2020年11月21日土曜日

20201121 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に「週刊朝日」でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック 強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに、”人道的”といえるのである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させて頂こう。「・・船中は予想外の混乱なり。船倉も三段設備にて、中隊176名は3間と2間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず・銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導を続けていることは疑問なり」

 これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言い換えれば、ひざを抱えた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべては、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船倉の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーッと見え、むーっとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もベタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述したプラットホームである。

 そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船倉いっぱいにつめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船倉をつたって海に流れ落ちる。だがその数も十分ではないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが24時間つづくから、船自体が糞尿まみれで走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てから殆ど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さにふるえながら船倉におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船倉内を耐えがたくし、そのため人々は、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい3分の1の、千人であろう。

 こんな異常な事態は船舶司令部の「居眠り訓示」などで、どうにかなる状態ではない。戦局は到底内地で想像しているような事態ではない。だがそう思わせたのは、船内のこの状況だけではなかった。バシー海峡までなぜ2週間もかかるのか。南へ向かっているにになぜ雨に濡れた兵士が寒がったか。理由は潜水艦を恐れて前頁の航路をとり、しかもジグザグ行進をするからである。だが、この航路をとれば安全というわけではない。アメリカの潜水艦はすでに沖縄列島の線を越え、東シナ海で縦横に活躍している。そのため海防艦3、駆潜艇5が船団を護衛しており、すでに3回の対潜警報と、1回の爆雷攻撃が行われていた。バシー海峡が危いという話は聞いていたが、日本が、「天皇の浴槽」日本海とともに自分の海同様に思っていた沖縄以北さえもうこの有様とは、当時の内地では想像もできず、戦争はまだ遠い遠い南のはて、そこで一進一退の前哨戦が行われているとみなが思っているのだ。だがこの現実を見れば、大陸への兵站線さえ、すでに半ば遮断されている。驚いた、「こりゃ、とんでもないことになっている」。すべての者が船内船外のこの実情を膚で感じてそう考えないわけにはいかなかった。

 人間は、置かれた実情が余り苦しいと、未来への恐怖を感じなくなる。というのはいまの状態に耐えているのが精一杯、「どうでもいい」という形で、それ以外の思考が停止するからである。ラッシュアワーの電車の中で水の配給・食事の配給・排泄まで行いつつ2週間もたてば、「もし衝突したら・・」という恐怖を抱く余裕のある者は、一人もいなくて不思議ではない。簡単にいえばそういう状態であろう。従って、それまでに聞かされていた「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2溌で15秒で沈む。三千人のうち助かるのは十二、三名」といった恐ろしい話さえ、実感とはならなかった。

20201120 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」pp.13-15より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」pp.13-15より抜粋ASIN : B00J861M36

 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方には私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。

 しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて行く玩具のような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。

 出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」という観念に安住し、時局便乗の虚言者も、空しく談ずる敗戦主義者も一絡げに笑っていたが、いざ輸送船に乗ってしまうと、単なる「死」がどっかりと私の前に腰を下ろして動かないのに閉口した。

 私の35年の生涯は満足すべきもではなく、別れを告げる人はあり、別れは実際辛かったが、それは現に私が輸送船の上にいると云う事実によって、確実に過ぎ去った。未来には死があるばかりであるが、我々がそれについて表象し得るものは完全な虚無であり、そこに移るのも、今私が否応なく輸送船に乗せられたと同じ推移をもってすることが出来るならば、私に何の思い患うことがあろう。私は繰り返しこう自分に言い聞かせた。しかし死の観念は絶えず戻って、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。私は遂にいかにも死とは何者でもない、ただ確実な死を控えて今私が生きている、それが問題なのだということを了解した。

 死の観念はしかし快い観念である。比島の原色の朝焼夕焼、椰子と火焔樹は私を狂喜させた。至る処死の影を見ながら、私はこの植物が動物を圧倒している熱帯の風物を眼で貪った。私は死の前にこうした生の氾濫を見せてくれた運命に感謝した。山へ入ってからの自然には椰子はなく、低地の繁茂に高原性な秩序が取って替わったが、それも私にはますます美しく思われた。こうして自然の懐で絶えず増大して行く快感は、私の最後の時が近づいた確実なしるしであると思われた。

 しかしいよいよ退路が遮断され、周囲で僚友が次々に死んで行くのを見るにつれ、不思議な変化が私の中で起こった。私は突然私の生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然推しのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。少なくとも、そのために万全をつくさないのは無意味と思われた。