置かれているのかもしれません・・。」


B「はあ、なるほど・・そして今のお話を聞いて不図思ったのですが、現在のテレビ番組に出演されている方々は、その番組が動画サイトにて保存され全世界から視聴される可能性があることから、あまり変わった意見などを云えず、ありきたりな反応しか出来なくなってしまったのかもしれませんね・・。
そうすると、たしかにテレビ番組とは動画サイトといったインターネット上のコンテンツに押されているということになりますね・・。
また、そのような状態に立たされたテレビ等のマスメディアに係る方々は、自らの立場を有利にするために一体どのようなことをするのでしょうか・・?」


A「そうですね・・視聴者があまり疑問を感じないような状態になるように仕向けるか、あるいはインターネット上の様々なコンテンツとの共存をはかるのではないでしょうか?
しかし、これらコンテンツの中には国内マスメディアでは手に負えないような国際的な組織もありますから、それはそれで大きな負の側面もまたあるのではないでしょうか?」


B「なるほど、昨今の時代的潮流である国際化の影響により、国内のマスメディアも窮地に立たされつつあるというわけですか・・。
そうしますと、こうしたことは我々からは随分縁遠いハナシであると思っていましたが、案外そうでもないようですね・・。」


A「ええ、なかなか難しい時代になりつつあるのではないかと思います・・。
そして、そこで重要になるのが、情報リテラシーではないかと思うのです。
無論こうしたことは一朝一夕に身につけることは難しいと思います。
また私も仕事柄色々と考えることはありますが、それでも「自分は情報リテラシーを持っている!」と胸を張って主張することはできません(苦笑)
ですから、やはり歴史などの人文社会科学的な教養といったものを能動的に持続して学び続けるような態度が必要になるのではないでしょうか?」


B「まあ、多少Aさんの御専門の我田引水気味の主張のようにも聞こえますが、それでも仰ることには同意できます。
しかし、現在書店などに行きますと、ハウツー本のコーナーに「教養」「歴史」と表題した書籍が並んでいる状態は「どうも違うのでは?」と思うのです。
そして現在のいわゆる勉強ブームとは、これまでと同様、一過性の「様々な意匠」に過ぎないのではないかとも思いますが・・。」


A「ええ、たしかにそうであるかもしれません・・。
しかし、こうしたことはたとえ無意味である可能性が高いからといって、やらないよりかは、やった方が良いと思いますので、それでも良いのではないかと私は思っています。
ただ、それと同時に、上からの柔らかな圧力、世間体、空気などから生じる、いわゆる「優等生病」とは、近代以降の我が国を滅ぼしてきた一つの大きな原因であるとも思いますので、何とも難しいところですね(苦笑)
その意味において140年、139年前の「神風連の乱」、「西南戦争」に立ち上がった方々とは、現在の我々に比べて、少なくとも自身の信条に対しては忠実であったのではないかと思うことがあります・・。
そして彼等が政府軍の前に敗れたということは、日本近代の精神史にとって、どのような影響があったのであろうかとは、この時期になると不図考えてしまいますね・・。」