丁度140年前本日の鹿児島の街とは大変なことになっていたのではないかと思われます・・。
明日2月15日とは西郷隆盛率いる軍勢が東京に向けて発った日です。
その日はこの地域のこの時期にしては珍しく雪が降っていたとのことです・・。
その当時の鹿児島には一体どのような『気風、精神風土』といったものがあったのでしょうか?
ここまで書いて不図、ある著作の一節を思い出しましたのでそれを下に示します。
そしてその内容に『地域の歴史を貫く何か』とは幾分含まれているのでしょうか・・?」
金関丈夫著 岩波書店刊 「発掘から推理する」pp.13-17
「中国の文献んで辺境の民族のことを記載するものに、しばしば「男逸女労」、すなわち女が労働す、男は遊んで暮らすように書いたものがある。台湾の高砂族や、琉球島民に関するものにも、その例が多い。
高砂族は最近まで、あるいは今なお、男は原則として労働はしない。ただ三年に一度、焼畑をするときに、山刀で山の木を伐る。これがほとんど唯一の労働である。
しかし、彼らは三年に一度の労働以外に、何もしないのではない。狩猟をする。それから、今は止まったが、敵対部族と戦争をする。そして、少なくとも一生に一度は、儀礼用の首狩りをする。
これが男の仕事だ。
狩りも戦争もないときは、のらくらと煙草をふかして遊んでいる。
ときどき子守りをおおせつかる。
その生活は江戸時代のさむらいそっくりだ。
といって、主君もちの養われ者ではない。
貧乏ではあっても、手内職をやるような落ちぶれ者でもない。さむらいの中でも、最も純粋なものだといえよう。
だから、日本の巡査どもが、道路を造るといってはひっぱり出す。宿舎を建てるからといって材木を担がせる。元来がさむらいの仕事ではない。強制と多少の賃金のほしさから、やるにはやるが、いさぎよしとしているわけではない。その賃金をごまかされたり、強制が過酷だったときに、山刀をふるって、役人どもの首をちょん切る。これが昭和五年(1930)の霧社事件の発端である。
大和朝廷が隼人を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることさえ知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。
それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ、反乱以外に彼らの歴史はない。霧社の山人に霧社事件以外の歴史がないのと同様である。
昭和三十三年(1958)の夏、薩摩揖宿郡山川港付近の、成川の遺跡を発掘した。厚い火山灰砂層の下に、たくさんの隼人どもが眠っている。その文化は弥生期の終末から古墳期のはじめのものだから、ほぼ三世紀の初頭のものだ。
これを隼人と呼ぶには問題があろう。しかし欺かないのはその体質だ。頭は短頭で、身長は低い。頭形示数も推定身長も、現在の山川港付近の住民のものと、ぴったりと一致する。
脛骨のひどく扁平なことだけが、今の連中とちがっている。
これは彼らが脚の筋肉を今の連中よりもよく使用した、その生活の差からきたちがいだ。
三世紀から今日まで、薩南の住民に入れ替わりがなかったとすれば、その中間にいた隼人の、彼は近い祖先だということになる。
おもしろいのは、成川遺跡人の副葬品である。
男にも女にも、明らかに服飾具といわれるものはなに一つない。
男の墓には、ほとんど残らず鉄製の武器がある。
これだけ徹底的に服飾品がなく、またこれだけ旺盛な武器のでた遺跡は他にない。
その一角に立って見渡すと、古書にいう「男児辺野に死をいたす、馬革しかばねを包んで還葬さるべきのみ」といった気分が、この墓地にはみなぎっている。
彼らが尚武の民であったことは一目瞭然だ。その剛健の風は、婦女子にも及んでいた。真に薩摩隼人の名にふさわしい。
その当時彼らが、自らをハヤトと呼んでいたかどうかはわからない。
ハヤトはおそらくは他称で、自らはツォーあるいはこれに近い音で呼んだであろう。ツォーは熊襲(クマソ)のソウで、インドネシア一帯では「人」あるいは「我ら」をさす。
すなわち自族を意味する自称である。
「肥前国風土記」は、値賀島の白水郎(あま)は隼人に似て、その容貌や言語は、普通人と違っているといい、「大隅国風土記」にのこる隼人の語彙は、多くの学者によって、南方語に結びつけられている。
これだけで直ちに、隼人が南方渡来民だというのではないが、彼らが南方語を使用していた疑いは濃厚である。
その疑いの一つを挙げると、薩摩や大隅の地名で、ここには頭にイの音をいただくものが多い。藺牟田、伊佐、伊佐敷、市来、入佐、入来、伊集院、納薩、伊作、指(揖)宿、伊敷、伊座敷などがそれである。
これらは日本語としては、意味のとれないものである。
一方例は少ないが、他の地方では見られない知覧、知林のごとく尻が撥音で終わるものがある、これも意味はわからない。
ところで、頭にイをのせ、尻でラン、ロンをひびかす地名は、琉球をへて、台湾の東海岸から、フィリピン、さらに南方には非常に多い。
地域内にも連絡があり、台湾以南では、それがインドネシア語の地名であるわけだから、これから推理される結果は、いわずとも知れている。
「国造本紀」には仁徳朝に、薩摩にヲサすなわち通訳官のいたことが記録されているし、「続日本紀」には養老六年(722)に、大隅薩摩の隼人の乱の平定に功のあった通訳官に、勲位を授けたらしいことが見えている。
この記録の解釈が正しければ、八世紀なってもまだ隼人との折衝に、通訳を要したことになる。
ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなく南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。
爛熟した文明の頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」
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