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2023年2月16日木曜日

20230215 青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋

青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B009752XV8

 二月十五日

頃日天候俄に一変し十二日以来激甚の寒気を加え雪を降らすこと連日此日に至り地上の積雪幾んと六七寸より尺余に及べり古老之を伝えて五六十年来未曾有の大雪なりと云う天已に此の兆を示す前途亦寒心せざるを得ざるものの如し而して此日を以て出陣の初日とす午前六時を期し練兵場に集合し同八時を以て進発するの予定なりしかば四千有余の壮士各結束し払暁白雪を蹴り続々として練兵場に至り各隊標示の下に会し篝火を焚きて其期を俟つ、斯て八時を報ずるや各隊順次繰出し一糸乱れず整々として練兵場を発し東西に分れて征途に上る其状甚だ勇壮なりき。

一番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町(八里)に至り二番大隊は東目街道より進み重富に休憩し加治木(五里)に至りて一泊す又別府晋介の統率せる加治木先鋒の一番二番の大隊は早天加治木を発し溝辺に休憩し横川(五里)に至りて一泊す。

二月十六日

此日雪前日より甚しく三番四番の大隊は予定の時刻を以て練兵場を発し三番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町に至り、四番大隊は東目街道より進み重富に休憩して加治木に至り別府の二大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口(六里)に至り、又二番大隊は加治木を発し溝邊に休憩して横川に至り、一番大隊は市来湊町を発し向田に休憩し阿久根(十里)至りて各一泊す。

二月十七日

降雪猶ほ前日の如し五番大隊及び砲隊は予定の時刻を以て練兵場を発し、五番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来に至る篠原国幹、永山弥一郎、池上四郎之と共にす砲隊は東目街道より進み西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、淵邊高照之を率い此日西郷隆盛は陸軍大将の略服を着し正帽を戴き刀を帯び草鞋を着け歩して田の浦に至る偶ま西郷の長男寅太郎一僕を従えて来り謁す西郷顧て曰く「来たか」と共に行くこと数丁西郷曰く「もう帰れ」と寅太郎猶ほ従い行こと数十歩僕之を止む寅太郎止むを得ず西郷に一礼して停立し其行を目送す、西郷亦屡途より之を顧み磯天神社の下に至る、西郷、淵邊高照に謂て曰く「旧君の門前に至らば諸兵宜しく一礼して過ぐべしと淵邊乃ち敷根市蔵をして之を伝へしむ、砲隊皆な礼して過ぐ西郷亦恭しく三拝して去る、重富に至りて休憩し加治木に一泊す、別府の二大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷(六里)に至り二番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り四番大隊は加治木を発し溝邊に休憩し横川に至りて一泊す又一番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水(四里半)に至り、三番大隊は市来湊町を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十八日

別府の二大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久(五里)に至り二番大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷に至り、四番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り砲隊及び西郷等は加治木を発して溝邊に休憩し横川に至りて一泊す、又一番大隊は出水を発し(休憩所不詳)水俣(四里半)に至り、三番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水に至り、五番大隊は市来を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十九日

別府の二大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川(六里)に至り、二番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、四番大隊は大口を発して(休憩所不詳)水俣に至り砲隊及び西郷等は横川を発して栗野に休憩し吉田(五里)に至りて一泊す、又一番大隊は水俣を発し湯の浦に休憩して佐敷(四里半)に至り、三番大隊は出水を発して(休憩所不詳)水俣に至り、五番大隊は阿久根を発して野田に休憩し出水に至りて一泊す。

二月二十日

別府の二大隊は小川を発し宇土に休憩し川尻(五里)に達せり、二番大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川に至り、四番大隊は水俣を発し湯の浦及び佐敷に休憩して田の浦に至り、西郷及び砲隊は吉田を発し人吉(七里)に至りて一泊す、又一番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、三番大隊は水俣を発し(休憩所不詳)佐敷に至る、五番大隊は午前八時出水を発して米の津に至り同九時三十分一隊二十艙の船に分乗し午後四時佐敷に着せしが、三番四番の大隊既に着陣し宿陣すべきの家屋なかりしかば海岸白岩村に至りて宿陣せり、此時熊本城下及び川尻駅焼失の風説あり是に於て三番大隊は午後七時更に佐敷を発し夜を冒して進軍し田の浦に至りて露営せり而して此夜鎮台兵城下を放火し戦備に汲々たるの情報至り続て別府晋介小川に来り川尻衝突の事を以て二番大隊と軍議を為せり。

2018年4月27日金曜日

20180426 970回目の投稿、ここ数日の投稿記事から悲劇の英雄と都会対地域の構図

今回の記事投稿により総投稿記事数が970に到達し、同時に1000記事達成まで残り30記事となります。そして今後もまた、現在の調子にて記事作成を継続することにより、来月中の1000記事達成がいよいよ現実味を帯びてきます。

とはいえ、今更1000記事達成とは書いてみましても、あまり現実味どころか高揚感らしきものも殆どないのが現状と云えます(苦笑)。そうした状況の中で記事作成が出来ているのは、これまで継続してきたことからくる惰性らしきものと、読んでくださっている皆さまの存在に因ると云えます。

また、それにも多少関連して昨日投稿分の記事は、ここ数日間の投稿記事内容を関連させたものとなりましたが、思いのほかに多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、そこで述べた内容は、特に銘記するまでもなく、あるいは意識の有無に関わらず、我が国の歴史の基層部に組み込まれている、流れているものであると思われます。

それは、欧米由来の近代学問がもたらした普遍的な歴史の発展様式とは異なった土俗的、情念的なものであり、また同時にそれは我が国の歴史の流れ、渦といったものを惹起させる作用をも持ち、端的に、それ抜きにして我が国の歴史は語れないと考えます(あまり声高に主張すべきことでもないのでしょうが、そこに民俗学の価値があるのではないでしょうか?)。

ともあれ、それは父権的な強さ、あるいは母性的な慈愛を備えた啓的宗教といったものを好まず、持たない我が国においては、浮遊し易い良心に対して錨のような効果を持ってきたのではないかと考えます。しかし他方で、時代が経過すると、そうした存在に対し、実在性の認識に由来する共感を抱くことが困難になり、新たなそうした存在を半ば無意識のうちに要請するようになるのではないでしょうか?

その意味において今年の大河ドラマが近代日本最大の悲劇の英雄とも云える西郷隆盛であることには、あるいは深い意味合いがあるのかもしれません・・。

しかし、これまでにも述べてきたことではありますが、そうした都会(概ね東京)発のメディアが発するコンテンツは、昨日分の投稿記事に挙げた歴史上の悲劇の英雄を扱う場合、その活動において最も特徴的であり、且つ注力すべきである悲劇の様相の徹底的な描写を意図的であるのか避けているように思われるのです。

何故ならば、多くの場合、そこには都会対地域といった構図が見え隠れしているからではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

あるいは地方が叛乱を起す程度にまで元気になられると国家
としては困るのかもしれません。そして、その意味での現在の地方創生・再活性化などは都会(概ね東京)発のメディアなどが牽引するのは、いくらか長い目で考えてみますと、あまり良い効果はもたらさないようにも思われるのですが。さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年とり
現在までに列島各地において発生した、あるいは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火などといった大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念しています。

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昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
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ISBN978-4-263-46420-5












2018年2月1日木曜日

20180201 文藝春秋刊 夢野久作著『近世快人伝』pp.27-30より抜粋引用

文藝春秋刊 夢野久作著『近世快人伝』
pp.27-30より抜粋引用
ISBN-10: 4168130460
ISBN-13: 978-4168130465
『維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断しようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。
その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参画し、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか、筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうではない。
事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖も北九州の青年ほど天性、国家社会を患うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺っていた位である。
有名な野村望東尼を仲介した西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は筆者の幼少の時に屡々、祖父母から語って聞かされた事である。
但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
 筆者の祖先は代々黒田藩の禄を喰んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか・・・という真相を明らかにするためには、どうしても左の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
一, 当時の藩公が優柔不断であった事。
二, 黒田藩士が上下を問わず人情に篤く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった・・換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
これは誠に怪しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実でもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚だしかった事が窺われるようである。
そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤皇派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤皇派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る・・といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変わるごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星しい人物は、ほとんど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの・・という情けない状態に陥った。
しかし世の中は何が仕合せになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後に於けると頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の闊歩の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。・・・何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中に日本人特有の生命も要らず名も要らず、金も官位も要らぬ底の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。従って歴史に現れない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しおく必要がないとは言えないであろう。』

2018年1月31日水曜日

20161004 昨日投稿の記事に関して および書籍からの抜粋引用「理科系の文学誌」【20180131再投稿】

本日のブログ記事は書籍からの抜粋引用を以って充てようと考えていました。
しかし、そのことを記した昨日投稿したブログ記事の閲覧者数が思いのほか増えました・・。
そのことから「本日も自分の文章にてブログ記事を作成するべきか・・?」とも考えてみましたが、ここで敢えて変更するのも如何なものかと考えた結果、本日投稿分の記事は、しばらく自身の文章をもって記したのち、書籍からの抜粋引用にしようと考えるに至りました・・(苦笑)。

さて、昨日投稿のブログ記事の閲覧者数が思いのほか増加したことは、自身としても幾分不思議であり「もの笑いのタネになっているのではなかろうか・・?」などといった不安も多少頭をよぎりましたが、もし、そうであるならば、とうの昔になっていたであろうと思われるため、このこと(昨日投稿ブログ記事閲覧者数の増加)の主要な原因とはイマイチよくわかりません・・(笑)。

いや、あるいは昨日のブログ記事に記したことなどは、案外読んで頂いている方々にとっては既に認識されていることであるのかもしれません・・(笑)。

私はこうしたことの認識に関しては、かねてより相当感度が低いと考えていますので、それもまた十分にあり得るかもしれません・・(苦笑)。

また、唐突であるかもしれませんが、それと同時に不図思ったことは「ブログのプロフィールに自身の顔写真を用いていることが、こうした出来事(考えの先取り、読まれている)と何かしら関係があるのかもしれない。」ということです・・。

これは考えてみますと、科学的な要素が見受けられず、かなり迷信的であるかもしれませんが、それと同時に、かつて西郷南洲翁(隆盛)は、自身の写真撮影を拒んだ(一生涯)というのも、あるいはこうしたことと何かしら関連があるのかもしれません・・。

それに加え、写真撮影ではありませんが、北隣の肥後(熊本)に出自を持つ徳富蘆花(健次郎)は、自身の悪い心が眼に表れているの(?)を見られることを防ぐため、黒メガネをかけ続けたということです・・。

これらの態度の背景には何かしら通底する要素があるのかもしれません・・。

とはいえ、これを検証する具体的な方法として、しばらくの間、自身の似顔絵をブログのプロフィールととして充ててみると、あるいは何かしら変化といったものが生じるのかもしれません・・(これもまた、わかりませんが・・)。

さて、これから先、これまでの内容的とはあまり関係がないかもしれませんが、昨日のブログ記事に記したとおり書籍からの抜粋引用とします。

工作舎刊 荒俣宏著 「理科系の文学誌」PP.284ー287より抜粋引用
『むかしの科学者や哲学者が、真理を教えるにあたって、よくたとえ話を用いたことは、この精神と関係がある。

あるいは、受験英語にこり固まった秀才が、英語の文章をスラスラと訳していたくせに、実際には文章の中身をまるで理解していない場合の(逆理)、これにもよく似ている。

結局のところ、素朴派の根本的な精神はボキャブラリーの問題にかかわってくるのだ。

物から出て、物へ返せない精神というのは、イメージをもたない精神の別名だろう。

「この方程式を使え」という指示が与えられさえすれば、七色の変数をあやつってみせる才人が、今度はたくさんの方程式を何のコメントもなしに渡されたときに当惑してしまう場合、かれには問題を設定するボキャブラリーがないと言っていい。

かれには、与えられた方程式という単一のボキャブラリーしかなく、そのボキャブラリーはボリュームとしていくら膨大なものでも、しょせん(単一)のものでしかないのだ。

したがって、与えられた方程式の深化と改善は図れても、それを乗り越える批判力までは持ち得ない。

ひとつの方程式を批判するためには、その方程式に用いられている内部の言語のほかに、別次元の方程式に属する言語を必要とするからである。

早い話、SFが旧文学の批判者としてそれを乗り越えようと意気込んでいたとき、SFの武器は何よりもまずこのボキャブラリーであったはずなのだ。

しかし、そのボキャブラリーは、文学的な修辞法の優勢といったケチなものではない。

そんなものの優劣は、要するに五十歩百歩の争いにすぎない。

旧修辞学の範囲内で見る作品の優劣は、相対的なものであって、こちらのほうがいつも絶対的に勝れているという言い方は不可能なのだ。

これを言うためには、旧修辞学を超えた別の美学体系に照らして、それが旧修辞学の極限にあることを証明する必要がある。

つまり超修辞学が必要なのだ。それを持たずに、同じレベルの用語で最高絶対を唱えることが不可能なことは、ゲーデルという人が不完全定理でもって立証している。

そしてここにボキャブラリーと呼ぶものは、この超修辞学を指すものといってよい。

つまりSFは旧文学よりも質的に多数のボキャブラリーを持つこと、あるいは科学の言葉を持つこと、それこそがSFの任務なのだ。

科学の言葉が使われ、さらに物質そのものの肉声までが文学の言葉と同質に使われるとき、SFならSFのボキャブラリーは、旧文学のそれを乗り越えることになる。

SFがジャンルとして成立する上での最も重要な意味は、本来そこにもとめられねばならなかった。

冒頭で出した例にしたがえば、今地球の山脈の出来かたを論じるにあたって、地球だけの発想によらず、ソラマメやカメや大脳の用語をも借りてくること。これがボキャブラリーの拡大である。

物から出て物に返す素朴派の精神もまた、このボキャブラリーをマルチ化する意志と同義だと言ってかまわない。

この場合、科学の素朴派とは、科学の言葉と詩の言葉を、そしてさらに言えば直観の言葉を自由に使える人間、という意味をもつだろう。

そういうわけで、ウェゲナーの「大陸浮動説」の根底にあった思考メカニズムも、やはり直観とひらめきとに無関係ではなかったはずだ。

目に見えるものに思考を返すこと。
つまり別々の大陸間に同じような生物相が存在する事実。
これを生物学とは別レベルのボキャブラリーで言い換えれば、もともとその大陸同士が陸つづきであったということだ。

そしてこの二つのボキャブラリーを貫く定数―それは当然ながら、陸地が割れて漂流したという歴史的事実以外のなにものでもない。

ところで、ウェゲナーの怪しげな説を日本人としてもっとも初期に採りあげた物理学者の一人に、ほかならぬ寺田寅彦がいる。

この懐手をした物理学者が漱石・子規門下生「吉村冬彦」という名のもとに別種のボキャブラリーを操っていたことは、おそらく偶然ではない。

それどころか、事物の実体験に即した科学精神として、かれは日本的風土の伝統的な思考をひきずっていたとも考えられる。

東洋における真理の伝達法、たとえば仏教やインド哲学に見られるたとえ話や日常オブジェを介したシンボリズムの使用には、当然ながら、この素朴派の直感的・体験的思考に通じるものがある。事物やたとえ話に思考を返して語ることは、悪い面もあるけれど、ボキャブラリーのマルチ化という点ではきわめて有効だったと言えるだろう。

極言すれば、東洋は観念として自然科学的事実と神秘的承認とを融合させることができたのである。

西洋では、多くの場合、一つのボキャブラリーは一つの人格に独占的に宿っていたが、東洋では一つの人格が複数のボキャブラリーを操ることもできた。

とくに東洋では、このボキャブラリーが生命と物質界を統合するという点で大きな役割を果たしていた。生命も物質もともに空に帰する一元的な世界像は、物質のなかの生物性(アニマ)と生物のなかの物質性という複数の用語を、体験の記述用具として最初から東洋人に与えられており、その状態がつい最近になるまで破れたことはなかったのである。』

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

また明日新たな台風が北部九州に接近するとのことです。
これによる地域の被害が出来るだけ軽微であることを同様に祈念します。

抜粋引用後に不図思ったのですが、もしかすると、我が国について特徴的である云われるタコツボ文化、ガラパゴス化などは、何かしら上掲文章の意味と関連があるのかもしれません・・が、皆様は如何お考えになるでしょうか?


2017年11月17日金曜日

20171116 英雄と逆賊 筑紫君磐井と西郷隆盛

九州の人々には『我々の祖先が日本古代史の幕を開けた』といった自負心がどこかにあるように思われる。

それは日本が未だ統一国家として成立する以前から九州北部諸地域は大陸、朝鮮半島と交易を行い、そして数多くの銅鏡、特に前漢鏡の出土がこの地域にて認められることからも実証される。

くわえて、福岡市の志賀島にて江戸時代に出土した金印『漢委奴国王』は、当時の文献とも符合し、当時(後漢・AD25~220)より交流が為されていた証拠と云える。
(奴国とは、現在の博多湾沿岸地域にあった古代国家の一つである。)

以上のことをも含め、大陸からのさまざまな文化事物の集積が為された九州北部は、地理的に大陸に近いという有利な点が大きく作用し、古代の文化先進地であった。

しかしながら、九州の人々にはそれ以上に『我々の祖先こそが日本で最初の新たな文化を創造したのだ』といった思いを大切にしたいという気持ちが強くあるように思われる。

こうした気持ちは古代国家群が統一され、政治、経済、文化の中枢が畿内にて形成されることによって、九州の人々にはさきに述べたような辺境意識が徐々に形成され、そして、さきの気持ちとの葛藤が生じると云える。

そして、そこで生じる葛藤こそが、さきに述べた九州の人々の中央に対する凝集性、求心性およびそれとは反対の遠心性の根源にあるものではないかと考える。

また、そうした辺境意識、葛藤に訴え九州の人々の心を鼓舞し、そして悲涙を誘うのが古代においては筑紫君磐井であり、また近代であれば西郷隆盛であると云える。

西郷隆盛は西南戦争後、明治維新における功績によって逆賊の汚名は返上され、英雄と見做されたが、筑紫君磐井は1945年以前の天皇が社会において、より重かった時代においてはあくまでも逆賊のままであった。

しかしその反面、地域においては、より身近な、正しいとも云える筑紫君磐井に対する態度は継承され続けた。

筑後国風土記逸文により筑紫君磐井の墓所と比定される福岡県八女市にある岩戸山古墳では磐井の乱以後も祭祀が為された痕跡が古墳周囲にて発見されている。

継体天皇の御代、六世紀前期における磐井の乱から1945年の太平洋戦争の終結に至るまで、この古墳が地域において残されてきたことには地元の方々の間で継承され続けた(筑紫君磐井に対する)温かい素直な気持ちがあったからではないかと思われる。

今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまで列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。


















2017年7月30日日曜日

20170730 7月で最も多く読まれた記事から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】谷川健一著「魔の系譜」より

7月も終わりに近づき、おそらく今月中に書かれた記事の閲覧者数も大きく変動することはないと思われることから、今月内で最も多く読まれた記事を取り上げます。

それは7月13日投稿分の「結社の地域性 自由民権運動および玄洋社から思ったこと」でありその閲覧者数(95)は次点の7月3日投稿分の「昨今の都議選から思ったこと・・『抑圧移譲』」閲覧者数(62)の1.5倍程度を示していました。

しかし、相変わらずのことながら、この7月13日投稿記事の閲覧者数が際立って伸びた理由とはよく分かっておりません・・(苦笑)。

また、この記事を投稿したことによって特に変な出来事が生じることもないことから、まあ、そこまできわどい、キケンな考えは書かれていないのではないかと思われます・・。

くわえて、その書かれている内容とは、思ったところを率直に述べつつも、かつてお世話になった九州に対して礼を失するといったものではないとも思われますので、あるいは、こうしたことが多くの閲覧者数に結び付いた要因であったのかもしれません・・(ちなみに昨日の投稿記事『地域特性≒在地土着女性の性質・・?【巫女】』もまた投稿翌日にしては比較的多くの方々(27)に読んで頂けました。)

何れにしましても、これらを興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、ここまで書いていて、不図思い起こされた書籍の記述がありましたので、以下に抜粋引用します。

講談社刊 谷川健一著 『魔の系譜』pp.185-186より抜粋引用ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

『わたしがここでいいたいことは、ただ一つである。
それは地方には地方を主体とした信仰と伝承の歴史とがあって、それは郷土史家や郷党のせまい視野や独善をはなれてみるとき、いわば地霊の叫びとして私たちに訴えてくるということである。
それは今にはじまったものではない。たとえば九州には磐井の反乱があった。
磐井という大豪族は蝦夷がそうであったように、九州中北部の民衆の代表者であったのだろう。
もとより支配者としての性格はもっていたが、それにとどまらなかった。
原田大六氏が述べているように、官軍が磐井の墓にある石人石馬をさんざんうちこわしたそのたたりとして、「古老伝えていう『上妻(かみつやめ)(上八女)の県に多く篤き疾(やまい)あるは、けだしこれによるか』」という『筑後国風土記』の文章は、この「篤き疾」を「深い恨み」「深い悲しみ」という意味をこめて考える必要があるのであったろう。
「地元側の報告を集めた風土記も所詮官選の記録であるから、逆賊あつかいにしてきた磐井の真実を語ることも載せることもできなかったろう。
しかし民間では真実の悲劇英雄物語が語りつがれていったのであろう。
八女郡地方の住民に岩戸山古墳を媒介として語りつがれた真実は、磐井への同情ではあっても、逆賊としてではなかったろう。」(原田大六『磐井の反乱』)
沖縄の八重山のオヤケ赤蜂は、首里王朝の遠征軍のためにやぶれ殺された。
その碑はいま石垣島の公園に立っている。その碑文を書いたのは同島の喜舎場永珣氏であるが、それによると、オヤケ赤蜂は自由のためにたたかった民権の士となっている。
私はそこに辺境に住む人びとのいつわらぬ心情をみる気がした。
歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていくことを否定する地霊の叫びを聞いた気がしたのである。』

私見ではありますが、こうした記述の意味をより深くから理解するためには、おそらくその地にしばらくの間(数年以上)住んでみる必要があるのではないかと考えます・・。

くわえて、抜粋引用部の『地霊の叫び』を理解していく過程とは、各々微妙に異なるのでしょうが、いずれにしても、数日間の旅行程度では到底理解することが出来るようなものではないと思われるのです・・。

しかしその一方で、我々の生とは有限であり、且つ何所かに定住し生きて行かねばなりませんので『畢竟、そうしたものは一種の道楽のようなものである』と断じることから、中央・地方間の相互理解・意思疎通が上手く行かないのではないかと思われます(これはなかなか奥が深い問題ではないかと思われます・・。)。

さらには、こうした事情とは国内に限らず国際関係においても同様ではあるまいかとも思われますが・・。

また、そうした不可避とも云える事情を視野に置き、思うことは、これまでに何度かブログ記事に書いていることでもありますが、日本近代史上最大の悲劇英雄である西郷隆盛をテレビドラマ化することは、さきの抜粋引用部末尾に書かれていた『歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていく』ではあるまいかと危惧されることです・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害など大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。









2017年7月13日木曜日

20170713 結社の地域性 自由民権運動および玄洋社から思ったこと

少し前に夢野久作著「犬神博士」を読んだことから、その著者である夢野久作こと杉山直樹について少し調べるにつれ、その著作(「犬神博士」)内での描写が(やけに)生々しいことに納得がいきました・・。

つまり、それらは著者御自身が実際に見聞き・体験した出来事を主たる題材として、この著作は書かれているのです。

そうしますと、自然、著作内に度々登場する当地筑前・福岡を基盤とした結社『玄洋社』に対しても興味が生じることになります・・。

とはいえ、この『玄洋社』とは、これまでに自身はまったく知らなかったわけでもなく、この結社あるいはその構成員とは、日本近現代史に関しての著作をある程度読んでおりますと、概ね登場してくるといっても良いといえます。

その上で、何故、この『犬神博士』を読了後に『玄洋社』に対しての興味が湧いたかといいますと、それは、これまでに自身が近現代史に関しての著作を通じて抱いていた『玄洋社』に対してのイメージと大きく異なるからであるといえます。

いささか通俗的な印象ではありますが、自身はそれまでに『玄洋社』とは、発祥の地、筑前・福岡(黒田藩)の地縁に基づいて結成された右翼・国粋主義的な結社であり、それはかつての大日本帝国の海外進出の先兵的な活動を表裏内外にて行い、また国内においては大資本、政党等の実行組織として、さまざまな国民に対する抑圧行為に加担したというような決して好ましくない印象を持っておりました。

また、それは現在においても、この結社とは、世間一般でいう『右翼団体の始祖的な存在』というのが通説といったところになっているのではないでしょうか?

しかし、その成立の経緯および活動などについて、未だわずかではありますが、関連書籍をあたってみますと『そればかりではないのではないか?』あるいは『なぜこうした変遷が為されたのであろうか?』といった、さきに書いた『イメージと異なる』ことから生じる違和感そしてそこから興味が惹起されたといえます・・。

加えて、その成立の経緯について考えてみますと、これまたいささか通俗的・通史的な解釈となりますが、西南戦争での西郷軍の敗北により、武力による明治政府の打倒が不可能であることが一般的な認識とされると『では、議会を開設し言論を通じて政府に対しての影響力を行使して行こう。』と考えたことから高まりを見せたのが土佐・高知を主たる基盤とした『自由民権運動』であるといえます。

そして、それと同様の時代精神の反応によって筑前・福岡にて結成された結社が、さきの『玄洋社』ではないかとも考えられるのです。

こうしたもの(反応の仕方)にもおそらく地域性があるのではないかと思われます。

ともあれ、この『玄洋社』の社則とは「皇室を敬戴すべし」・「本国を愛重すべし」・「人民の権利を固守すべし」といったものであり、私見ではありますが、これらは現在においても十分に価値を持つ理念であると考えます・・。

とはいえ
、二番目の『本国』とは一体どういった意味であろうか?とは考えさせられ、これもまた古来より異文化摂取の窓口とされた地域が持つ一種独特な地域特性の発露ではないかとも思われます・・。


また、この『玄洋社』とは、西南戦争にて敗れた西郷隆盛の遺志を継ぐといった側面もまたあり、これがおそらく西欧的な思想をその背景に据えたさきの自由民権運動と大きく異なるところではないかと考えます。

さらに西郷隆盛にて思い出されたのですが、来年の大河ドラマにおいては西郷隆盛が主人公とのことですが、現在のテレビドラマにて、この人物を史実に忠実に描くことは、かなり無理がある、困難ではないかと思われます・・。

そして、以前にもブログ記事にて書きましたが、それよりも西南戦争前後の土佐の自由民権運動、筑前の玄洋社などでの群像をドラマ化した方が、あまり無理はなく、且つ現在のさまざまな思想を持つ方々に対し広範に受け入れられる可能性が高いのではないかと思われますが、如何でしょうか?

そういえば、かつて司馬遼太郎が生前、その著作『坂の上の雲』のテレビドラマ・映画化を禁止していたのは、その内容から戦争賛美および社会の右傾化が惹起される危惧であったからであったと読んだ記憶がありましたが、この著者の危惧とは単なる杞憂であったのでしょうか・・?

とはいえ、その一方で、やはり昨今のアジア情勢とは多少混乱はしてはいるのでしょうが・・。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって亡くなられた方々のご冥福を祈り、また被災された地域の早期の諸インフラの復旧に加え、その後の速やかな復興を祈念しています。

2017年7月5日水曜日

20170705 内面にて生じる葛藤がブログ記事作成の原動力?【書籍からの抜粋引用あり:西郷隆盛および中江兆民】

本日帰宅後、既に恒例となっているブログの閲覧者数をチェックしてみますと、昨日と同様、自身としては多いと思われる閲覧者数(650程度)となっておりました・・。

昨日の記事においても書きましたが、やはり閲覧者数が多いと感じられると、その画面の数値から少なからず圧迫感のようなものを受けるようです。

そこから『今日は記事の作成を止めておこうか・・』といった感じにもなるのですが、同時にその一方で『これだけ読まれているのだから今日も何か書かなくては・・』といったアンヴィバレントな心情が内面において惹起されます。

その動態としての名称が『葛藤』であり、そしてまたそれが私の場合継続的なブログ記事作成に対する一つの大きな原動力になっていると云い得ます。

また、それに加えて、ブログ記事作成において、もう一つこうした『葛藤』を惹起せしめる大きな要素として、直近に投稿された記事に対しての反応として見られる読まれている記事の傾向であり、これらの(反応として読まれた)記事を多少注意深く見ていると、その関連性の軸となるものが透けて見えて来て、そこから時折、否往々にして新たな自身の思いもしなかった新たな考えが惹起されるのです・・。

このことはあまりブログ記事にて書かれることはありませんが、白状しますと、自身のブログ記事の多くとは、こうした『文語(記事)を介在させたやりとり』によって成立している部分がかなり大きいと評することが出来ます・・(笑)。

また、こうしたやりとりの中で、それが具体的な誰かによるものであると判断出来るものは(ほぼ)ありませんが、少なくとも一連のブログ記事を通じて自身のことをよく知っている、もしくは書かれた記事の内容をあるいは書き手よりもよく理解していることは判然と伝わってきます・・(笑)。

そして、その意味でこうした自身の作成した記事を用いたリアルタイムなやり取りとは、古の常陸国風土記、肥前国風土記に見られる歌垣、万葉集に見られる相聞歌とも底通する何かがあるのではないかとも考えさせられます・・(笑)。

そして、もしもそれがある程度妥当な意見であるとすれば、現在の技術であるPC・インターネットを用いて感覚面では古の遊びを行うということに何といいますか『人間の面白さ』らしきものを感じさせます(笑)。

さて、そういえば、昨今のニュースを多少見聞きしている折、面白いと思われた書籍の記述がありましたので、以下にそれを抜粋引用します。

文藝春秋刊 橋川文三著『西郷隆盛紀行』P.108より抜粋引用
ISBN-10: 4168130312
ISBN-13: 978-4168130311
『しかし、兆民の場合には、単に(西郷隆盛)惚れこんでいた、それだけのものではなさそうです。
中江兆民には、西郷さんの人物評価とは別に、もう一つ冷酷な目で権力の構造というものを見抜いていた面があるようです。
つまり、権力には、実現すべきある目的、政治の目的というものがある。
そして権力が権力として存在する以上、実現すべき政治の目的というものは、いつの間にかぼやかされてしまうことが多いわけです。
なぜかといえば、実際の権力というものは、現実の政治的必要から、いかにも本当らしい政治の目的を掲げる一面では、正義といった看板を掲げざるをえない。
けれども他面では、つまり、本当のところは悪いことをやると。
そうした権力自体が内在している、必然的な仕組みがあると思うのです。
どうも、うまくいえませんが、権力というものは、自分が掲げた政治の目的、いわば追求すべきものを、決して追求できないという性質を持っているのです。
ですから、権力が目的として掲げているものは、権力の本当の目的ではないのだと・・・。
そういうところが権力の実際だろうと思います。
だから、中江兆民の場合、当時の政治状況を脳裏に描き、保守派の島津久光の勢力と、西郷の声望を結ぶ延長線上に、権力顚覆の可能性を読んでいた。
要するに、権力のメカニズムというものをはっきりと把握しながら、西郷さんの担ぎ出しを策謀していたのです。
兆民は後年、自分を中国の張良をもって任じ、漢の高祖さえありせば、縦横無尽の腕をふるえるのにと嘆じたといいます。
そして、自己の才能を発揮させてくれる漢の高祖とは、西郷さんだったといっているわけです。兆民と西郷を論じますと、いろいろ複雑な問題が出てきますが、いずれにしても、中江兆民もまた、西郷隆盛に惚れこんでいたのはたしかなんです。』

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまで
生じている一連の列島各地にて生じている地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。





2017年6月1日木曜日

20170601 640記事 昨日の偶然の読書から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】

A「昨日ある書類を探していたところ、以前に購入していたラッセル著『西洋哲学史』全三巻が目につき、就寝前に第一巻を読みはじめてみたところ、どうしたものか大変面白く感じられ、そのまま10頁近く読んでいしまいました・・。

では『何故この著作を読み面白いと思ったのか?』とは、おそらくこの著作に現在自身が日常生活において接することがない考えが、流れるように、あるいは理路整然と述べられていたからではないかと考えます・・。

たしかにこうした文章を書くことが出来る人は先ず間違いなく凡人ではないと思われます・・。

また、おそらく現在の我が国において西洋哲学に対して、こうした文章を書くことが出来る研究者、著述家とは少ないのではないかと思われます・・。

とはいえ、多少これと類似する読後の感覚に持つに至る日本人研究者は、粘菌、民俗学の南方熊楠、アジア史の宮崎市定、解剖学、考古学の金関丈夫、そして近いところになりますと、数年前に亡くなられた考古学の森浩一あたりではないかと思われます・・。

もちろん、他にもそうした研究者、著述家はいるとは思いますが、あくまでも自身のこれまでの経験から述べることが出来るのは概ね以上の方々です。

また、丸山眞男、加藤周一などもその文章は大変優れたものであるとは思われるのですが、これらの方々は、それと同時に当時の政治情勢などとも、幾分浅からぬ関係があると思われるため、何と云いますか、その述べるところには、スンナリとは肯定、納得させない何かがあるのです・・。

とはいえ、それもまた特に思想などを扱う研究者においては大変重要な要素ではあるのですが・・。

そして、そのようなことを述べると『南方熊楠も少なからず当時の政治に対する言及があるのではないか?』と考える方々もいらっしゃるとは思いますが、南方熊楠の場合、自身が住み、慣れ親しんだ熊野、南紀の自然を守るための論陣であり、何と言いますか、その背景にある土俗的精神が、さきに挙げた二者とは大きく異なり、私見とはなりますが、それは西郷隆盛の土俗精神とも相通じる何かがあるのではないかと思われます・・。

そして、このように考えてみますと、近代以降の我が国とは、現在に至るまで、その意図の有無に関わらず、無意識的ではあれ、こうした地域毎の土俗精神を減衰させ、骨抜きにしてきたのではないかとも思われるのです・・。

また、こうした視点とは、実際に幾つかの地域に数年程度住むことにより、はじめていくらか実感を以って理解出来ることであり、その点において現在の自身とは、以前と比べると、多少内面が複雑になってしまったのではないかと思われるのです・・。

そして、さらには、こうした経験があることから、現在の自身とは、どうにか継続的にブログ記事の作成を行うことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。

また、このようなことを書いていて、不図思い出したのは、冒頭に挙げた著作からの一部分であり、以下にその抜粋引用を示します。

みすず書房刊バートランド・ラッセル著 市井三郎訳 『西洋哲学史』
1古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 P.3より抜粋引用

ISBN-10: 4622019019

ISBN-13: 978-4622019015
『スパルタにおいては、個人はほとんど自由を持たなかったし、アテナイにあっては、時として迫害がありはしたが、市民はその最良の時期には、国家の制約からの異常なほどの自由を持っていた。
アリストテレスにいたるまでのギリシャ思想は、都市に対する宗教的で愛国的な献身に支配されていて、その倫理の諸大系は市民の生活に適応させられ、政治的な要素が大きかったのである。
しかしギリシャ人が最初はマケドニア人に、次いでローマ人に従属することとなった時、ギリシャ人が独立していた頃にはふさわしいものであった倫理的諸概念は、もはや通用し得ないものとなった。
このことは一方では、伝統と訣別することによる旺盛な力の欠如を産み出し、また他方では、より個人的であまり社会的ではない倫理を産み出した。
ストア学派のひとびとは、有徳な生活というものを、市民の国家に対する関係というよりは、魂の神に対する関係として考えるにいたった。このようにして彼らは、キリスト教への道を準備したのである。』

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨年2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震により被害を被った地域の出来るだけ速やかな諸インフラの復旧、さらにその後の復興を祈念しております。







2017年3月20日月曜日

20170319 サムライについて『ところ変われば・・』

日本の男性に対する美称として『サムライ』というコトバが国際的にも認知されているようです。

もっとも、このコトバは戦前の特に太平洋戦争期の旧帝国陸海軍士官に対しても用いられていたとが、いくつかの書籍からうかがうことが出来ます・・。

時代によっても『サムライ』の示す意味とは微妙に異なっているのかもしれません。

とはいえ、国内に限定して考えてみますと語義的に『サムライ』とは、主に江戸時代の武士階級を示すものでありながら、国内地域によっても、これまた示す意味が微妙に異なっているのではないかと思われるのです・・。

これは自身が幾つかの地域に在住した実感に基づくものであり、特に学術的な見地によるものではありませんが、自身はそのように考えます。

中でも大阪南部、和歌山といった地域に関しては、江戸期、幕藩体制以前においては、複数の地侍(国人)集団(党)が協同合議して統治を行っていた傾向が見受けられ、その中には律令制以前より土着していた国造家といった豪族が含まれていることもあります。

また、そうした地域における統治の構造・形態の淵源を考えてみますと弥生・古墳時代までに遡ることが出来るのかもしれません・・。

そして同時に、こうした構造は、古代大和朝廷の基盤となった勢力の統治構造を考える際において示唆する要素が少なからずあるのではないかとも考えられます。

さて、ハナシを戻し、さらにこうしたことを考えてみますと、古くから在来の統治構造が保持されてきた地域に、新たな幕藩体制による統治組織(藩)が封じられた場合、当然、在来の統治構造と新たな統治組織の間で緊張関係が生じることが多いと云えます。

そこでの地域統治が上手く行かないことから改易、取り潰しになった藩も複数存在します。

それに関連して司馬遼太郎著『功名が辻』、『竜馬がゆく』などの小説にも書かれていますが、土佐藩の場合、新たな幕藩体制下の統治者として山内家と共に入国した家臣団が上士、それに対し在来であり滅ぼされた長曾我部家の遺臣団が概ね郷士という扱いになったハナシは割合有名です。

もっとも、こうした経緯も全て平和裏に行われたものではなく、相当の流血があっのだという・・。

それ故、幕末期に土佐藩の郷士(幕藩体制以前の長宗我部家の家臣)から多くの勤王(倒幕)の志士が現れたことは、ある意味歴史の必然であるとも云えます。

他方、紀州徳川家の場合、重臣の中にも在地特有の苗字が複数見受けられること、地侍(国人)集団(党)の軸となった古来から続く寺社が幕藩体制下においても尊崇を受けていたことから、新規、在来間の統治組織のすり合わせ、癒合は割合上手くいったのではないかと思われます。

その点において薩摩、大隅(鹿児島)は珍しく、鎌倉期にこの地に守護職として補任された島津氏が鎌倉期、南北朝、足利期、織豊期そして江戸期を通じ、一貫して、この地域を統治してきました。

無論、その間には幾度もの他国との抗争、国内での内乱があったが、それでもなお、この薩摩、大隅における島津氏の統治は崩されませんでした。

おそらく徳川幕藩体制としては、それまでの経緯からも、こうした統治の類例は認めたくなかったのではないかと思われるが、この僻遠の地(関東、東海から見て)に派兵し、無理にでも支配下に置き、そして改易とした場合に生じる危険性の方が大きかったのではないかと思われます。

ともあれ、それ故、薩摩・大隅(鹿児島)には、良い悪いは抜きとして古来からのさまざまな文化と共に『サムライ』と称するものも原初に近いカタチにて存続してきたのではないかと思われます。

そして、この原初からの『サムライ』が保持された薩摩、大隅(鹿児島)の勢力が、幕末期における時代変革の主要な推進力の一つとなり、同時に、それにより誕生した明治政府に対する最大の叛乱を起こした地域勢力でもあったことは、この『地域』(鹿児島)そして『サムライ』というものを考える上で何かしら示唆するものがあるのではないでしょうか?

また、以上のことから、あまり『サムライ』というコトバを安易に氾濫させること、それに加え、来たる2018年の大河ドラマの題材を西郷南洲翁(隆盛)とすることには、どうも漠然とした危惧をおぼえてしまうのですが、如何でしょうか・・?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年、熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念します。




2017年2月28日火曜日

20170228 初期に作成された記事を読んで思うこと 『著す』とは・・?

以前に読んだ本を久しぶりに手に取り、読んでみると、その中に引かれた赤線や殴り書きの註釈の意味が過去の自身が行った行為であるにも関わらず、分からないことがあります・・(苦笑)。

また一方、とりあえず500記事程度もしくは20ヶ月程度、ブログ記事作成を続けておりますと、自身が過去に作成した記事においても、そのような現象が生じることがあるのではないかと、不図考えることがあります・・(笑)。

とはいえ、現在日々、過去の記事を読み返し、適宜わずかな改変、修正を行い再投稿する限りにおいては、そうした現象に出くわすことはありません・・。

あるいは、これはこれで成長がないということになるのでしょうか・・(苦笑)?

その一方で過去の自身の作成した記事を読み思うことは、その作成された時季によっても若干の相異が認められますが、概して古い段階に作成された記事とは、最初期の対話形式からの延長であることから、ハナシの主題がよく飛ぶ、変化する文体であることが認められます。

こうした文体の場合、ハナシを無理やり繋げることに対し、あまり抵抗はありませんので、自然、ある程度の文量を比較的容易に書くことが出来るようです・・(笑)。

しかしながら、この傾向とは、昨今においても時折見受けることが出来、また自身としては、この傾向に対し危機感を持つことは、むしろ『記事作成』にとって危険なことではないかと考えます。

それ故、そうした傾向の文体で書かれた記事であっても、それはあくまでもブレ、偏差のようなものであると割り切り、あまり気にすることなく、目標とする600記事まで作成することに主眼を置くこととします・・(笑)。

また、それと同時に思うことは、以前も記事に書きましたが『初期に書かれた記事の方が内容的に深いものが多い傾向がある』ことであり、これに関しては、単純に初期の記事とは、その作成に割ける時間が相対的に多かったことによるものと考えます。

そのため、昨今においても、記事作成に割く時間が比較的多い週末に作成された記事とは、あとになり読み返してみても、平日に作成された記事に比べ、多少練られた感があるのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?

それと同時に、自身が表現したい内容、考えを文章としてまさしく『著す』という意味においては、初期作成記事に比べ多少は上達、洗練してきているのではないかとも思われます・・。

また、その意味においては、たしかに『継続は力なり』というコトバの意味の深さを多少考えさせられるところでもあります・・(笑)。

そういえば、ここまで書いて不図思い出したことは、本日作成の記事は先日再読した橋川文三の西郷南洲翁(隆盛)についての記述の抜粋引用にて充てようと考えていたことです・・。

白状しますと、こうしたことは、これまでの記事作成において、何度もありましたが、結果的には、どちらが良かったのかとは、なかなか分かりにくいものです・・(苦笑)。

さて、そこからハナシは飛び(笑)結果的にこれまでに作成した記事数とは、おおよそ550であり、1記事が大体1000字程度と考えますと55万字程度書いたことになり、さらに書籍からの抜粋引用をそのうちの半分として除きますと、おおよそ30万字弱程度自身の文章を書いてきたことになりますが、これは何かしらの影響、効果を文章作成の上達、洗練以外に自身に与えているのでしょうか・・?
こうしたこともまた、なかなか分かりにくいものです(笑)。

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




2017年2月26日日曜日

20170226 本質とは何でしょうか・・?【書籍からの抜粋引用あり】

今月二月ももうじき終わり、三月となりますが、ここで今月に多く閲覧されたブログ記事を取り上げてみようと思います。
これまでは、あまりそうした試みを行うことはありませんでしたので、いわば初めての試みということになります・・(笑)。

さて、今月作成した記事の中で最も読まれていた記事は2月4日に作成投稿された「どの程度の深さからの反応であるのか・・?」でした。

この記事に関しては、その主題が我が国社会が持つある種の傾向、特性を指摘したものであり、また、その内容全般に関しては特に加筆修正の必要性はないと考えます。

とはいえ、それと同時に思うことは、この記事に書かれた内容とは、あくまでも、我が国の首都圏、東京文化に対するものであり、あるいは国内他地域、地方においては、その内容とは、必ずしも適用することが出来るものではないのかもしれないということです・・。

また、本日が2月26日であることから考えることではありますが、現代において1936年・昭和11年のこの日に起きた2・26事件のことを何やら現今流行の経営戦略的な視点で論ずるのは、それがあくまでも国内の事件であり、対外的な戦争・戦闘でないだけにより一層何ともいえない苛立たしさをおぼえるのです・・(苦笑)。

また、三島由紀夫等が1970年・昭和45年に自衛隊市ヶ谷駐屯地にて盾の会事件を決行した主要な原因の一つとして、事件当時から既に社会に存在、顕在していた、そうした浅薄とも評し得る傾向に対する抗議の意味があったのではないかと思われます・・。

あるいはさらに時代を遡り、明治維新から神風連の乱、西南戦争に至るまでの西郷隆盛をはじめ同様の過程を経た、かつての志士達にもまた、それと類似する心のメカニズムが働いていたのではないかとも推察することが出来ます。

そして、ここまで書いておりますと、つい先日読みました司馬遼太郎の対談集「日本人の顔」での
江崎玲於奈との対談を想起しました。
以下にその部分を抜粋引用し、示します。

司馬「日本人のいい面といえば、原理性から離れたところで物事を運営するのがうまいということでしょうか。
たとえば、日本航空は優秀ですな。
パリあたりの空港で途方にくれている場合、日本航空だとわれわれ乗客を低能として扱ってくれて(笑)-ずーっと至れり尽くせり誘導してくれるでしょう。スチュワーデスの制服にしても、いかにもキビキビ、マネジメントしているだろうという感じでしょう。
何だか昔の帝国海軍を見ている感じで、変な感じがするほどですね。(笑)」

江崎「日本航空は、一つの国策会社ですからね。(笑)」

司馬「運営という点で磨きあげられている感じがあって。
だけど独創的なところはないんじゃないですか。
椅子など機内の備品類でもよく磨いてありますね。
幕末に西洋から航海術を受け入れたころから、日本人は船内を清潔にせよという技術的習慣を学んだ。
だから飛行機でも、スチュワーデスは自分の担当の備品をきれいにする。
ところが非常に衛生を重んじるドイツの旅客機に乗ると、衛生はきちっとしてしているけれども、椅子など金属のところに傷がついていたり、その傷に黒っぽいアカがたまっているような感じだったり、何か汚らしい感じがしますが、日本のエアラインなら、ちょっとでも汚れるとすぐ新品ととりかえてしまう感じがありますね。
ドイツ人には、見かけは汚くても、衛生的であればいいんだという思想がありますでしょう。つまり衛生という原理さえしっかりしてればいい。」
(中略)
司馬「私が「坂の上の雲」という作品を書いていたとき、古い海軍さんに教えを請うたんです。
その海軍さんの話だと、ソ連の巡洋艦が寄港したとき、みんなで乗せてもらった。
ソ連の海軍はどんなレベルかと思って、ある人は船室の隅をほこりがついてないか指でなぜてみたというんです。
私は海軍のことは知りませんが、海軍さんはそうやって水兵をいじめていたそうですね。
これはイギリス海軍の伝統だそうで。
イギリス海軍は、船内を隅から隅まできれいにすることによって、自然に普遍的な海軍倫理をつくり上げていった。と
ころがイギリス海軍をお手本にした日本海軍は、清掃自体が至上命令のものになってしまった。
本来はそんなことはどうでもいいことですよ。
ソ連人が乗れば、汚く乗っていたっていいんで、その巡洋艦の機能さえよければいいんですが、日本人は非常に技術の末梢的なことを重要視することで精神性を見ようとしますね。」

江崎「研究所にしても、きれいとか汚いとかの観念が西洋人と日本人とではだいぶ違うんじゃないですかね。
アメリカのわれわれの研究室は、壁なんか必要以上に塗りかえるわけです。
日本では塗りかえなんかはしないでぞうきんで一生懸命にふく。清掃すること自体に重きをおく。実際にきれいになるかどうかよりもね。

司馬「本質にいたらず、末梢にかかずらわってしまう。」

さて、上掲の抜粋引用部はその前に書いた記事主題の本質と多少は関わっていたでしょうか(笑)?

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。






2017年2月15日水曜日

20170215 眼の疲れおよびその改善から思ったこと・・

丁度140年前の1877年(明治10年)の本日2月15日、西郷隆盛を大将とする軍勢が東京の中央政府に向け出立しました。
そして、これが直接の契機となり、西南戦争がはじまりました。
その日は雪が降っていたとのことです・・。

さて、先日来より、どうも瞼が痙攣し、また眼の疲労感が続くため、色々と自分なりに試してみたところ、ここ最近遠くのものに焦点を当てて、ものを見るということをすっかり忘れていたことが思い出されました・・(笑)。

その後、意識して電車内などで遠くを見るように心掛けてから、この瞼の痙攣、眼の疲労感は大分改善されました・・。

そのことから、普段あまり意識しないで行っている行為の中に実は大切なことがあると改めて認識した次第です・・(苦笑)。
また、それに加え、普段目にする景色、景観とは、なかなか重要なものであるのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと鹿児島在住の頃は高温に熱せられた炉の中を覗いたり、同じく高温に調整されたバーナー炎を見ることが日常的にありましたが、やはりそれらの際とは、それなりに眼に負担をかけていたものと思われます・・。

それに加え、時間のかかる試料作製、実験の際は関連する先行論文、書籍などを作業合間に読みながら行っておりましたので、当時の方が余程眼を酷使していたのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかしそれでも、当時は現在ほど、こうした眼の疲れを意識しなかったことは、単純に現在よりも若かったことによるのか、あるいは多分にそれらを楽しんで行っていたからであるのかもしれません・・(笑)。

そして、そのように考えて敷衍してみますと、二年前より継続し作成しているこのブログとは、たしかに現在でも度々その作成を面倒と思う反面、ここに至るまで疲労により挫折せず、どうにか継続出来ていることは、本質的に文章作成が好きであるからこそ可能であったのではないかとも思われるのです・・(笑)。

とはいえ、こうした自己に対する何かしらの判断とは、自他何れからによるものであれ、慎重に為されるべきであると考えますので、断定は差し控えますが・・。

そして、これもまた断定は出来ませんが、昨今よりの観察により、少なくとも投稿直後に多く読まれる記事とは、書籍からの抜粋引用よりも自身で作成したものの方が相対的に多いようです・・。

これは記事作成者からすれば嬉しいことであり、またそれがこれまでの継続を可能にした主たる外的な要因であるのですが、よく分からないことは「それらの記事が一体どのように読まれているのか?」ということです・・。

とはいえ、このことは特に現在突き詰めて考える、詮索する必要性もありませんので、あまり考えることはありません・・。
しかしながら、一方で時折発見する直近に投稿した記事に対する反応としてか関連、対応する内容の既投稿記事が示されることがあるのです。

こうした反応が可能な方とは一体どのような人間であるのか?あるいはどの程度の知的作業によりそれら反応が為されているのか?とは、記事作成者側からすれば、自然、なかなか興味深く思うところなのです・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

最近は岩波文庫版のジュール・ヴェルヌ著「海底二万里」上巻を読んでおります・・。

また、読んで頂いている皆様も時折は眼を十分に休ませましょう・・(笑)。

自身の場合、未だ慣れないためかスマホの画面は眼が特に疲れます・・。

昨年2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








2017年2月14日火曜日

20170214 読んで頂いていた記事から・・主に書籍からの抜粋

丁度140年前本日の鹿児島の街とは大変なことになっていたのではないかと思われます・・。
明日2月15日とは西郷隆盛率いる軍勢が東京に向けて発った日です。
その日はこの地域のこの時期にしては珍しく雪が降っていたとのことです・・。
その当時の鹿児島には一体どのような『気風、精神風土』といったものがあったのでしょうか?
ここまで書いて不図、ある著作の一節を思い出しましたのでそれを下に示します。
そしてその内容に『地域の歴史を貫く何か』とは幾分含まれているのでしょうか・・?」

金関丈夫著 岩波書店刊 「発掘から推理する」pp.13-17

「中国の文献んで辺境の民族のことを記載するものに、しばしば「男逸女労」、すなわち女が労働す、男は遊んで暮らすように書いたものがある。台湾の高砂族や、琉球島民に関するものにも、その例が多い。
高砂族は最近まで、あるいは今なお、男は原則として労働はしない。ただ三年に一度、焼畑をするときに、山刀で山の木を伐る。これがほとんど唯一の労働である。
しかし、彼らは三年に一度の労働以外に、何もしないのではない。狩猟をする。それから、今は止まったが、敵対部族と戦争をする。そして、少なくとも一生に一度は、儀礼用の首狩りをする。
これが男の仕事だ。
狩りも戦争もないときは、のらくらと煙草をふかして遊んでいる。
ときどき子守りをおおせつかる。
その生活は江戸時代のさむらいそっくりだ。
といって、主君もちの養われ者ではない。
貧乏ではあっても、手内職をやるような落ちぶれ者でもない。さむらいの中でも、最も純粋なものだといえよう。
だから、日本の巡査どもが、道路を造るといってはひっぱり出す。宿舎を建てるからといって材木を担がせる。元来がさむらいの仕事ではない。強制と多少の賃金のほしさから、やるにはやるが、いさぎよしとしているわけではない。その賃金をごまかされたり、強制が過酷だったときに、山刀をふるって、役人どもの首をちょん切る。これが昭和五年(1930)の霧社事件の発端である。
大和朝廷が隼人を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることさえ知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。
それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ、反乱以外に彼らの歴史はない。霧社の山人に霧社事件以外の歴史がないのと同様である。
昭和三十三年(1958)の夏、薩摩揖宿郡山川港付近の、成川の遺跡を発掘した。厚い火山灰砂層の下に、たくさんの隼人どもが眠っている。その文化は弥生期の終末から古墳期のはじめのものだから、ほぼ三世紀の初頭のものだ。
これを隼人と呼ぶには問題があろう。しかし欺かないのはその体質だ。頭は短頭で、身長は低い。頭形示数も推定身長も、現在の山川港付近の住民のものと、ぴったりと一致する。
脛骨のひどく扁平なことだけが、今の連中とちがっている。
これは彼らが脚の筋肉を今の連中よりもよく使用した、その生活の差からきたちがいだ。
三世紀から今日まで、薩南の住民に入れ替わりがなかったとすれば、その中間にいた隼人の、彼は近い祖先だということになる。
おもしろいのは、成川遺跡人の副葬品である。
男にも女にも、明らかに服飾具といわれるものはなに一つない。
男の墓には、ほとんど残らず鉄製の武器がある。
これだけ徹底的に服飾品がなく、またこれだけ旺盛な武器のでた遺跡は他にない。
その一角に立って見渡すと、古書にいう「男児辺野に死をいたす、馬革しかばねを包んで還葬さるべきのみ」といった気分が、この墓地にはみなぎっている。
彼らが尚武の民であったことは一目瞭然だ。その剛健の風は、婦女子にも及んでいた。真に薩摩隼人の名にふさわしい。
その当時彼らが、自らをハヤトと呼んでいたかどうかはわからない。
ハヤトはおそらくは他称で、自らはツォーあるいはこれに近い音で呼んだであろう。ツォーは熊襲(クマソ)のソウで、インドネシア一帯では「人」あるいは「我ら」をさす。
すなわち自族を意味する自称である。
「肥前国風土記」は、値賀島の白水郎(あま)は隼人に似て、その容貌や言語は、普通人と違っているといい、「大隅国風土記」にのこる隼人の語彙は、多くの学者によって、南方語に結びつけられている。
これだけで直ちに、隼人が南方渡来民だというのではないが、彼らが南方語を使用していた疑いは濃厚である。
その疑いの一つを挙げると、薩摩や大隅の地名で、ここには頭にイの音をいただくものが多い。藺牟田、伊佐、伊佐敷、市来、入佐、入来、伊集院、納薩、伊作、指(揖)宿、伊敷、伊座敷などがそれである。
これらは日本語としては、意味のとれないものである。
一方例は少ないが、他の地方では見られない知覧、知林のごとく尻が撥音で終わるものがある、これも意味はわからない。
ところで、頭にイをのせ、尻でラン、ロンをひびかす地名は、琉球をへて、台湾の東海岸から、フィリピン、さらに南方には非常に多い。
地域内にも連絡があり、台湾以南では、それがインドネシア語の地名であるわけだから、これから推理される結果は、いわずとも知れている。
「国造本紀」には仁徳朝に、薩摩にヲサすなわち通訳官のいたことが記録されているし、「続日本紀」には養老六年(722)に、大隅薩摩の隼人の乱の平定に功のあった通訳官に、勲位を授けたらしいことが見えている。
この記録の解釈が正しければ、八世紀なってもまだ隼人との折衝に、通訳を要したことになる。
ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなく南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。
爛熟した文明の頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」




2017年1月2日月曜日

20170102 「帰ってきたヒトラー」を観て思ったこと

A「正月休みということもあり、久しぶりに映画をDVDにて観ました。

題名は「帰って来たヒトラー」というドイツ映画ですが、これはかなり面白かったです。
「ドイツ人はコメディのセンスがない」といった評価があるようですが、この映画を観る限り少なくとも最近はそうでないのかもしれない・・と考えさせられます。

また、どうやらここ数年は、世界規模にて時間・空間の移動といった主題が流行っているのかもしれないとも考えさせられました・・。

であるとすれば、ハナシは先日来の大河ドラマ題材に戻り、その主題を現代にタイムスリップした西郷南洲翁(隆盛)とするとなかなか面白いのではないかと思いますが如何でしょうか・・?

そのように考えてみますと、さきの「帰ってきたヒトラー」においては、タイムスリップしたとしても、その政治的手腕は社会において発揮され、徐徐に権力に近づいてゆくさまが描かれ、またそれが、おそらく現代のドイツ社会に対するある種の警鐘であると同時に喜劇でもあるのかもしれません。

それに対し、西郷隆盛を現代の我が国に甦らしたとしても、その手腕、個性などは、どの場面においても発揮されず、むしろ幕末維新期に活躍した西郷隆盛としては悲劇的な結末に至るのではないかと思われます・・。

それほどに我が国とは何といいますか、現世重視、此岸性の強い社会であり、過去において大事とされた事物を現在において有益でなければ躊躇なく投げ捨て、忘却することが出来る性質を持っているのではないかと思います(断捨離など)。

もちろん、これは自身をも省みて書いていることであり、また、良くも悪くも我々とは、そのような性質を持っているのではないかと考えるということです。

そして以上のことを踏まえ西郷隆盛を現代にタイムスリップさせると、さきに記したような結末になるのではないかと思うのです・・。

とはいえ、こうしたことは全て、あくまでも仮定のハナシであり「帰ってきたヒトラー」に関しても、もしも実際にそのような現象が生じたとしても、果たして、そこまで首尾よく行くことはないのかもしれませんが・・。

そして、ここまで書いていて不図思い出したのは、太平洋戦争後もなおフィリッピンのルバング島にて戦争が継続していると信じて戦っていた帝国陸軍将校のことです・・。

実際のタイムスリップとは難しいのかもしれませんが、さきに述べた事例(戦後30年近く経過の後の(かつての)戦地からの帰国)とは、一種のタイムスリップ状態といっても良いのではないかと思います・・。

そして、このタイムスリップ状態を経験した元帝国陸軍将校は、帰国した我が国社会でのさまざまな価値観の変化に違和感を感じ帰国後一年も経ずに海外へ移住しました・・。

こうした事例を考慮してみても、さきに挙げた「西郷隆盛が現代の我が国社会に蘇ったら」という仮定とは、少なくともハッピーエンド的なものにはならないと考えるのです・・。

こうしたことから、現在の我が国社会とは、果たして同じ社会において称揚されている、偉人とされている方々が持っていた思想・理想に多少は叶っているのであろうか・・?と考えてしまうのですが、果たしてどうなのでしょうか・・?

とはいえ、こうした疑念とは決して現在の我が国社会に対する悲観(のみ)から生じているものではありません。

また、時にはこうしたこと考えてみることもあながち無意味なことではないと思うのですが、さて如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございました。

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




2017年1月1日日曜日

20170101 昨日の続き「人間力」「つじつま」について・・

本日の首都圏は元日にしては気温も上昇し、日中に関しては比較的過ごし易かったのではないかと思います・・。

また、このブログ記事に関しても本日の投稿は止めておこうと考えましたが、さきほどブログ閲覧者数を見たところ、思いの他多くの閲覧者を得ていたことから、書くことに決めました。


昨日のブログ記事においては西郷南洲翁(隆盛)のことを題材として取り上げました。


しかし、よくよく考えてみますと西郷隆盛に限らず、多くの歴史上の人物の個性・性格とは、関連するいくつかの書籍、資料などを読んでみますと(最近のテレビドラマのような)安易な解釈が出来なくなるように思われます。


このことを異言しますと、その人物の行った業績と個性、性格との間に矛盾が見られ、つじつまが合わないことが多いのではないかということです・・。


また、そうした個性、性格を持つ人物が比較的多く見出され且つ、現代に一番近い時代が、幕末維新ではないかと思います。


おそらく、この維新回天期とは、江戸時代、封建制の枠組みに抑えつけられていたさまざまな個性、性格が、枠組み(封建制度)の劣化、弱体化により、そのエネルギーがあふれ出てきた時代であったのではないでしょうか?


そうした時代では(封建)制度内においては有効であった個性、性格よりも、より総合的な現代でいうところの「人間力」を持っている人物の方が活躍する可能性が高いのではないかと思います。


そして、西郷隆盛をはじめ、日清、日露戦争(明治維新~太平洋戦争敗戦の前半部)あたりまでに活躍した我が国各界首脳部の多くとは、主にこの「人間力」がその後の時代の我が国各界首脳部に比べ高かったのではないかと思います。


「ヒトが制度を作り、そしてその後は制度がヒトを作る」と云いますが、近代以降の我が国とは、ヒトが制度を作っていた時期(明治維新~太平洋戦争敗戦の前半部)においては、比較的上手く国を運営することが出来ていましたが、その後、制度がヒトを作る時期(同後半部)に入りますと、何といいますか、つじつまは合っているが小さくまとまっている人物たちが各界首脳部におさまるようになり、彼等が国政を主導した結果として、数々の失策に続き、太平洋戦争の敗戦に至ったのではないかということが出来るのではないでしょうか?


そして、そのように考えてみますと、焦点を当てるべきは「ヒトを作る制度」ということになると思われますが、それをより具体的にいうと「教育制度」ではないかと思います。


しかしながら、昨今はいざ知らず、少なくとも近代以降の我が国の教育制度とは、概ね高い水準を維持してきたと国際的な見地からも認識されている(た)といって良いと思います・・。


そうしますと、その「教育制度」の中の如何なる要素が個々の「人間力」の増進に寄与しない、あるいは劣化させたのかと考えてみますと、それは初等、中等そして高等教育と段階分けされる教育制度全般のなかで特に高等教育において、そうした傾向が強いのではないかと思われます・・。


とはいえ、こうしたことは同じく昨今、さまざまなところで主張されていることではありますので、ここで特に強調しておきたいことは、そうした我が国高等教育の変革の必要性が認識されるにしても、その具体的な変革が反知性的な方向に舵を切らないようにした方が良い、あるいは卒業、修了後の社会において必要とされる技能、知識の獲得により重点を置くことは、むしろ歓迎すべきことではあるのですが、同時にそれが教養といった『ある種の学問への能動性』の活性化に寄与せず、逆に、その芽を摘み取ってしまうことにならないよう細心の注意をもって推し進めて頂きたいということです。

そして、これが現今の我が国高等教育およびその変革において重要なことではないかと思います。

また、追記すると、近代以降の我が国とは、そうした(一見些細な)ことを蔑ろにした結果、毎度、変な方向に行ってしまっているのではないかと思われることがあります・・。


とはいえ、これもまた煎じ詰めますと、我が国の極度に此岸性を重視する性質(国民性としての執拗低音、バッソ・オスティナート)の結果であるのかもしれませんが・・。



さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

20170101 新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
さて、来年(2018)の大河ドラマは西郷南洲翁(隆盛)を主人公にしたものになると聞きました。
ここ数年私は大河ドラマを視聴しておりませんので、あまり関係ありませんが、西郷隆盛とは、我が国の近代史において、その評価が難しい人物の一人であるといえます。

そして、その評価を難しくしている原因を端的に述べると、西郷隆盛の人格形成とは、前近代の封建時代たる江戸時代末期に為され、維新回天期に大いに活躍し、そしてその結果誕生した明治政府に対し、その同じ人格がさまざまな矛盾(自身の思想・理想からの)を感じ、下野そして、周囲の強い要望もあり明治政府に対し反旗をひるがえし、近代日本史上最大の内乱といえる西南戦争に至ったことにあるといえます。

つまり彼は近代日本(明治政府)の立役者の最重要人物の一人であり、同時にその設立された明治政府に対し近代日本史上最大の叛乱を起こした人物でもあるのです・・。

そのように書きますと、たしかに、そこには一人の人格の中に何かしら矛盾した要素の存在が看取され、それらを包括した一人格としての評価を困難にし、また、その人生をうまく描くことをも難しくさせるのではないかと思われます。

とはいうものの、これまでに西郷隆盛の人生を描いたさまざまな作品がありました。

私はそれら全てに目を通したわけではありませんが、鹿児島に在住した経験に基づいてかつて目を通したそれら作品を考えてみますと、それらの多くには何か大事な視点が描き切れていないのではないかと思われるのです・・。

そして、その大事な視点とは、西郷隆盛の人格形成が如何なる環境で為されたかということです。

このことは、他の多くの薩摩藩に出自を持つ明治政府の元勲、高位高官、西南戦争で西郷軍側で立った方々に関しての記録、書籍などを読んでみると、ある程度最大公約数的に分かるのではないかと思います。

さらに、実際その土地にある程度の期間住むことにより、その環境といったものを知性のみならず、感覚的にも実感にもとづき、ある程度理解することができるのではないかとも思います。

その意味において、私見とはなりますが、鹿児島とは、今なお西南戦争の記憶が強く生きている地域であるといえます。
あるいはそれは古代以来、南九州勢力の中央政権、覇権勢力に対する反乱の一つとしての記憶であるのかもしれませんが・・。そして、そうした反乱のなかで首尾よく成功してしまったのが明治維新であったのかもしれません・・。

さて、維新回天期(戊辰戦争)において東北諸藩、ことに会津藩が受けた苦痛、被害は甚大なものであったことはさまざまな史料が伝えるところではあります。

そして、その主要な敵役の一つであった薩摩もまた、そこからおよそ十年程度後に同様、あるいはそれ以上の苦痛、被害(西南戦争)を受けることになったことには、何かしら意図せぬ歴史の詭計以上の運命的なものを感じさせます。

このことは、特に鹿児島、薩摩について考える際に大変重要な視点であると考えるのですが、同時に理知的な文章による説明はどうも困難さをおぼえてしまうのです・・。

とはいえ、先を続けて書きますと鹿児島、薩摩とは、何かの策を相手に為すにあたり、先ず自らが相手と同化して、そこから相手を徐徐に自分のペースに持っていき策にはめるといったところがあるのではないかと思われるのです・・。

そしてその見方によれば戊辰戦争と西南戦争の間には、そういった関係があるのではないかと思われるのです。

また、それは狸と狐の人のばかし方の狸に近いのではないかと思うことがあります・・。

ともあれ、こうしたある種の(醸成された)地域性により、その地域の歴史は展開していき、さらにその集合体である国の性質から、その歴史は外部作用との種々反応により展開していくのではないかと思います。

さて、そこでハナシを戻し、鹿児島・薩摩地域を代表するといっても良い西郷隆盛を大河ドラマの主人公として扱うのは、かつて司馬遼太郎原作の「翔ぶが如く」がありましたが、特に現在においてはなかなか難しいのではないかと思うのです・・。

そうした、何といいますか激動の時代を生きた人間像を扱いたいのであれば、むしろ西南戦争以降、不平士族のエネルギーが向かった自由民権運動、国粋運動などを、ある地域、団体などを基軸として扱い群像劇的なドラマとした方が現在の我が国では面白いのではないかと思います・・。

いずれにせよ、諸文化の先端をいく洗練された首都圏、東京のメディアが原作は何であれ、都市(東京)と地方の(主に経済的)格差が広がりつつある現代において西郷隆盛をテレビドラマの主人公として描くことに私は漠然とした危惧をおぼえます。
たとえそれにより鹿児島に観光客が増え、多少経済的な効果があるとしても・・・。
特に西郷隆盛とは(現在の)テレビドラマ化というある種の安易な普遍化により消毒あるいは人畜無害化されてはいけない人物であると思うのです。

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。

中江兆民著「三酔人経綸問答」
白洲正子著「白洲正子自伝」
野上彌生子著「迷路」上下巻
竹山護夫









2016年10月8日土曜日

20161007 岩波文庫刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.199ー201より抜粋引用

『維新の風雲に乗じて功を成した薩摩派の顕官を父とする後嗣の宮内官は、生みの母の前身を軽蔑して、息子らしい情愛はみじんも示さなかった。

丹羽家においては、麻の葉模様がタブウであった。
着物でも、器具でも、手拭のようなものに至るまで、麻の葉模様をつけたものは厳禁された。
正夫人に直らないまでの母が、薄紫の麻の葉絞りの半襟を好んでかけていたのが、当主の宮内官に屈辱的な思いでをとめているためである。

祖母自らの極端なお上品ぶりも、似たような細心な警戒から来ていた。そうして美しさと悧巧さで、まことに名門の出にひけを取らぬ自然な品格を拵えあげたとともに、五つで母を失った時からその手に引きとった孫娘をも、自分の教育法で訓練した。

その意味から三保子には祖母が母親であり、艶麗さもそっくり受けついだ。彼女は祖母と別邸に住まった。

吉良は勉強を見に来てくれた、同じさつまっぽうながら、祖父が十年戦争に西郷方について以来の不運が祟っている、遠縁の貧しい大学生であった。

祖母が彼に優しかったのは、本邸の冷淡にそれとも凛々しく頼もしげな青年が自分でも気に入っていたのか、両方であったに違ない。

どちらから引いたとも、引かれたともわからず。相寄る若いこころに水を注そうとしなかったのみか、夏休には、箱根の別邸に吉良を内緒で呼んでくれたりもした。

祖母の好意のみが恋人たちには頼みの綱であった。父や継母の反対はわかりきっていたが、祖母だけはきっと二人の味方になってくれるであろう。

しかし阿藤家との縁談に際して、もっとも無慈悲に振舞ったのは祖母であった。

色恋はべつとして、結婚となれば目標を変えなければならいのを、誰よりも厳しく判断したのである。

それは自分が根引きされた時からの信条であり、今日までの生涯で実証されたことであり、すべての女が、愛する男とのみ眠るものではないのを知っているからであり、それ故にこそ死にたがって泣く孫娘に対して、幼い彼女が、なにかお腹にわるい食べものでの欲しがってむずかるのを、宥めすかす調子であの説得をしたのである。

決して染めないで、毎朝、卵の白味で輝くばかりに洗い手入れされた切り下げの白髪で、かえって清麗に匂やかな祖母の顔が、その瞬間、なにか悪鬼じみた気味わるさで打ち守られた。

しかし三保子の怖ろしいのは、祖母の囁いたものが毒草のこぼれ種子のように、また刺青のように心とからだの二つながらに浸みつき、根をおろしたのに気がついたことであった、その罪の深さ、汚らしさが、はじめは彼女を身震いさせた。
どうかしてその呪文から逃げだそうとすればするほど、執拗に枕につけた耳もとに甦り、阿片患者めいた幻想に誘いこまれた。

卒業するとセレベスのゴム会社に行ったとかの噂もたしかでない吉良が、夜とともに戻って来た。

暗さはその呼吸と、体臭と、重さを感じさせ、四肢に触れさせ、愛撫を愉しませた。
三保子は彼に甘えた通りに甘えた。
愛しあったものの結婚は遂げられ、二年目には忠文が生まれた。彼が誰の子供であるかは、普通の母親がもつ特権とはまた別な秘密で彼女のみが知っていた。

同時に昼の夫なる眉目秀麗で、愚かで、金持で、それでいて絶えず小遣いの金額で会計主任と喧嘩する、ゴルフと、麻雀と、食べることのほかには考えない男に対しては、ますます従順な、優しい申分のない妻になって行った。」

「迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927



野上彌生子

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。





2016年10月1日土曜日

20160930 親戚の師匠のことについて・・

本日は仕事にて近く(信濃町~千駄ヶ谷)を通ったことから、昨年初夏に亡くなった親戚(叔父)の位牌にあいさつをしてきました。

昨年夏前に帰郷し、当時、病床にあった叔父と様々な話をさせて頂いた記憶は多分、忘れないでしょう。

思い返してみますと、私の文系学問に対する興味のごく初期での動機付け、知的好奇心駆動の原動力は、主に、この叔父による影響・感化であったのではないかと思われます・・。

他の兄弟もまた、古今東西の歴史・文化に対する興味は少なからず持っていましたが、私のようにはなりませんでした・・(そちらの方が良かったのかもしれませんが(苦笑))。

かえって私も後に兄弟達が進んだ医療系の学問分野(基礎)での研究活動を行うことになりましたが、その分野に入ることはありません(できません?)でした・・。

この時のことは現在考えてみても、思うところがありますが、とりあえず学位取得にまでは至ることができました・・。この時お世話になった皆様、どうもありがとうございます。

そして、学位記を当時まだ元気であった叔父のもとに持参すると、修士号取得時よりも、かなり喜んでおられました。その後、さらに学位記を持参し祖父母・兄の墓、千葉県市原市にある、かつて(明治~大正期)小学校の校長、そしてそれ以前は沼津、菊間藩士であった御先祖の石碑まで報告に行きました・・。

こうした行動から、おそらく、その当時もD2病のままであったのと思われます・・(苦笑)。

またそれに加え、生前の叔父の多くのハナシあるいはその眼差しから、どうも、こうした考えを惹起させる「何か」(酔わすもの・・?)があったのではないかと思われます・・。

そしてそれが、ある種の文系学問のエッセンス(先に投稿したブログ記事における歴史感覚)のようなものであったのかもしれません・・。

さて、さきにも書きました石碑ですが、以前在住していた鹿児島市内においても、こうした地元出身の歴史的偉人の顕彰碑、石碑などが多く見受けられました(特に市内加治屋町)。

それらの顕彰碑、石碑などの配置から、明治10年(1877)の西南戦争において、西郷軍側として戦い亡くなった方々と、敵対する官軍側として戦い、その後、政府中枢の顕職に就いた方々の多くがごくごく近くに生まれ育ってきたことが理解できます・・。

このような地域とは我が国においては少ないのではないでしょうか・・?

そして、牽強付会であるかもしれませんが、そうした背景を持つ地域に住んでいたことから、帰郷後の私はそのような行動をとったのではないかと思われます・・(笑)。

以上のことから、私の背景には、歯科医療系の要素がいくらか存在するのであろうとは思いますが、同時に、それ以上に文系学問の要素が存在するのではないかと思います・・。

それ故、手前味噌ながら考えてみますと、私とは、どちらの分野(歯科、文系)においても中途半端であると評されるかもしれませんが、一方、これは丁度良い適度の発露の配分(歯科・文系)を持っているとも考えることが出来るのではないでしょうか・・(笑)?

そして願わくは、今後あともう一つぐらいの学問分野において、そうした発露が出来る程度にがんばってみたいと考えておりますが、さて、どうなるでしょうか・・(笑)?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。








2016年8月24日水曜日

20160823 投稿記事397記事 ロールモデルの変遷 万世橋の銅像 

本日のブログ記事の投稿により、記事投稿総数が397となり、とりあえずの目標とする400記事まであともう一息といった状況になります。

そして実際にそうなってみないと分かりませんが400記事に到達しますと自身の内面において何かしら変化が生じるのでしょうか・・?
あるいは自身の外においてもまた、何かしら面白いことが生じるのでしょうか?
あるいはまた、双方共に生じるのでしょうか・・?

しかし、たとえ何かしらそうしたことが生じたとしても、それは自身にとって必ずしも良いとは言い切れないのかもしれません(長い目で見た場合をも含めて)・・。

それ故、今後、上に記したようなことはあまり念頭に置かず、ただ出来るだけ無心になり、もうしばらく記事作成を継続しようと思います・・。

とはいえ、ブログ記事作成におけるある程度大きな区切りに近づきますと、やはり多少なりとも、上のようなことを考えてしまうのが自然なのではないでしょうか・・・(苦笑)?(果たして本当か?)

また、不思議なことに、そうしたことを考えはじめますと、そちらの方に想念が奪われる、集中するためか、肝心のブログ記事の着想が思うように浮かんできません・・(苦笑)。

そして、現在記しているこの文章とは、一通りそうした想念に捉われた後「本日分のブログ記事は書籍からの抜粋にしようか・・。」とあきらめ半分に考え始めた頃「いや、それであれば、そうした現在の想念そのものをブログ記事として記せば良いのではないか?」と考えを改め、如上のような次第となっております(笑)。

とはいえ、ここまで記しますと、今度はそこから先の文章が思い浮かばず、一端キーボードから手を離し、ひとしきり何かしらの着想が浮かぶまでボーッとすることになります・・(苦笑)。

また、ここでジタバタして「何かしらの着想が浮かぶのではないか?」と考え、傍らにある書籍などに手を伸ばすことは往々にしてあまり良い策ではなく、逆にその書籍に飲まれてしまい、着想どころではなくなることが私の場合少なからずあるようです・・(苦笑)。

そして、このように文章の着想が浮かぶまでの経過を着想として扱い、それを記していますと、果たして如何なる着想が浮かぶのであろうかと考え、そのままを記しておりますと不図思い起こしたのは、昨日投稿したブログ記事への反応であり、これはまた私にとって新鮮なものであり、下に示す考えがそこから得られました・・。

昨日投稿したブログ記事最終部近くにて「我が国における(一つのそして代表的な)男性像のロールモデル、理想像とは近代の西郷隆盛で終息、終焉したのではないか?」といった意味のことを記しました。

しかし、もしかすると、それは太平洋戦争の敗戦(以降しばらく)まで万世橋のたもとに立っていた銅像のモデルもまたそうであったのかもしれません・・。

とはいえ、この戦後に撤去された銅像の周辺、つまり東京都千代田区には、他にも戦前からの銅像が比較的多く存在し、本日も大山巌、品川弥二郎の銅像の横を通りました・・。

では、なぜこの万世橋の銅像とは撤去されなければならなかったのでしょうか・・?

これには諸説あり、現在なおその確たる背景、真相とは見出されていないようです・・。

あるいはまたその背景、真相とは見出されると面倒な何かがあるのでしょうか・・?

とはいえ、おそらくそこには日本近現代史あるいは我が国国民性の暗部といったものが少なからず隠されているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございました。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの早急な復旧そしてその後の地域、県全体の復興を祈念しております。