2022年11月28日月曜日

20221128 総投稿記事1900への到達から思ったこと

おかげさまで、直近数日間投稿してきました引用記事はどれも、比較的多くの方々に読んで頂けました。これらを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた今回の記事投稿により、総投稿記事が1900に到達します。以前立てた目標では、年内に1900記事に到達出来れば、とりあえず自分としては及第としていましたが、今回の1900記事到達により、その目標を少し変更し、年内に、多少の誤差(±5程度)は許容して、1920記事まで到達出来ればよしとします。

さらにまた、先のことを述べますと、来年の出来るだけ早いうちに、かねてより目標としている2000記事に到達出来ればとも思うに至るのですが、これに関しては未だに現実感はありません。とはいえ、2018年に1000記事に到達してから(また)右往左往を繰り返して記事作成を継続して(どうにか)1900記事に到達したことにより、さきに述べたように現実感はないものの、相対的には以前よりも2000記事への到達は現実味を帯びてきたとはいえます・・。

そして、こうした現実感、実感はないものの、自分が作成する何らかの数が増加することによって生じる変化はたしかにあるようで、これをさらに続けてみますと、また以前とは異なった現実感・実感をも得ることが出来るのではないかとも思われるのです・・。

思い返してみますと、2015年の当ブログをはじめた当初は、こうした公表を前提とする文章の作成についてはまったく知らずに、そしてまた、そのやり方、進め方を指南してくださる存在もいませんでしたので、引用記事を含めて、自分が書くことの出来る類の文章を作成してきましたが、その内容については、今現在に至るまで上達しているのであるか、未だによく分かりません・・(苦笑)。

ともあれ、そうしますと、2000記事到達への現実感もなく、さらに、これまでの文章作成に上達があったのか分からないままで、1900記事まで(どうにか)ブログ記事の作成を続けてきたことになりますが、それを可能にしたものとは、やはり読んで頂いている方々の存在であったと云えます。

さらに、ここ3年ほど(2年11カ月)は、ツイッターなどSNSとの連携をしてきたことにより、ブロガーの統計情報での閲覧者数の変化だけでなく、生の反応もあり、私としては当ブログ作成への意欲も多少は励起されたように思われます。

また、この連携をしてから時折、お目に掛かった方々から「ブログ読んでいるよ」といったことを言って頂くこともあり、思い返してみますと、これまで10人以上はいらっしゃっいました・・。そして、これまで(どうにか)継続してきたからこそ、ここ最近になり、そうした反応を頂くことも出来るようになったのではないかとも思われます・・。

そのように考えてみますと、2015年の開始当初の頃は「とりあえず何かしら文章を作成しないと・・」という強迫観念のようなものに突き動かされており、また同時に、当ブログは私にとって、そこまで重要と云えるようなものではありませんでしたが、記事数と期間が進むにつれ、私にとって当ブログは大きなもの、あるいはネット上ではあれ、自分を代表するものになっていったように思われます・・。

こうしたことは、以前では考えたことがありませんでしたので、やはり何かしらの外向きと云える活動を継続していますと、そこまで大きなものではないのかもしれませんが、内面に何らかの変化といったものが生じているのかもしれません・・。とはいえ、現在においてもやはりスランプはありますし、毎回スムーズな記事作成とはなりません・・。しかし、それでも、こうした活動を続けることによってのみ、遅々としたものであるのかもしれませんが、文章作成が出来る自分へと(どうにか)変化することが出来、そして次の何かに繋げることが出来るのではないかと思われるのです・・。そのため、また今しばらく記事作成を続けたいと思います・・。

そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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どうぞよろしくお願い申し上げます。











20221127 中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.414-416より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.414-416より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

古代日本はその政治的勢力が一時、朝鮮半島に進出して、半島の勢力均衡にたいしてある重量的な影響を及ぼしたことは事実である。また日本の特殊な物産、おそらく砂金などの貴金属が交易のために、大陸に向かって輸出されたであろうことも推測されるが、そのほかには、ことに文化的にはもっぱら大陸の文化を輸入するだけで、日本の文化が大陸に逆流する場合はほとんどなかったものと考えられる。もっとも平安朝時代に日本製の紙が中国貴族に喜ばれ、中国になくなった古書が宋の朝廷へ逆輸入されたなどのことがあるが、これを中国文化が日本へ流入した量とくらべれば、物の数でもなかったであろう。

 しかしこのことは、日本の文化がまったく中国の文化に隷属したことを意味するのではない。中国から流入した大陸文化は日本へ落ちつくとそのまま土着して、日本的なものに変化させられたのである。日本文化が中国へ逆流しなかったということは、文化水準において中国がはるかに高度であったとともに、日本の文化の基底が早くから中国とは異質的に発達してきたためである。中国人は朝鮮では箕子の井田の跡しか問題にせず、日本にたいしては秦の始皇帝によって派遣された徐福の墓の外には興味をもたず、ごく近世に入ってから後でも、日本における中国を追求するが、日本における日本そのものを研究する意図をもたなかったのである。

 大陸における政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本へ渡来した。その中には文字を解する知識人もまって、かれらは史部として、朝廷における書記の職を世襲した。日本に輸入された漢字は、最初のうちはその音・訓ともに、本来の漢字のままに用いられたのであろうが、ただ地名・人命などの固有名詞を写すさいには、いきおい中国でもしばしば行われるように、漢字をたんなる字音として用い、いい換えれば一種の音符としてのみ使用した。また逆にあまりにしばしば繰り返して使用する文字は、漢字音のほかに、やがて日本字訓が与えられてそれが固定するようになった。ここにおいて文章をつづるのに、漢字法によらずに、日本語そのものを漢字音とをあわせ用い写すことができるようになってきた。「祝詞」「万葉集」「古事記」のような日本古文字はこのようにして出現できたのである。

 いわゆる万葉仮名は、漢字を単なる音価として用いるが、そこに一定の法則がなかったために、一音を写すに手あたりしだいに無数の漢字を選びだして用いた結果、書くにも読むにも多大の不便を伴わなければならなかった。ここにおいて、つぎの段階に入って、まず日本語の発音を整理し、これに相当する漢字を特定なものに限り、さらにこの漢字の形を省略して仮名を発明することができた。この光栄ある発明者はふつう弘法大師の業績とされるが、実際は確かなことはわからない。ただ五十音図はじつはインドの声明という発音字の影響によって日本で組織されたものであるという、もちろんこの声明も、中国を経過し仏教とともに日本に流入したものであるが、発明は中国において反切の方法を発明させたに止まり、ついに普遍的な音符の製作を見ないでおわったのに反し、日本においては東アジア諸国にさきがけて、この便利な音符文字を発明したことは、まことに誇るにたる功績といってよい。生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級にまで普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのである。日本ではその後もついに中国のような士大夫階級を発生させないですんだのは、ここにその一原因を求められるであろう。