2017年7月24日月曜日

20170724 駅で見かけたポスターから思ったこと【コスプレ・カラオケ】創造とは?

首都圏にて電車の乗り降りをしておりますと、アニメのポスターがやけに多いことに気が付かされます・・。

私はアニメを鑑賞する習慣がなく、またそれらに登場するキャラクターがやけにデフォルメされていることから、それらを何らかの人格的な記号としては認識出来ますが、同時にそれらを観て魅力的であると感じることはありません・・。

もとより、元来マンガ・戯画などに登場するキャラクターとは、そういったものであったのではないかと思われます。
(それが変ってきたのは江戸時代の浮世絵あたりからでしょうか?)

しかしながら、それが、さまざまな意味での興奮を惹起させるものになり得る、そして逆に、あるいはそこからさらに進んで、生身の人間の方がアニメのキャラクターに似せよう、近づこうとする(コスプレ)ことは一体どういった心的傾向に基づくものであるのかと、不思議に思うことがあります・・。

アニメに登場するキャラクターのコスプレとは、ある特定の対象に『近づきたい』、『なりきりたい』といった願望に基づいているのでしょうが、おそらくそれ(コスプレ)は、『予め理想像が提示されている』という意味において、一般的なお洒落、衣装道楽とは『外見、見栄えに凝る』といった意味では類似していると思われるものの、本質的には異なるものであるといえます。【視覚的な即物性の背後にある思想が異なる】

ではコスプレと類似したものを求めるとすれば、それは『予め理想像が提示されている』という意味においてカラオケが挙げられるのではないかと思われます。

そして御周知のことではあると思われますが、これら(コスプレ・カラオケ)とは、我が国が発祥とされており、また現在となっては我が国が世界に誇る文化であるとされております。

私はこの意見(世界に誇る文化)に対し特に批判的な意見があるわけではありませんが、ただ、それらが『予め理想像が提示されている』という意味において、何と言いますか、我が国の特徴とされる『凝集性もしくは求心性』といったことに思い至るのです。

とはいえ、無論のこと、そうであるからといって『その文化には創造性が乏しい』といった意見に単純に結節するわけでもありませんが・・。

とはいうものの、このことをもう少し考えてみますと、その『凝集性および求心性』とは(あくまでも)原理的な創造とは異なるものであり、またそこから、時折耳にする我が国の別の傾向としての『原理から離れた部分におけるさまざまな操作が巧みである』あるいは『閉じた一つの系における数学が得意である』などに対しても親和性を見出すことが出来るのではないかとも考えられます・・。
(人に対する難癖の付け方もまた、そうした傾向があるのかもしれません・・(苦笑)。)

また、もしも、それら挙げられた傾向の基層、根源において何かしら共通するものが(実際に)あるとすれば、それは古来より現代に至るまで外来文化の受容に迫られた・明け暮れた我が国特有の歴史によって培われた性質ではないかとも思われます。

そして、それがある程度妥当なものであるとすれば、おそらく『面従腹背』といったコトバにも、あるいは積極的・肯定的な意味合いを持たせることが出来るのかもしれません・・。

もちろん、あくまでもそれは自由闊達な精神の顕現ではないのでしょうが・・(苦笑)。

しかしまた、文化とは、どの国においても、概ねそういった事情を背負って成立しているものであるとは云えるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』




















20170723 目標設定の仕方と教育について・・ブログ記事の作成から

A「昨日投稿分の記事もまた投稿翌日の割には多くの方々(32)に読んで頂けました。

読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

加えて、週末ということもあってか、昨日全体の閲覧者数もまた比較的多かったです(500以上)。

昨今における一日のブログ記事閲覧者数は200~400程度であり、以前に比べ、その数は大分少なくはなりましたが、自身の場合、あまり多くの方々に読まれていると、変に身構え、そして萎縮してしまうところがあると思われますので、この位の方々に読んで頂けるのが最適ではないかと考えます。

その一方で、これまでの通算では240000人近い方々がこのブログを閲覧されているということになり、これはなかなか(自身としては)驚くべき数値あるいは出来事であり、また、それらがどのように読まれているのかは分かりかねますが、ともかく、こうした状況の認識により、そう簡単には記事作成を止めることが困難にもなるのです・・(苦笑)。

それと多少関連することですが、今回の記事の作成・投稿によって総投稿記事数が695となり、次の区切りの良い目標である700記事まで残すところ5記事の投稿となります。

この先、特に問題なく700記事に到達することが出来ましたら数日間記事作成を休もうと考えています。

さて、無事に700記事まで到達した場合、目標とする1000記事までの道程の七割まで達したことになりますが、果たして、その先の300記事もまた、これまでと同様の投稿ペースにて書き続けることが出来るのでしょうか・・(笑)?

これに関しては、おそらくこの先800記事程度までは難なく到達することが可能であろうと漠然とながら思うところです。

しかし、その先のことになりますと正直なところ、あまり想像することは出来ません・・(苦笑)。

とはいえ、
以前の私もまた、こうした思いにて、これまでの記事作成を継続してきたと云えますので、おそらく800記事に到達することが出来れば、自ずとその次の想像可能な領域が見えてくるのではないかと幾分楽観視しております・・(笑)。

また、こうしたものは、さきに投稿したブログ記事に書いた実験および読書などにおいても、概ね似たような心情によって支えられており、自身としては、当初より無理に大きな目標を掲げる方が余程無茶なことではないかと思われますが、如何でしょうか・・?

また、あくまでも私見ではありますが、このような『目標設定の仕方』とは、人の教育においてもかなり重要であり、この『目標の設定』を上手く行うことが出来る人こそが普遍的な意味での優れた教育者ではないかと思われるのです・・。

これは、無論のこと、教える内容を熟知していると同時に、人間に関する実際的な世間知といったものをも備えていないと行い得ないことから、かなり難しく、あるいは自身の経験から、我が国の場合、理系・文系を問わず、時代(戦前は別として)が下るにつれ、こうした教育を施すことが出来る教員が徐々に減少しているのではないかと考えさせられます・・。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された地域での生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』