2024年9月29日日曜日

20240929 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.53-55より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.53-55より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 1848年における基本的な対立は、二つの原理、すなわち王朝による国土所有の原理と国民主権の原理との対立であった。前者は封建制に起源を持ち、歴史的に発展して残ったもので、深く根付いているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいており、単純で説得力があったが、化学的に純粋な水のように生きた有機組織には向かないものだった。1848年の同時代人にとって、王朝による所有原理は専断と専制政治を意味し、主権在民主義は人権と国民自治を意味した。大雑把に非常に単純化して言えば、この対立は当時の人びとには、合理対不合理、自由対反自由の対立と映ったのだった。

 議会制度を通して維持される英国型の代議制内閣責任制政体は、当時の人びとには、現実的にフランス革命の基本原理を保障するものと思われた。彼らは、所有原理が英国民の生活にいかに深く浸透しているかを理解していなかった。この国では、悪弊までもが買い戻し価格付き価格付きの自由保有権となる傾向があり、今日に至るまで、世襲制度が議員の選任にも及び、私法と公法の基本的な明確な区別も存在しないのである。王朝の所有権は、土地所有を中心とし、それを通して機能する。これにたいして、主権在民主義は、主として土地とは別に考慮される人びとの権利である。「フランス王」という称号は、この領地に基づく原理を強調していたが、「フランス人の王」という称号は、力点を人的要素に移し、人民主権に敬意を払うものだった。都市集中の増大と都市文明の成長は、領地に基づかないイデオロギーの発表を刺激するが、遊牧民の状態へ完全に戻るのでなければ、領地という基本的要素は排除できないのである。人びとの集団と土地の広がりとの相互作用を回避するすべはなく、この相互作用が歴史の本質を成しているのである。

 中欧では、王朝による国土所有の原理は、ハプスブルグ王朝に最も顕著に現われ、ドイツ連邦の弱小領邦諸国においてはその下手な模倣が見られた。どちらの場合も、主権を有する国民国家の基礎を提供しはしなかった。ハプスブルグ王朝では、そのような国家の出現は、住民の多様性によって妨げられた。「仲間意識の欠如のために」、これらの住民は、「彼らの自由を維持したり、最高の権威を有する世論を形成したりするために団結すること」ができなかった。彼らの団結の絆は、主として王朝によるものであった。フランクフルト議会の左派指導者の一人であるシュセルカは、1847年、この絆について次のように詳しく述べた。「・・・オーストリアの人びとは、・・・彼らの幸福な土地で、ハプスブルグ=ローレイン王室の歴史的に有効な世襲権を通して、一級の大国にまとまった。これがオーストリアである」。ここでは、1848年以降も、70年間、純粋な王朝による所有原理が生き続けた。この原理は、時どき、特定の国家的利益によって支えられたが、その構成分子の間の共同体感覚によって強化されることは一度もなかった。最後まで、オーストリア諸州は、王領地という意味ありげな呼称を用い続けた。一方で、ドイツ連邦の弱小領邦諸国は、国民的有機組織としての実質を欠いていた。準備議会が、フランクフルト国民議会の標準選挙区を住民五万人で一選挙区と規定した際には、この大きさを満たすことができないどんな領邦でも、独立した選挙区を構成すべきであるという寛容な但し書きが付け加えられた。幾つかの領邦の場合、そのちっぽけな領地は、幾つもの断片から成り立っていた。これらの断片は、実は大きな封建的地所であり、逆説的だが、主権国家としての優遇的地位を賦与されていた。ハプスブルグ王朝を頂点に、最下層のドイツ連邦弱小領邦諸国まで、王朝による国土所有の原理は、ドイツ、イタリア全土と、ドイツ諸王朝の強大なシンジケートを通して、ヨーロッパ大陸の大部分に浸透したかに見えた。メッテルニッヒは、ハプスブルグ王朝のために、王朝による所有の原理を意図的に促進した。それ故に、国民主権の原理を求める闘争ードイツやイタリアの統一、中東欧における諸々の小民族の勃興ーは、最初にして最大のハプスブルグ王朝にたいする闘争となったのである。