2021年3月15日月曜日

20210315 継続的なブログ記事の作成があまりスゴくない理由について・・

以前にも記事題材として書きましたが「ブログ記事の作成は1000記事を過ぎてからが勝負」とのことですが、たしかに1000記事到達以前の頃と比べますと、1500記事への到達を間近に控えている現在は、記事作成時に感じる圧のようなものが、徐々に大きくなっている感じがあります。ここは、何も考えずに記事作成を行うことが出来れば良いのですが、他方で、そのように思えば思うほどに、記事作成時に感じる圧は大きくなるといった性質があるようにも思われます・・(苦笑)。

とはいえ、記事作成時の圧はどうであれ、記事作成自体は今しばらく続けませんと、当面の目標としている1500記事まで到達出来ないことから、本日については、比較的帰宅が遅かったにも関わらず、さきほどから記事作成を始めた次第です。ここで作成した記事が果たして本日(20210315)分として投稿できるかどうかも現時点では全く不明であるとは云えますが、何れにせよ、とりあえずは書き続ける以外ないようです・・(苦笑)。

さて、ボクが作成しているブログ記事を時々読んでいると直接聞いたことがあったのは、文系院時代からの友人のみであり、この方は時折電話にて話していますと、読まれたブログ記事についてのことを会話に交えたりしますが、その他の方々からは、どうしたわけか「ブログを読んでいるよ。」といった反応を聞くことはありません。

それでも、数人の方々からは、ボクが何か継続的に書いていることはご存知であるのか「そこまで継続的に文章を書けるのはスゴイよ。」といった主旨のことは云われたことがありました・・。

しかし、この「スゴイよ。」とは、書いているボクからしますとスゴいものではなく、むしろ、何か強迫観念のようなものによって記事作成を行っているようにさえ感じられ、そこから不図、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」作中の「文学は天職ではなくて、ひとつの呪いです」という北杜夫のどくとるマンボウ」シリーズにも何度か登場するコトバが思い出されます。

もちろん、私は今現在、文学・著述によって生計を立てているわけではありませんが、それでも、文章を書き続けるということ行為自体に、何かしら、否応のない向き、不向きといったものがあるのではないかと思われるのです・・。それはスポーツでの才能のように。そして、文学の場合は、スポーツでのそれとはまた異なり、簡単には富やそれが齎す市民的幸福には結節し難いといった性質があるのではないかと思われるのです。そして、そうした事情を背景として、以前の投稿記事の「太平洋戦争について述べた著作を読んで思ったこと「シビュラの書」末尾にて「文系の師匠が仰っていた「歴史の女神様はとても嫉妬深くてね、この女神様に好かれると、他の女性はどうしても近寄って来れなくなるんだよ(苦笑)。」といった冗談めいたコトバですが、当時は「何をカッコ付けているのだろうか?」と割合冷やかにこれを眺めていましたが、現在になりますと、何となくその意味、そしてそれ以上に、その背景にある悲哀のようなもののが理解出来るように思われます・・(苦笑)。」にも共通したものがあるのではないかとも思われるのです。

ともあれ、以前であれば、さきの「トニオ・クレエゲル」内のコトバと、文系師匠のコトバを結び付けようとは思わなかったところを、こうして記事を書き進めて行くうちに、繋がったということは、もちろん、その繋がり・関連性自体には議論の余地が多いにありますが、それでも、こうした、いわば文章による抽象化を行ったところではじめて感知されるものとは、ボクとしては、それなりに大事なことであるように思われるのですが、さて如何でしょうか。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。