2025年2月14日金曜日

20250213 紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①

紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①
はじめに
 紀伊半島は列島内でも特に山がちで嶮しく平野が少ない。そして、半島を走る紀伊山地西麓からはじまる複数の河川は、単に自然の地形に沿った流れというものではなく、それら河川流域に住む人々に、時代を通じて、多大な影響を与えてきた。特に水稲耕作が本格的にはじまった弥生時代以降、それぞれの下流域沖積平野には、比較的大きな集落が営まれていたことが、さまざまな遺跡等から確認でき、また、
当時の社会構造や周辺地域との交易関係なども推察できる。
 
 当記事では、紀伊半島を流れる河川について、北から①紀ノ川、②有田川、③日高川、④南部川、⑤富田川と、それぞれの地理的特徴および歴史・文化的な背景を述べる。

①紀ノ川流域について
地理と概要
 紀ノ川は、特に降水量が多いことで知られる奈良県の大台ヶ原山を水源として、和歌山県北部を横断して紀伊水道へ注ぐ全長約136キロメートルの河川である。また、古くから大和(奈良)と紀伊(和歌山)とを結ぶ重要な水路であったことから、大和(奈良)に首府が置かれた時代はもとより、それ以前の水稲耕作がはじまった弥生時代より、その流域は栄えてきた。

弥生時代と銅鐸の出土
 古代より紀ノ川流域は交通の要衝であり、また特に可耕面積が広い下流域は弥生時代より栄えていた。そして、同時代に用いられ、近畿地方・西日本各地で数多く出土する青銅製祭器である銅鐸もまた紀ノ川流域から複数出土しており、その様相はさまざまであるが、紀ノ川以南の富田川までの銅鐸出土例がある主要河川下流域と比較すると、総じて後期大型の銅鐸は、平野部の紀ノ川のごく近く、あるいは中洲などから出土し、対して、初期・中期の比較的小型(~50㎝程度)のものは、集落跡、丘陵地といった平野内陸部から出土する傾向がある。また、これを先述した他の河川流域での出土様相と比較すると「三国志」内「魏志倭人伝」に記述がある「倭国大乱」(2世紀後半)との関連性も検討され得るが、ここでは扱わない。
 ともあれ、一つ興味深い事例を挙げると、弥生時代の紀ノ川下流域にて拠点的な集落であったと考えられる太田黒田遺跡(JR和歌山駅近く、戦国末期、織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの際の抵抗する紀州勢の主要拠点であった太田城の跡も近い)からの出土銅鐸は、当地(紀ノ川南岸)特産の緑泥片岩(紀伊青石)による舌を鐸内部に伴い出土し、またそれは、島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(加茂岩倉4号・7号・19号・22号鐸)と同笵(同一の鋳型で作成)であった。そこから、弥生時代の紀ノ川下流域の社会とは、同時代の出雲地域と、何らかの祭祀文化を共有する関係であったことが示唆され、また、そこから、出雲神話にある大国主(オオナムヂ・大穴牟遅神)が、八十神達からの再度の襲撃を逃れるため、木国(紀伊国)の大屋毘古神(イタケルノミコト・五十猛神)のもとに避難したという話が想起される。

 その後、3世紀代、古墳時代に入ると、紀ノ川下流域においても銅鐸による祭祀は廃され、代わって当時代を代表する古墳が造営されるようになった。また、紀ノ川下流域において造営された古墳において特徴的であるのは、6世紀代(古墳時代後期)以降、我が国にて普及した朝鮮半島あるいは大陸渡来の墓制、横穴式石室を用いた比較的小型ものが圧倒的に多く、また、それらが平野丘陵部に集中し墓域を形成し、いわゆる群集墳となっていることである。そして、この群集墳の盟主的存在が当時、当地の国造であった紀氏であると考えられている。しかし、この紀州での紀氏とは、当群集墳の系だけでなく、同下流域北岸の大谷古墳の被葬者もまた、そうであったと考えられている。大谷古墳は副葬品に、国内で3例のみ出土例がある大陸的要素が強い馬冑があったことで知られ、そこから、当古墳の被葬者が、当時、5世紀代に半島でのヤマト朝廷の軍事活動に従事した人物であったことが示唆される。その他にも同下流域には、特徴的な遺物が出土した古墳があるが、それらの事例から、古代ヤマト朝廷が外征などを行っていた時代の紀ノ川下流域とは、大和盆地から外に進出する際の要衝であったことから、国内外の文物が蓄積し易い環境であったものと考えられる。さらに、この視座は、次の有田川下流域について述べる際にも有用と考える。そしてまた、これまでの記述から、以下に示すコンラッドによる「闇の奥」冒頭部近くの記述を模したブログ記事の作成を試みたのか、ご理解して頂けるのではないかと考える。

『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀ノ川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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