内村はその西郷論のサブタイトルを「新日本の建設者」としているが、おそらく汗牛充棟もただならぬ西郷論のうち、もっとも熱烈純粋な賛美をささげたものが内村のこの文章だろう。そこに描かれている西郷は、あたかも「天」の啓示をうけた「聖人哲人」のごとき存在であり、ほとんど、「クロムウェル的の偉大」をそなえた霊感的な人物であった。そしてまた、「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」でさえあった。
すべてそのような頌示を、内村はその素朴雄渾な文章に綴っているのであるが、おそらくこのよに単純明快な熱烈さをもって西郷を語ること自体、あたかも西郷のような人物が現在では見られなくなったのと同じように、今では失われてしまった一時代の精神の姿を記念することがらかもしれない。(これが書かれたのは明治27年のことである。)
しかし、西郷に対するこのような無条件の賛美ということは、おそらく現代の良識にとって、多大の抵抗感なしには到底容認しがたいことがらであろう。なぜならば、たとえば以下のような脈絡において西郷の歴史的な位置づけを行うことは、ほとんど一種の通念となっているからである。
「征韓論争は、日本歴史における一つの大きな山をなすものである。この論争による明治6年の政府の分裂、ひいては西郷、板垣、副島、江藤ら多数官吏の辞職にひきつづいて、士族の反乱は散発的ではあったが、またも激烈となった。
かくて主戦派の敗退の直接の帰結としてその直後の2年間には武装叛乱がいくたびか組織された。かように征韓論は結局内乱と西郷の死と膨張論者の一時的敗北に終ったが、しかし、この敗退にもかかわらず、外征の主張はその後永年のあいだ日本の極右反対派の採用するところとなった、西郷とその側近者の失敗から教訓を得た次代の膨張論者、たとえば福岡玄洋社の創立者らは反抗の新たな技術を完成し、侵略宣伝を高度化し、ついに西郷の死後20年にして膨張政策の目標を達成せしめることになった。」
このような見解-すなわち、西郷がもっぱらその後の日本の大陸侵略思想をインスパイアした最大の源流であり、同時にまた右翼的ファナチシズムの模範でもあったとする見方は、一般に西欧の日本研究者にとっては自明のことがらのようである。たとえば、オクスフォードのリチャード・ストーリイ氏もまた次のように書いている。
「西郷の武力によるプロテストは、もちろん彼自身の見地からすれば、決して反乱というべきものではなかった。
彼は天皇の意志に背こうとしたのではなかった。
なぜなら天皇は君側の奸によってその聖明を蔽われているのだから、西郷はかれらを権力の座から一掃しようとしたにすぎない。
こうした精神的態度は、日本古来の起源をもつものであるが、あらゆる極右国家主義者に共有のものであり、おびただしいテロ行為を自ら正当化する理由を提供したものである。・・西郷の反乱はある意味では日本の封建勢力の最後の抵抗であったが、しかしそれが極端なウルトラ・ナショナリズムの理念によってひきおこされたというかぎりでは、それは今なお黒い影をはるかな未来にまでなげているのである。」
すなわち、ここでは、おそらく国学者の一派によっていだかれた神国思想にもとづく膨張主義と、封建的ファナチシズムとのもっとも純粋な結合形態が西郷隆盛であるとされており、したがってその影響力は、先のノーマン氏の引用にあるようなプロセスをたどって、日本の超国家主義にもっとも純粋強力な作用を及ぼしえたと考えられているのである。
こういう解釈にしたがうかぎり、西郷に対する生理的嫌悪感のごときものさえいだかれるとしても不思議はないかもしれない。ノーマン氏のような純正な歴史家が、西郷の中にある忌まわしい原始的な要素-男色趣味をともなう未開性のごときものを感じとっていることも(幾分その後のファシストたちのイメージの遡及的投射という気味がなくもないが)それなりに理解しがたいことではないであろう。
ここでは、問題を浮き上がらせるために、西欧の歴史家の見解だけを引用したが、それが日本の近代史家たちの影響を多分にうけたものであることは、想像にかたくないはずである。日本の近代史家たちも、さすがにノーマン氏やストーリイ氏のように、西郷を直ちにファシスト的アウトローズの原型とみなすほど単純でないにせよ、西郷をもって近代日本のコースを反動的に逆転せしめようとした人物とする点においては、おおむね一致しているとみてよいであろう。
少なくとも、それ以外に、征韓論、西南戦争のシンボルとしての西郷を統一的に理解する視座はありえないとするのが一般かもしれない。
西郷に対する歴史家の冷淡さには、上述のようなファシスト的大陸侵略派の源流というイメージのほかに、もう一つの根拠がある。それはかんたんにいえば、彼が大久保利通や木戸孝允、伊藤博文や山県有朋に比べて、近代日本の造成にほとんどなんらの貢献も果たしていないではないかという評価である。なるほど、倒幕の軍事行動において西郷はかなりの役割を果たした。しかし。それさえも大村益次郎の指導力に比べればいくらか曖昧であるし、とくにその政治的能力にいたっては、ほとんど問題にもならないという見解がそれである。
この場合には、西郷は反動と侵略のシンボルとしてではなく、まさに近代的な思考力と知識の欠乏という点から軽んじられるのである。そしてそのことは、その当時の同僚たちもまた、折りにふれて言及したところであった。
忠実寡欲、ことにのぞみて果断あり、ただ短なるものは、当時の形勢に暗く、大体を見るに能わずして疑惑その間に生じ、一朝の憤怒を以ってその身を亡ぼし、その名を損う。実に歎惜にたえず、人世の大遺憾なり云々」
(「木戸孝允日記」)
「・・・余人らはここにいたりて頗る西郷を疑えり。彼はよし維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余らもまた尊敬しつつありといえども、その政治上の能力は果たして充分たりや否やという点につきては、頗るこれ疑えり。不幸にしてその疑念は一転して失望となれり。失望はさらに一転して苦心と変じたり。云々」
(「大隈伯昔日譚」)
この後者の批評は、岩倉使節団の外遊中、留守内閣をあずかった西郷の政治的無能を述べたものだろう。後年になっても大隈は「西郷も骨を故山に埋めてすでに三十年、とうとう歴史上の大英雄、大豪傑となってしまった。あえて誹謗するのではないが、わが輩は決してそうは思わんのである」(「大隈伯百話」)
となかなか辛辣であるが、その大隈もまた、西郷の純情と忠誠心だけはこれを認めているのである。
要するに、木戸によれば西郷は大局の情勢を洞察するには余りに封建的な地方主義に偏局しており、大隈によれば近代的な政治・行政上の実務能力をまったく欠いていた。
そして保守的な旧武士と階級によって、わけもなく鑚仰されるだけの厄介な存在であった。
すなわち、内村鑑三ならばそこに天資の魂の素朴さと純真さとを見たであろうところに、当時の俊秀な政府官僚たちは、たんに無能さを見ただけであった。
いいかえれば西郷は、近代国家とは何か、その操縦法はいかなるものかについてなんらの理解をもたなかったし、一般に当時の政治指導の主流をなしていた「文明開化」の必要に対して音痴であるとみなされていたわけである。功績主義の見地からすれば、西郷は無意味・有害な西南戦争をしでかしただけであり、せいぜい維新変革の当然に予定しなければならない近代化のコースを阻止しようとした純情な夢想家だったということになる。
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572